愛に恋

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火花 又吉直樹

 
研ぎ澄まされた感性というのは高価な濾過器みたいなものだろう。
飲むに値する清涼飲料水を常に提供するだけの装置を兼ね備えているわけだが、これが芸術家の濾過機となると、清濁併せ呑ませる奇怪な濾過機を必要とするから一般販売はしていない。
才能が濾過機を作るわけだが、その濾過機がどのような仕組みになっているのか、例え、それを見ることが出来たとしても一般人には作ることが出来ない点が悩ましい。
 
例えばである。
ゴッホがスケッチしている風景を、その横で私も見ているとする。
しかし、ゴッホのようには描けない。
同じ風景を見ているのにである。
 
小説家の場合はどうであろう。
平安神宮の桜を私も見たが決して谷崎と同じように描写できない。
努力は才能を超えられないという格言があるが、果たして芸術家に必要な感性とは努力によって補っていけるものだろうか、私には甚だ自信がないのだが。
 
漫才師はどうか?
実際、漫才師にはならなかったものの、話し上手な人というのは我々の身近にもいる。
しかし、それが職業となると、笑いのツボのありかを知る努力が必要になるのではないか。
話芸を展開しだした時点で既に着地点の笑いが見えていなければならない。
 
まあ。能書きはいいとして、見つけてしまっては買わなければ意味のない本だった。
近所の古本屋で遂に『火花』の文庫本が私の訪れを待っていた。
こんな日がいつかくるだろうと予測していたのだが。
 
ところで芥川賞作品だが、過去、芥川賞受賞作で感動した作品というのに巡り合ったことがない。
故に今回もどうなんだろうかと懐疑的な気持ちのまま読み始めたが。
ただ、例年と違うのは受賞以前から作家のことを知っていて、尚且つ、固定概念があったという点だろう。
普通、芥川賞作家というのは受賞するまでは誰も知らないのが常である。
 
又吉直樹という人のイメージは。
大人しい、暗そう、言葉数少な、弁舌も爽やかではない、という概念だったが。
しかし、意外と言っては失礼だが、なかなか人間観察が鋭い。
オスカー俳優にはなれないが優れた演出家のような一面を垣間見た。
例えばこんな場面。
 
その日は、世田谷公園を一緒に歩いていた。辺り一面の木々はいかにも秋らしく色づいていたのに、なぜか一本の楓だけが葉を緑色にしたままだった。
「師匠、この楓だけ葉が緑ですよ」
と僕が言うと、「新人のおっちゃんが塗り忘れたんやろう」と神谷さんが即答した。
「神様にそういう部署があるんですか」
「違う。作業着のおちゃん。片方の靴下に穴開いたままの、前歯が欠けてるおっちゃんや」
 
「徳永、俺が言うたことが現実的じゃなかったら、いつも、お前は自分の想像力で補って成立させようとするやろ。それは、お前の才能でもあるんやけど、それやとフンタジーになってもうて、綺麗になり過ぎる」
 
主人公、徳永の師匠神谷は売れない芸人の割には、たまに理解に苦しむ哲学的なことを口走る。
その二人の会話が漫才の本質を突いているのか、人間の根源的なことを言っているのか解り難い場面が多々ある。
しかし、文学にありがちな、心のありかを見透かすような思考や言動は、本職がお笑い芸人がために、本作受賞後、周りに意外な一面を提供してしまって、1人浮いてしまうようなことがありはしないかと心配にもなるが。
 
最近、第二作が出来たと聞いたが、と同時にコンビ解消の話しもある。
又吉君は確かに作家として独り立ち出来る技量があることが、この作品で証明されたと思う。
 
 
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