毎度の事だが感想文を書くのに劈頭、何から書き出していこうか、時に、湯舟に浸かりながら黙々と考えることがある。
中には書評の上手い人もいるが、拙い文章で悪戦苦闘、まあご勘弁あれ。
本書は、原敬の養子、原奎一郎氏が1971年に刊行したものを、中央公論社が2011年に再販したもので、内容的にはタイトル通り、政治向きのことはあまり書かず、夫、または父親として人間原敬そのままが描かれている。
大使館は旧大久保利通邸を使っていた関係上、大久保の次男、牧野伯も招待されたわけで、食後、牧野伯は子供時代を過ごしたこの家の思い出を語り、大久保暗殺時に遺骸が運ばれた部屋をみんなに説明したという。
その時、原首相は、じっとその場所を見詰めていたのが印象的だったと、後にベルギー大使は語っているが、将にその翌日が原首相の暗殺日になろうとは誰予想したであろうか。
はて、二人の年齢差、どちらが上だったか気になったので調べてみた。
原 敬 安政3年2月9日(1856年3月15日)
大正10年11月4日、この本には書かれていないが凶行時、周囲の者は暴漢だとは思わず誰かが首相にぶつかったものとばかり思っていた。
しかし実際は心臓を一突きの即死で、いつも着用していたフロックコートを、この日は着てこなかったはずで、いずれにしても、あっという間の出来事だった。
その場所に先年行って来たが、構内、もっと奥まった場所かと思っていたが、意外に入口から近く、本当に瞬時の犯行だったろうに。
余談だが私が上野に足を運んだのは、おそらく過去3回ぐらいだろうか。
著者によると大正の初年度、まだ二頭立ての馬車で通勤していた時代、親子で何度か上野に馬車で出向き、帰りは決まって精養軒でアイスクリームか洋食をご馳走になったと書いているが感慨深い記述だ。
大久保利通が暗殺されたのは明治11年だが、暗殺の風聞があるのにも関わらず、最後まで護衛を嫌い、原敬共々大事な命を落としたが、二人に共通しているのは、殺られる時は殺られるという武士の覚悟と臆病の誹りを免れたいという気概のようなものではないかと思う。
昭和5年の濱口首相狙撃もやはり出来るだけ護衛は少なくと、日々、言っていたのが災いし、結果が凶変となって新聞の一面を飾った。
ある日のこと原敬は、人相見に、
「あなたは畳の上では死ねない。人手にかかって死ぬ」
と言われ、
「人手にかかって、か。そりゃたまらんな」
と言っていた原敬だったが。
ある日訪ねてきた知人が床の間に掛けてある掛け軸を見て、一目で偽者と分かりこう言った。
「これはお宅の応接間に飾るのはちと不釣合いな代物ではございませんか」
「いや、これを私にくれた人は、ニセモノだと思ってくれたんじゃないから、こうして、その人の好意をかけているのです」
とにかく本書は知られざる原敬の一面を間近で見ていた息子の証言だけに面白い。
奎一郎氏が父の薦めに従って英国留学に旅立ったのは大正10年10月19日。
横浜から父母に見送られての出発で、マラッカ海峡を通過の11月5日夜、一通の電報が母より届く。
「父昨夜、東京駅にて暗殺さる。帰るにおよばず。まっすぐ英国へ行って勉強なさい」
暗殺当夜、内閣書記官長からの電話は・・・!
「総理が、総理が・・・」
と言って絶句したままで言葉が出ず、夫人はこう切り替えした。
「どうしたんですか、宅が・・・・やられたんですか?」
盛岡で執り行われた葬儀の時、夫人はいずれ私がここに入る時、主人と同じ高さに埋めて下さいよと言っていたらしいが、その夫人、浅さんは程なく1年半で他界。
洋行に旅立った奎一郎氏は結局、横浜での見送りが今生の別れとなってしまい、帰国後には関東大震災で家も全焼してしまった。
あまりの目まぐるしい変転にさぞ驚いたことだろう。
ところで「すれ違い」と題してこんな記述がある。
大正二年九月初め、奎一郎氏が小学五年の時、夏休みで盛岡に帰省していた氏は、水害で東北線が不通のため九月に入っても東京に帰れず、とある一日、両親に連れられて盛岡北郊の報恩寺という寺に維新の際、ここで処刑された南部藩筆頭家老楢山佐渡の血染めの襖などを見学した思い出を記している。
後年、氏は宮沢賢治の年譜に目を通していると、同じ大正二年の九月に、
後年、氏は宮沢賢治の年譜に目を通していると、同じ大正二年の九月に、
「北山報恩寺の尾崎文英師の下に参禅、頭を剃って登校。以後高農在学中もしばしば同寺に参禅す」
とあるのを発見し、ハテ、と思ったらしい。
自分達が報恩寺に行ったのはいつのことだったかと。
自分達が報恩寺に行ったのはいつのことだったかと。
さっそく原敬日記をめくってみると、大正二年九月四日の項に、
「墓参をなし、又報恩寺に往き五百羅漢を見、尾崎文英住職、過日来訪につき答訪し、維新の際、楢山佐渡が処刑せられたる室等を一覧せり」
とあるのを読んで、
「或いは賢治もこの日、寺に居たのかも知れぬと思うとなにやら袖振り合うも他生の縁と思わずにはおれない」
と書いている。
さすれば賢治と原敬は九月四日に同寺で擦れ違ったかも知れない。
面白い話しだ。
しかしそれにしても中央公論社、よくぞこんな売れない本を再販してくれたものだ。
実を言うとその昔、この本の単行本を持っていたのだが処分してしまった。
そして今回、再販されているのを知り再読してみようと思った次第也。