明治日本では薩摩の海軍、長州の陸軍などと言われるが、日清戦争時の内閣と陸海軍の主要人事を見ると以下の如くになる。
伊東祐亨(薩)。
奥 保鞏を除いて全員が薩長。
日露戦争では首相桂太郎(長)外相小村寿太郎(日向)満州軍総司令官大山巌(薩)陸相寺內正毅(長)海相山本権兵衛(薩)連合艦隊司令長官東郷平八郎(薩)伊東祐亨軍令部長(薩)乃木希典(長)児玉源太郎(長)。
友三郎は文久元年に芸州藩下級武士の子として生まれているが、芸州藩は第一次長州征伐の折り幕軍として参戦した経緯がある。
維新後、明治17年に海兵7期として卒業。
日清戦争では砲術長として「吉野」に乗船。
大将に昇進後は、寺内、原、高橋と四代にわたって海相を歴任。
しかし、元帥海軍大将加藤友三郎の名は現在では全く忘れられてしまったが「アドミラル・カトー」に対する評価は欧米では圧倒的らしい。
議題は英米10の艦船量に対し日本側は7という要望だったが、結局、加藤は対米英比率、6割で条約を可決し自らの手で八・八艦隊構想を葬り去った。
何しろ当時の国家予算内で、32・5パーセントという膨大な額が海軍予算。
加藤の名は一躍世界に広まり米敵対路線から日米友好協調路線への転換と受け止められた。
大命を拝受し死力を振り絞って政務に励む加藤だったが、既に大腸がんに侵され余命幾ばくもなかった。
また加藤は軍令部の廃止も提唱しており、かなり思い切った斬新な改革だが、それだけに身内の敵も多かった。
現役総理の死去は原に次いで二人目。