愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

共同研究 パル判決書 (下)

1941年10月、国家としての日本の存在自体が深刻な危機にさらされていた時、多少とも要職にあった政治家や外交官は、挙げて国家の名誉を傷つけずに滅亡から免れる方法を見出すのに頭を悩ませていた。彼らは重責を担い、そして勇断を持って差し迫った危険に対処するという、厳粛な義務の履行求められている。そんな時、東條は窮迫した危機を十分承知のうえで登場してきた。併し、11月26日、東郷外相に送られて来た、いわゆる「ハルノート」では、日本の陸、海、空軍および警察の中国および仏印からの即時かつ無条件の撤退。蒋介石政権以外の中国の政府または政権否認、三国同盟の破棄。こんな条件を飲めるはずもなく、これは日本を戦争に駆り立てる罠としかいいようがない。事実、東郷外相の手記を読むと、とてつもない衝撃を受けたと書かれている。現代の歴史家でさえも、こう言っている。「今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものと同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも合衆国にたいし、ほこを取って起ちあがっただろう」と、それほど日本にとって受け入れがたい条件だった。これは世にいうルーズベルトの罠だと私は思っている。その証拠にルーズベルトとハル国務長官は提案を日本側が受諾しないものと思って、日本の回答を待つことなく、米国の前哨地帯の諸指揮官に戦争の警告を発している。それに判決内容からしておかしいではないか。東郷外相は開戦、終戦内閣の外務大臣だったが、どちらの場合でも軍に同調して侵略を遂行したことなどない。松井大将に至っては軍律を引き締めをることを病床から何度も命令していた。しかるに南京入場は陥落後の17日ではないか。何ゆえ死刑判決なのだ。更に言わせてもらえば本土空襲で何千、何万と殺しても不時着すれば身柄はジュネーブ条約で守られ、捕虜の虐待は厳しく禁じられているため身の安全は計れる。そんなバカな。バターン死の行進についてはどうだ。マレー半島に於いて10万のイギリス軍が3万4000の日本軍に降伏した。その結果、炎天下の中、輸送機関もなく食料に困り、マニラまで9日間の120キロ行軍となり多くのイギリス兵が死んだ。そして戦後、本間雅晴中将が銃殺刑になった。じゃ、どうすれば良かったのだ。大体からして10万からの将兵を要しながら降伏するのがおかしい。総じてこの裁判は勝者による敗者への復讐裁判でどこにも公正なものはない。確かに無謀な戦争に踏み切った当時の指導部にも罪があろう。併し、あの段階で日本の取るべき道はなんだったのか、戦争以外に何があったのか私には解らない。最後に、膨大な論文に誤りが3つあったのを付け加えておく。先ず、河本大作大佐は(かわもと)ではなく(こうもと)と読む。次に東条英機ではなく東條英機が正しい。最後に1941年10月、東條内閣が第三次近衛内閣に代わるではなく逆だ。第三次近衛内閣が東條内閣に代わるとなる、以上。