愛に恋

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「ムーンライト・セレナーデ」 菊富士ホテル

夢二はもう、何ヶ月とは持つまいと思われるひこ乃を見舞うのに都合がいい様、病院に近い本郷の菊坂の菊富士ホテルへ住まいを定めた。ホテルとは名ばかりで、一種の高等下宿のそのアパートには、社会主義者や、学者や音楽家や亡命詩人や、様々な奇妙な下宿人がいて、国籍もインド人、中国人、ロシア人とインターナショナルなので、夢二のような風変りの人間がころがりこんでも格別珍しがられることもなかた。夢二は、時間の許すかぎり、菊富士ホテルからひこ乃の病室を見舞ったが、次第にあまりの痛ましさからひこ乃の顔を見るのも辛くなってきた。ひこ乃はその年がついに越せず、クリスマスも過ぎたある夜、夢二にも逢えないまま、短い生涯を閉じていった。「二十五歳で死にたいわ」いつかひこ乃が夢二に話したように、ひこ乃は二十五歳の最後の月にこの世を去った。大正八年、夢二、三十五歳の暮れであった。その菊富士ホテル跡に行ったのは、あれはいつだったか、もう5年ぐらい前だったか。味気ないマンションが建っていて、その横に小さな石碑で「菊富士ホテル跡地」とあった。ただ、ここから谷崎はじめ、いろんな著名人が出入りしていたんだなと、昔を忍ぶばかしの通り道だった。「ムーンライト・セレナーデ」のお時間です。おやすみなさい、また明日。