愛に恋

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ゴヤ 1 スペイン・光と影 堀田善衞

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以前から、どうも苦手意識のある作家に辻邦生と、この堀田善衞を自意識的に挙げていたが、ブックオフで『ゴヤ 全4巻』があるのを見て衝動買いをしたままお蔵入りさせていた。

然し、いつまでも棚の肥やしにしているわけにもいかず、どっこらしょと重い腰を上げたはいいが、更に腰が、否、気持ちが重くなるほど読みづらい。

約2000ページ、これは長期戦覚悟で取り組まなければならない夏バテ本みたいなものだが、やっと第一巻を読み終わった。

 

とにかくまあ何と申しましょうか、著者はスペイン語を解す博覧強記の人で、それはもう歴史、哲学、宗教、文学と何でも御座れのスーパー・ワールド、歴史を上下に紐解き、絵画史を縦横に述べまくり語り尽くす。

つまりはゴヤが生まれる遥か昔の暗黒の中世から、20世紀スペイン市民戦争まで講談するわけだから大変だ。

何しろこちらはベラスケス、フェリペ国王、ナポレオンぐらいか知らないので、のべつ幕なし、地名、人名と聴けど知らずは吾ばかりの書で悪戦苦闘この上なし。

といっても役目柄、感想文は書かなきゃならず、女の尻を追いかけている場合ではないのだ。

 

扨て、スペインとは何かとくるわけで、即ち、スペインとはスペイン語カトリック教の城壁を巡らした城ということらしい。

スペインにはイスラム教とユダヤ教の侵攻があったものの他のヨーロッパ諸国のような宗教改革がなく、あるのはルター派カルヴァン派の新教徒運動に対する、監視機関としての異端審問所の活動のみ。

 

この悪名高き異端審問所は、ピレネーの東側でルネサンスの胎動が見られていた頃、恐るべき殺戮方法を考案しては日夜遂行していた。

例えば人間を生きたまま焼く。

1471年から1781年までの310年間に、32,000人が焚殺、17,000人が絞首刑、291,000人が投獄、以前にも書いたが、いったいカトリックは何のためにあるのか。

少なくとも仏教に於いては魔女狩りなどない。

ともあれ本書はこんなことから始まり、当面、ゴヤなどは出て来ない。

異端審問所についてもう少し著者の弁を借りたい。

 

この異端審問なるもの、中世の終わりと近世のはじまり時期とを、火刑の火と血で塗りかためた異端審問なるものほど、神の名において、あらゆる不義、不正、偽善、欺瞞、私利私欲、迷信、衒学、違法をば、また人間に考えられる限りのありとあらゆる種類の拷問そのものを、崇高な正義であり、美徳であるとして、何十万とも、その数さえも特定出来ぬほどの無実の人間を殺し続けたものは、まず人間の歴史に、他にはあるまいと思われる。

 

全くだ、神の名の下の冤罪、そして焚殺、火あぶり。

今や歴史の彼方に於ける事実だからこそ、情緒を乱されることなく読めるというものだが、ちょっと指が火に触れただけでも「熱っ」と言って驚くのに全身これ火だるま。

おぞましい限りの所業ではないか!

 

浅学の徒、ダメオとしてはこのような本を読む時、時に長くなる記事ではあるが、ここに著者の言われる論理を引用し忘れないように書き留めておきたいので悪しからず。

先ず、美術の鑑賞法に就いて。

 

・距離による形態表現の魔術は、まことに言葉を越える。

これは、離れて見ることによって見方が変わると言っているのだろうか。

 

・ものを見るということは、見ることに耐える、あるいはまた、見る対象に見られることに耐えるという営為を営むものでなければならない。

 

お前は私を鑑賞するだけの器が備わっているのかと問われているのか。

 

・芸術家がいなくなったときに、芸術院とかアカデミイなるものが出来るのは、どこの国の歴史でも同じである。

 

そういうものか!

 

・芸術家というものが、要するに誇り高い旅芸人であり、河原乞食であったということも、つねに忘れてはならないのである。働けるところで働く、注文のあるところで仕事をする、仕事のあるところが彼らの祖国なのである。

 

なるほどね、確かに一定のところで住み続けていては仕事にあぶれてしまう。

 

・芸術には七つの区分がる。

即ち、崇高、美麗、優雅、表現性、自然性、退廃、安易の七つで、美と自然は、一致するものではない。

 

美と自然は一致するものではない?

 

・要は、見ることである。美術とは何か。美術とは見ることに尽きる。その初めも終わりも、見ることだけである。それだけしかない。見るとは、しかし、いったい何を意味するか。見ているうちに、われわれの中で何かが、すなわち精神が作業を開始して、われわれ自身に告げてくれるものを知ること、それが見るということの全部である。すなわち、われわれが見る対象によって、判断され、批判され、裁かれているのは、われわれ自身にほかならない。

 

絵は見るほどに新しい発見があり、それに拠って精神の高揚を伴い、未だ定まるところを知らない浮遊した自分を戒めていることを定め、問い詰められている、先生、こんなようなことでしょうか?

 

扨て、スペインに就いては斯くある。

 

スペインとは東方と西方の混淆した、ある種の化け物のようの思われて来る。

しかし、ともあれ文化とはいかなる意味でも異民族交渉による産物であり、異なる文化の衝突、交渉そのものが文化の核心をなすものである。純粋無垢文化の範疇にはありえない概念であろう。たとえばベネチアを訪れた人は、そこにむしろビザンチンの文化を見出す筈である。

 

そうか、早速、来週にでも行ってみるか遥かなるベネチア

 

アラゴン人、カタルーニャ人、アンダルシア人と、彼らはスペイン人という自覚がない。

 

だから今でも国内に独立を叫ぶ人がいるのか。

 

ゴヤ家の妊娠と出産に就いても。

嬰児死亡率の高さは19世紀まで続いたとあるが、ゴヤは妻に合計20人の子を生ませ、成人したのはたったの一人で、彼女のしなければならないことは留守番と妊娠、これでは哀しみもさることながら体もボロボロだろうに。

 

ゴヤは旺盛な性欲もさることながら、徹底した出世主義者でエゴイストでもあり、妻ホセーファが1812年6月20日に死んだあと、2年4か月ほどしてから、レオカーディア・ソリーリャなる40歳も年下の女性に女児を生ませている。

ゴヤは既に68歳、そんな自信は私にはありません。

更に興味あることが書かれているので長くなるが引用したい。

 

まことに性欲のかたまりのような男である。動物学的な性欲の持ち主であったと見做してよいであろう、この点でも、ピカソは師の名に恥じぬ立派な弟子であったと言って過言ではないであろう。またカサノヴァの回想録には、たったの一回の性交で6回もの射精をした男が、”6回さん”という仇名で登場してきた。そしてヴィクトル・ユーゴーは結婚した初夜に、なんでも20回か射精をしたと自ら得々と記録している。

 

20回、一晩で20回!

そんな曲芸が出来るものであろうか。

正の字で回数を書いていたのか、本当だろうか。

私は19回も出来ないというのに。

 

世襲制については。

 

仮に次男、三男が育ったとしても結果的には厳格な長子世襲制度が実行されていたスペインでは、坊主になるか兵隊になるか、或いは街頭で物乞いになるか、植民地へ出て行くか生きる方法がなく、産業社会の形成が、他のヨーロッパ諸国に比べて2世紀も遅れていたという。

 

から、かなりなものだ。

つまりはイギリスが産業革命に向かって驀進し、フランスがルソーなどの啓蒙思想を経て大革命へと傾斜していくなか、スペインは後進国の様相を呈し、中世の領主制度のまま産業革命もなく、例えば首相に就任したアラゴン伯が最初に手を付けた仕事、政令第一号は。

 

爾後、首切り役人はツバ広帽子と長マントを着用すべし

 

旧態依然の政令と言わねばならない。

 

そしてゴヤ少年が登場するわけだが、ゴヤを描いた小説はたいてい村の、ある家の壁に豚、或いは盲目の老人の絵を描いていたところを、旅の神父が通りかかり、

 

「坊や、ワシと一緒にサラゴーサへ行かないか、サラゴーサで絵の先生のところへ弟子入りしたらどうか」

 

と、話しかけられ、

 

「父母の許しが得られたら、是非参りたいものです」

 

と始まり、生涯350余点の肖像画を描き、海をまったく描かない画家になり、つまり、

 

肖像画などの仮想的な背景などは別として、海景そのものを描いた絵は、まったく一枚もない」

 

となる。

 

ゴヤが登場する遥か以前の1660年8月6日、ベラスケスの死後、スペイン絵画はもう二度と生き返ることはあるまいと思われるほどに、殆ど完全に死んでしまった。

 

先にも述べたように、私はスペイン絵画や歴史に全く無知蒙昧なわけで、本書に書かれていること全てが斬新、例えばプロテスタントの(字義通りには抗議派)マルティン・ルターが言うには、

 

キリスト教徒はローマに近づけば近づくほど邪悪になる」

 

ローマ法王庁の堕落を糾弾している。

 

解説に宮崎駿堀田善衛こそ、もっとも尊敬する作家だと言っているが、私は宮崎さんほど読解力がないので何とも言えないが、確かに凄い作家だと思う。

然らずんばまだまだ読破までは先が長い、踏ん張りどころだ。 

 

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