愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

ダブル・ファンタジー 村山由佳

この人、何年か前に一度だけテレビで見たことがある。
失礼ながら小説家にしては可愛い人だという印象を持ったが、一度も作品を読んだことがない。
恋愛小説の名手らしいが、あまり愛だ恋だという本は好きな方ではないので、これまで遠慮してきたが、一枚の写真が読む切っ掛けを作った。
 
何と、右胸あたりに大きなタトゥーを入れている。
顔に似合わず大胆な、いや、女流作家でタトゥーをしている人など初めて知った。
或は無頼派かと思い俄然、人物的にも興味がわき遅まきながら初読みとなった作品がこれ。
なんでも今月16日から水川あさみ主演でWOWOW放映だとか。
顔は知っているが演技力の程はどうなのか、作中人物とは年齢が近い。
 
しかし、役柄は難しかろうに。
単行本494頁の長編で6人の男と濡れ場がある奔放な女を演じなければならない。
脚本ではどうなるのか分からないがテレビではあまり濃厚な場面は期待出来ないのだろうか、しかしまあ、何れにしてもベッドシーンを受け入れて出演を了承しているわけだから、はてさてどうなることか。
 
さてと、村山由佳の人物像だが、よほど場数を踏んで来たのだろうか?
佳境に入った恋愛を冷静に見つめる目がないと、こうは書けまい。
また、性描写にしたところで体験してない事はリアル感が伴わないので書けないとした場合、ここに表現されている淫靡な世界は既に体験済みということになるのだろうか。
確かに本人、インタビューでこんなことを言っている。
 
「身体だけでなく気持ちまで達してしまうセックスを経験してしまうと、それに勝るものはないというのが実感です。満たされてますよ。でも、もっと上があるかもしれないし、フフフ」
 
「性は、私のなかでとても大きなものでした(略)私はまだ極めていない、知らずに死ねるか」

「私、たぶん、殺されても死なないくらい生命力が強いと思います。それくらい性欲が強いのです(笑)」
 
二回の離婚歴があり現在はハーレーダビッドソンを乗り回し軽井沢で誰か他の男性と住んでいるような。
ここまで言われては読むしかあるまいて。
因みに『ダブル・ファンタジー』だが近著の『ミルク・アンド・ハニー』というタイトルから見ても分かるとおりジョン・レノンのアルバム・タイトル名から取っているのであろう。
ともあれ、『ダブル・ファンタジー』は中央公論文芸賞島清恋愛文学賞柴田錬三郎賞三賞に輝いた作品でなるほど、確かに上手い。
ここまで性や愛に対して透徹されては男としては怖い女性と言える。
何がどう上手いか少し紹介したい。
 
その熱があっという間に体じゅうにこもり、結び目をほどいて溶かしてしまうと、ほかのことなどまるで考えられなくなる。そういうことがしゅっちゅうある。年季の入った自慰でとりあえず落とし前をつけてみる。熾火(おきび)はたいてい燻ったまま残る。そんなときは、性的欲求の薄い夫のことがうらめしくなる。
 
年季の入った自慰でとりあえず落とし前をつけてみる。
凄い、天晴れだ!
 
私のほうが彼より百万倍も性的な欲求が強い、ということなのです。それともう一つ彼にはどうも、女の性における微妙な部分に関して徹底的にデリカシーが欠けている、ということ。決して思いやりのない人ではないのですが、そのあたりだけはどう説明しても理解の外にあるみたい。
 
これは旦那に対しての苦言。
真理を抉ってますね。
 
私は自分のことを正真正銘の淫乱だと思っています。ほんの少しでもエロティックな刺激をうけるとすぐ反応してしまうし、一度そうなると、とにもかくにも果てを見るまでは止まらない。絶対に我慢がきかない。貞操観念も、性に対するタブー意識も罪悪感も、この欲望の前にはまったく無力です。
 
けれど、どうしようもない。もう戻れない。この圧倒的な気持ちよさ、替えのきかない愉悦を、望むときに、望むだけ味わえる自由。
 
確かに圧倒的性欲!
 
揺るがない優しさこそがほんとうの男らしさだと気づくとき、たいていの女はすでに年老いてしまっている。
 
これ、凄いね。格言と言ってもいい。
 
大きさは、まずまずだった。奈津は、健康な大型犬の糞を連想した。ころりとしていて、わりに硬い。押し入ってくる時だけ少し期待もしたのだが、ほんの二、三往復で、奥を突かれるにはやや長さがたりず、圧迫感を愉しむにはやや太さが足りないことがわかった。形状の問題なのか、摩擦以外の刺戟がほとんどない。
 
奈津とは主人公の名だが、しかし作者はここまで考えているとなると、もしも私が村山由佳と性交渉を持ったとして、こんなに冷静に観察され、しかも表現者として書かれては堪らない。
 
奈津のそこは、激しく勃起していた。かつて夫の省吾から(世界一大きいクリトリス)などと揶揄されたこともある部分が、今や世界一小さいペニスとなってそそり立ち、脈打っている。
 
なるほどね!
見事な表現だ。
 
躰はもう結構というくらい満足しているのに、あの声だけ、あの妙に素直な呻き声だけ、何度でも聞いてみたかった。
 
男のイク時の声をね!
 
こうして大林の寝息を間近に聞いていると、奈津は、今この瞬間の自分の気持ちさえわからなくなってくるのだった。大林を想う時に、胸の奥で何かがコトリと音をたてて甘やかで凶暴な衝動に思わず身震いしそうになるのは、本当に彼に心を奪われてしまったからなのだろうか。それとも、このたまらなくせつない胸の痛みこそが、他の何よりも生きている実感をもたらしてくれるから、ただそのために、誰かを好きでいようとしているだけなのか。ちょうど、ある種の人々が人生の悦びをギャンブルの興奮の中でなければ得られないと同じように。
 
つまり「恋愛体質」というわけだ。
昔、セックスがいいと、その人の何が好きなのか分からなくなるよね、なんていうことを聞いたことがあるが、要はセックスは人生の媚薬ということなのかも知れない。
ただ、それに溺れやすい体質の人と、そうでない人の違いなのか。
女性の、ここまで赤裸々な解釈は聞いたことがなかったが、いや、実に素晴らしい。
 
夫を残し単身上京した奈津は5人もの男と次々に情事を重ね、性の欲求を満たしていくが最後にこんなことを言っている。
 
ここまで来た以上、もう後戻りはしない。女としてまだ間に合う間に、この先どれだけ、身も心も燃やし尽くせる相手に出会えるだろう。何回、脳みそまで蕩けるセックスができるだろう。そのためなら、そのためだけにでも、誰を裏切ろうが、傷つけようがかまわない。そのかわり、結果はすべて自分で引き受けてみせる。
 
この小説を読みながら奈津と著者の顔がオーバーラップして何度も脳裏を横切った。
まさか著者の自叙伝とまでは言わないが、どこまでが経験値に基づいて書かれているのか是非、インタビューを試みたい心境になる。
本書は男性より寧ろ女性に読んでもらいたい。
共感するもしないも自由だが規制や一般的価値基準を無視するかのような自由で奔放な人生を謳歌する、意外に人間の本音と本質を見るような気もしないではないが。
とにかく、自己の羞恥心を振り切るように、また振り切らなければ書けなかった本書に賛辞を贈りたい。
さすがに三賞受賞作のことだけはあった。