愛に恋

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へうげもの 古田織部伝―数寄の天下を獲った武将 桑田忠親

 
井上靖、晩年の作に『本覚坊遺文』という傑作がある。
あくまでもフィクションだが利休の弟子だった本覚坊が遺した文章を通して利休居士の死の謎に迫るという話しで87年に映画化されヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞している。
主演は奥田英二だが三船敏郎萬屋錦之助加藤剛芦田伸介東野英治郎など錚々たるキャストで地味ながら見応えのある映画だった。
 
私はこの映画で初めて非業の死を遂げた古田織部と山上(やまのうえ)宗二という二人の茶人の事を知り、以来、二人に興味を持っていたが何しろ茶道の知識が全くないので適当な本もなく、これまで放置してきたが、先日、古書店の棚に本書を見つけ手に取って見ると意外に綺麗なので、やや難しいとは知りながら買う事にした。
さて、家に帰ってよくよく見ると何と前書きに昭和43年初春の記述。
つまり50年前の本の再販だった。
著者は既に物故しているが、何かこの名前には聞き覚えがあったのだが思い出せない。
 
当時にあって、新資料などを駆使して書き上げた本ではあるが、以来半世紀、その間にも織部に関する新発見などもあるかも知れないので、あくまでも本書は50年前の起点で書かれていると思って読んだ。
書くにあたって著者はこんなことを言っている。
 
近頃は細かいアラを無理に拾って定説を破り、新説を立てたような見栄を張る学者が多くなったが実証性に乏しい思い付きの新説では、定説を覆すことなど到底できない。
 
まさにその通りで、この「近頃は」というのは今日でも通用する事柄にも思う。
さて、本題を前に一方の山上宗二だが、利休の高弟で秀吉、利家に仕え最後は秀吉の怒りを買い耳と鼻を削がれて打ち首になった茶人。
余談だが、どうもこの秀吉という人は太閤になってからの所業が好きになれない。
天才的な戦略家だとは思うが五右衛門の釜茹、秀次と一族郎党の処刑、朝鮮に出兵し半島人の耳鼻を削ぎ塩付けにして送らせた事など如何なもだろうか。
更には黄金の茶室、または利休に詰め腹を切らせるあたり天下人になってからの秀吉はどうかしてしまったのではないのか。
 
まあいい、本題に戻す。
古田織部は利休の弟子でもあるが織部はれっきとした三万五千石の大名。
故に利休の手紙には「古田織部正(かみ)公」と敬称で書かれている。
更に織部天正十三年七月、従五位下という官位も授かる。
天正十三年というから信長の死後になる。
 
秀吉が利休の処分を言い渡したのが天正十九年二月十三日。
その日のうちに利休は聚楽亭の屋敷を出て舟で淀川を下り郷里の堺に帰った
追放令とあって他の大名たちは事態の容易ならざることを知り、みな秀吉の機嫌を損ずることを恐れ遠慮している中、細川忠興織部だけが船着場に見送りに来たと利休は記している。
その後、同月二十八日、七十歳でしわ腹をかき切った。
 
ところで織部の領国だが、山城の国西ケ丘となっているので今の京都府南部ということになるだろうか。
利休と違い美濃出身の地侍で千軍万馬の間を往来し、槍一本で手柄を挙げ、秀吉によって封じられた所領。
しかし、程なく知行地を嗣子の重弘に譲り、自身は亡父の遺領三千石を継いで楽隠居の身で茶事三昧の日々に耽り茶道を極めるようになって行く。
先にも書いたが茶道音痴の私では何も分からないので茶道の名人とは如何なるものか『山上宗二記』を借りて引用したい。
 
唐物茶器を所持し、道具の目利きに長け、茶の湯も上手な茶湯者としての資格があり、また胸の覚悟・作文・手柄の三カ条のそろった数寄者の資格を持ち、茶の道に深い茶人のことをいう。
 
分かっただろうか!
「胸の覚悟・作文・手柄の三カ条」とは何を指しているのだろう?
更に余談になるが40年程前の正月、愛知県犬山城近くにある国宝の茶室有楽苑「如庵」で一服、茶を戴いたことがあるが、私の経験では後にも先にも茶を飲んだのはこれっきりだと思うが。
 
ともあれ織部関ケ原の後、二代将軍秀忠の茶道師範となり令名を天下に轟かし、傍ら諸大名の茶事も指導していたが元和元年(1615)六月十一日に七十二歳で切腹して果てた。
理由は何か?
元和元年というと大阪夏の陣の年になるが。
ここからが問題なので詳細に読んでみると!
 
まず慶長十七年(1612)八月十三日、駿府で家康に謁見している。
十八日、豊臣の家臣、片桐勝元と江戸に赴き、その帰りとなる翌年三月二十九日、また駿府に立ち寄ってから帰郷。
翌十九年八月二十八日、清韓禅師を茶に招いてもてなした。
これがいけなかった。
家康の怒りを買ったのだ。
 
清韓禅師こそは豊臣家に委嘱され、洛東の方広寺大仏殿の鐘銘を起草した僧侶。
所謂方広寺鐘銘事件」の発端で、大阪冬の陣のきっかけを作った張本人。
問題の文字!
「君臣豊楽」「国家安康」
即ちこれ。
今に残る、その鐘を以前見て来た!
 
 
徳川の御用学者、林羅山に意見を聞いた家康が清韓鐘銘した語句に難癖をつけ、大仏開眼供養の中止を命令、これに驚いた方広寺造営奉行の片桐勝元が清韓禅師を連れて駿府に下向したのが八月十八日。
両者は弁明したが清韓は蟄居を命じられ帰郷。
その謹慎中の清韓織部はもてなしてしまった。
 
織部にとっては徳川の政令や家康の思惑など無視して茶の世界の秩序を重んじた結果のことだったが、十一月二十六日、冬の陣は始まる。
更に翌年、夏の陣の当初、織部の息子が秀頼の小姓として大坂城に居たことがバレ、大坂内通を疑われる。
 
「かくなる上は、申し開きも見苦し」
 
と言って、さっさと腹を切ってしまった。
言い訳も面倒臭いというわけだ。
とここまでは織部、死の真相だが、随所に茶道の奥床しさや作法といった語りがあり私にはまるで分らなかった。
例えば、あの小さな出入り口のことを利休時代には「くぐり」と言い織部の時代になると「躙口(にじりくち)」言うようになったとあり、その躙口の縦横の寸法と実に事細かく微に入り細を穿って煩わしいほど書かれている。
簡単に言えば素人向きの本ではなかった。
 
最後にタイトルにあるへうげものとは一風変わった風情の茶人、茶道具のことらしい。
 

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