愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

辻邦生著『背教者ユリアヌス』の魅力解き明かす

 
辻邦生著『背教者ユリアヌス』
この大作、難しくて読めませ~~~ん。
中公文庫4巻で1800頁ぐらいあるのか!
今日、学習院大学で講演があるとか。
行きたいけど往けない。
加賀乙彦先生の講演もある。
嗚呼、ため息!
 
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パメーラ・ジューン・クルック

 

この強烈なインパクト!

今や伝説になったビートルズアビーロードを1位の座から引きずり下ろしたアルバムとして有名ですね。
『キングクリムゾンの宮殿』、私も買いました。
 
当時のロック界はビートルズを筆頭にストーンズレッド・ツェッペリン、ディープパープル、オールマンブラザーズ・バンド、CCR、ムーディ・ブルース、イエスピンクフロイドエマーソン・レイク&パーマー、グランドファンク・レイルロード、サイモンとガーファンクルなど、居並ぶ強豪が犇めき、またビートルズ時代の終焉も近づいていたわけで。
T・レックス、デビッド・ボウイなどはもう2年ほど後でしょうか。
本当に洋楽シーンとしてはまたとない絢爛豪華な時代でした。
 
ところで、このジャケットのイラストを描いたパメーラ・ジューン・クルックは1945年生まれの女性画家だが、当時25歳だったということか。
しかし、なぜまたキングクリムゾンは彼女に白羽の矢を当てたのか、そのあたり、全く知らないが一躍脚光を浴びたことは間違いないだろう。
そしてこの度、諸橋近代美術館で回顧展が開かれるとか。
 
 
見たいけど、ちと、遠くないか。
 
 

放送禁止歌 森達也

1999年5月23日、放送禁止歌~唄っているのは誰? 規制するのは誰?』というドキュメンタリー番組があったらしいが私は見てない。
その番組を制作したのが著者で再放送があったら是非見たいものだ。
著者は樺美知子さんが死亡した1960年6月15日当時4歳だったというから本書が発売された2000年7月には44歳ということか?
 
60年代後半から70年代前半、フォーク全盛期にはメッセージ性の強い曲が次々に発売され次々に放送禁止になった時代でもあるが、それを誰がどう判断してお蔵入りにさせたのか追及していくような内容で、私の年代はぎりぎり寸前、以下のような曲を記憶する世代ではないかと思う。
 
岡林信康『手紙』『チューリップのアップリケ』
赤い鳥『竹田の子守唄
泉谷しげる『戦争小唄』
丸山明宏『ヨイトマケの唄
 
これらの歌は、なぜ放送されなくなったのか?
「放送しない」根拠は?
規制したのは誰なのか?
著者は、歌手、テレビ局、民放連、部落解放同盟へとインタビューを重ね、闇に消えた放送禁止歌に迫るノンフィクションだが知らないことが多すぎた。
上記以外で放送禁止用語に引っ掛かった歌詞も記載しておく。
 
六文銭『街と飛行船』
「まま子」「みなし児」
 
ジャックス『からっぽの世界』
「唖」
 
丸山明宏『ヨイトマケの唄
「土方」
 
更に美空ひばり『びっこの七面鳥加山雄三びっこの子犬』もタイトルが駄目。
支那の夜』も当然引っ掛かる。
これらを言葉狩りととるかどうかは判断の分かれるところだが著者にインタビューを受けたなぎら健壱はこのように言っている。
 
「結局、言葉には罪はないんだよね。使う人の意識の問題なんですよ」
 
ところで、私も若い頃はギターを爪弾き『竹田の子守歌』などを歌ったものだが、その『竹田の子守歌』や『五木の子守唄』などが被差別部落を歌ったものとして放送禁止の烙印を押されたとは当時知らなかったし、この話しも聞いたような聞かないような。
この曲が世に出たのは赤い鳥のリーダー後藤悦治郎が竹田のお年寄りから採譜したものをアレンジしたらしいが原曲とはかなりの相違があり規制に引っ掛かたのは「在所」らしい。
 
♪ はよも 行きたや この在所こえて
 
「こえて」をどう解釈するかによるが「在所」を「部落」と解釈する意味合いもあるとか。
しかし、当の赤い鳥もメディアもそんなことは知らずに曲は全国に流れた。
元々、竹田部落は秀吉による伏見城下町建設の折りに、七瀬川高瀬川の合流地域であるこの地に作られた集落が、竹田部落の発祥で以来、数百年差別されてきたことになる。
 
本作には敢えて「穢多・非人」という言葉が出てくるが、私も中学時代には歴史の科目で、その意味について習ったことがある。
勿論、差別を助長するのが目的ではなく現在でも、それらの風潮は根強く残っているということからで、ある日、全校生徒を講堂に集め『橋のない川』を鑑賞させられたが忘れられない名作で強く印象に残っている。
 
ともあれ『竹田の子守歌』は解放同盟、『悲惨の戦い』は相撲協会、『自衛隊に這入ろう』は自衛隊などから圧力があったように思われているが、実際にはそのようなことはなく慄いたメディアが自主規制したように書かれている。
性表現の規制も多い。
 
しおふき小唄』
『時には娼婦のように』
『極めつけ!お万の方』
原由子が歌った『I LOVE YOU はひとりごと』『かごめかごめ』『通りゃんせ』も部落問題に抵触したらしい。
 
放送禁止歌とは便宜上の言葉で正しくは要注意歌謡曲というらしいが、その要注意歌謡曲一覧は1983年版を最後に更新されることはなく、どうりで近年は放送禁止の曲がない思ったら、そういうことだったのだ。
歌詞やヌードなど規制が緩くなったのは時代の変化に合わせたということだろう。
 
ところでこんな話も載っている。
昔、オジー・オズボーン在籍のブラック・サバスというハードロック・グルプがあったが、彼らのグループ名が規制の対象になったという。
ブラック・サバスが部落差別と聞こえるとか。
20代の頃、私も彼らのライブを見に行ったことがあるが、そんな空耳アワーみたいなことは考えてもみなかったが。
因みにオジー・オズボーンは脱退し代わりにロニー・ジェームス・ディオが加入していた。
 
一読するに、どうも作詞者の側には差別意識があったわけではなく、当初よりここまで問題が大きくなっていくとは思っていなかったようだが、それは当然だろう。
しかし、あまり言葉に過敏になり過ぎる時代にはそれなりの問題もあるような気がするが、さてどうなんだろうか。
今日のように当たりさわりのないような歌詞ばかりが持て囃される時代は、これはこれで良しとした方がいいのか?
 

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ボブ・ウェルチ

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今日はボブ・ウェルチの命日と聞いて本日、二つ目の記事になってしまった!
もう40年程前の曲だが古さを感じさせない。
これぞポップスの王道といえる名曲だと思っているが、そんな才能がありながら何ゆえの凶行か。
 
2012年6月7日、銃で自殺しているところを妻に発見された。
ヘロイン中毒で逮捕歴もあるが才能の限界を感じたのか、日本ではまったくニュースにならないがアメリカでは死の真相は明らかにされているのだろうか。
フリートウッド・マックのメンバーの驚きも伝わってくるようだ。

黄色い虫: 船山馨と妻の壮絶な人生 由井 りょう子

 
船山馨の名前を知ったのは、その死を報じる新聞だったと思う。
作品を読まないまま伝記本を通読してしまったが、船山の死んだ当日夜、妻も後を追うように亡くなったということが印象深い。
船山馨の物語というよりは妻春子との借金、薬物中毒物語と言ったほうが適当かも知れない。
 
薬物とは無頼派作家御用達のヒロポンで昭和23年6月、太宰が朝日新聞に『グッド・バイ』連載途中に心中したため、その穴埋めとして船山に白羽の矢が立ったことが事の始まりらしい。
何の用意もなくお鉢が回ってきたことに戸惑った船山は、当時は誰でも簡単に手に入れることが出来たヒロポンに嵌り、不眠不休で連載小説を書く、それが地獄の一丁目だったと言える。
 
昭和22年、長女が僅か12日で亡くなったショックから妻春子もヒロポンに手を出し、夫婦揃って完全な依存症で原稿料の大半がヒロポン代になった。
しかし春子の奮闘ぶりは尋常ならざるものがあり対外的な交渉、事務全般、原稿料の請求、質屋への出し入れ、借金の願い、そして育児と家事。
ただひたすらに夫の才能を信じ、そして尽くした一生だったようだ。
 
晩年、船山は持病の糖尿病を悪化させ全盲になるが、甲斐甲斐しく夫に尽くす春子の姿は涙ぐましい。
明治生まれの女には珍しく、嫁に対して、
 
「家事などしなくてもいい、それより本を読んだり、いい音楽を聴きなさい」
「ごみなんてものは扇風機で吹き飛ばせばいいのよ」
 
と豪放磊落。
その日、昭和56年8月5日午前7時過ぎ、看病疲れのため小休止した妻に看取られることなく船山は逝った。
1日が慌ただしく過ぎ、弔問客も帰った夜9時半頃、
 
「お葬式がすんだらみんなでハワイへ行きましょう」
 
と言って、卓上に残った寿司を一つ口にした春子は胸を押さえて突然倒れる。
夫67歳、妻71歳、共に心不全の最期で比翼連理の二人だった。
幸いにして晩年に書いた『石狩平野』と『お登勢』が共に好評でヒロポンとも手を切り借金を完済しての旅立ちだった。
壮絶な二人の生涯だが、こんな夫婦もいるわけだ。
 

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奇蹟の画家 ★ 石井一男

大して能力はないが好奇心だけは旺盛、それ故、新しい発見があれば、どうしても参考文献を読みたくなる。
 
通り過ぎてたはずの記憶のきれはしが流れの杭にひっかかっていた。

流れの杭に引っ掛かっている想い出がある
何処までも溯っていけるような錯覚を覚える
 
と、読んだだけで、石井一男なる画家に興味を持った。
顔ばかり画いている人で来歴を見るとこんな記述がある。
 
72年、加古川に転居、加古川に点在する小さな石棺仏を見て歩く。
 
作品の顔はどれも仏像のそれを思わせるものばかり。
40代半ばから独学で絵を学び、これまで一度も人に作品を見せたことがなかったそうだで49歳にして初めて個展を開く。
その石井一男に興味を持った後藤正治という人が彼に関するノンフィクションを書いた。
 
 
一度、読んでみるか!

 

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清冽 - 詩人茨木のり子の肖像 後藤正治

 
書店の詩歌コーナーに行くと必ずこの人の詩集が置いてあるが読んだことがない。
中でも晩年の作『倚りかからず』という詩集は異例の10万部を売り上げたとか。
若い頃の写真を見るに知的で端正な顔立ちから育ちの良さが伺われる。
彼女は詩について、このように分析している。
 
「言葉が離陸の瞬間を持っていないものは、詩とはいえません」
 
なかなか手厳しい。
本書に治安維持法で逮捕された河上肇の詩が載っていたので紹介したい。
 
「旧い友人が新たに大臣なったといふ知らせを読みながら」
 
私は牢の中で
便器に腰かけて
麦飯を食ふ。
別にひとを羨むでもなく
また自分をかなしむでもなしに。
 
勿論こゝからは
一日も早く出たいが、
しかし私の生涯は
外にゐる旧友の誰のとも
取り替へたいとは思はない。
 
河上肇マルクス経済学者だが、詩を書いていたとは知らなかった。
詩は文芸の領域で最上位に位置するものとあるが、如何に難しい分野か痛感する。 
それにしても後藤正治という人は上手い書き手で、ほとほと感心した。
 
美しい言葉はたとえどんな鋭い批評を込めていてもなお人を癒す側面をもつ
 
と書いているが言い得て妙。
少し本腰を入れて詩を勉強してみようかと思わせる一冊だった。
茨木のり子が残した言葉で印象に残ったものは!
 
「寂寥だけが道づれ」の日々が自由ということだった。
 
なんだか思い当たる節がある。
 

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