愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

妻への祈り - 島尾敏雄作品集

 
最近、梯久美子(かけはし くみこ)というノンフィクション作家に興味を持っている。
戦後生まれの55歳だが、女性には珍しく栗林中将を題材に本を書いたことが私の触手を動かした。
その梯久美子氏が『狂うひと ─「死の棘」の妻・島尾ミホ』という本を刊行、定価3,240円、672頁、11年の歳月を費やした大作。
 
梯久美子とはいったい何者なのか!
あまりにも素晴らしい着眼点に俄然、闘志が湧いてきた。
タイトルにある「島尾ミホ」とは作家島尾敏雄の妻だが、少し解説を加えたい。
島尾敏雄とは戦時中、奄美群島加計呂麻島に赴任していた震洋特攻隊長で階級は大尉。
特攻隊員として死を覚悟の待機中、島で巡り合ったのが、後の妻となるミホなのだが、昭和52年刊行した『死の棘』が大ベストセラーになり戦後小説の最高峰と言われ、日本文学大賞、読売文学賞芸術選奨を受賞、評論家の奥野建男は「私小説の極北」とまで云わしめている。
 
 
作品は映画化されカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞し、将に島尾文学の金字塔になった訳だが、実のところ、私は未読なのである。
何故か?
多くの読者の書評に慄いているからである。
曰く。
 
「5か月もかかった」
「疲れた」
「挫折した」
「読み切れなかった」
 
さもありなん、『死の棘』は620頁の長編で、もう、字がぎっしりで読み辛い。
しかし、『狂うひと ─「死の棘」の妻・島尾ミホ』を読む為にはどうしても避けて通ることのできない関門だ。
更に、島尾の『死の棘 日記』と妻ミホの著書で第十五回田村俊子賞を受賞した『海辺の生と死』を読まなければ自分の中でこの物語は完結しない。
 
では、いったい、『死の棘』とは如何なる小説なのか?
簡単に言えば敏雄の浮気を日記で知ったミホが執拗に夫をなじり、際限もなく諍いを繰り返すうちに発狂、遂には夫婦で精神病院へ入院となった顛末が書かれている。
 
余談が長すぎてしまったが、今回の本はおそらく『狂うひと ─「死の棘」の妻・島尾ミホ』を出版に関連して刊行されたものだろう。
作品集とあるのは昭和21年~47年までの作品の中からミホに関連した短編を選んで収録されているということかと思う。
相対的にミホという女性は相当な情熱家と言えばいいのか気性の激しさ、嫉妬深さが顕著で、終戦2日前の13日、島尾に出撃命令が下ると、ミホは島尾から貰った短剣を片手に最後の逢瀬のため浜辺に駆け付け島尾出撃を見と遂げて自らは懐剣で自害を計ろうとした。
 
凄まじい気概を感じるが結局、出撃がないまま終戦に至った。
しかし、発病後のミホは恐ろしい。
院内で取っ組み合い、こう暴言を吐く。
 
「どこまでもついて行ってやるよ。人を気違いにして置いて、もとにして返せ」
 
ともあれ島尾作品は噂に違わず読み辛い。
460頁のこの本は手古摺り遅々として進まない。
全く苦心惨憺であった。
偉そうに来年のミッションみたいにして書いたが以上4冊。
 
・死の棘 日記 島尾敏雄
・海辺の生と死 鳥尾ミホ
・死の棘 島尾敏雄
・狂うひと ─「死の棘」の妻・島尾ミホ 梯久美子
 
と読み切れるのだろうか。
凡そ、2000頁はあると思うが。
ところで奄美群島加計呂麻島とは何処にあるのか気になったので地図を掲載しておくが、既に沖縄戦終結しており加計呂麻島は米軍から見捨てられたまま島尾部隊140名は駐屯していたことになる。
 

 

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夢二の恋文

詩人高村光太郎は千恵子ばかりを書き、萩原朔太郎は陋屋の中で隣り合う孤独に青ざめ、夢二は女に彩られた文章しか書かない。
そんな夢二が最も愛した女性はおそらく笠井彦乃だろう。
彦乃は細面の柳のような麗人で長髪、なで肩、理想のモデルでもあったようだ。
夢二画の特徴は憂いと孤絶、清純と頽廃、そしてS字形に腰をくねらせる姿。
多くの書物に彦乃25歳で死去とあるが、正確には数え年でということになる。
 
今回の本は夢二の著作から彦乃に関するものだけを編集して発売されたらしく、詩と散文のようなもので構成されている。
略歴で言えば彦乃は、妻たまきの後の女性。
たまきと共同経営している港屋の常連で紙問屋のひとり娘。
妻との果てない諍いに疲れた夢二の前に現れた13歳年下で美術学校の日本画科を卒業したばかりの彦乃。
駆落ちのように京都で暮らし始めた二人の前に立ちはだかる父。
 
体調を崩した彦乃を入院させ、自らの監視下に置き夢二との面会を激しく拒絶。
二人の最後の逢瀬は大正8年3月5日で、東京の病院に転院していた彦乃に従弟が手引きして短時間だけ面会が叶うが翌年、23歳という若さで召された。
夢二の失意は如何ばかりだったか想像を絶する。
ところで、夢二という人はかなり鋭い観察力の持ち主だと思うのだが。
例えばこんな文章。
 
男は結婚の第一夜から女を動物にする。
そして女は完全に動物になるが、男は、女の中の動物性と霊性との見分けがつかなくなる。結婚の不幸はそこからくる。
 
母親は、彼女が嘗て娘であったことを思出すことで、彼女の娘を理解することが出来るが、父親は彼が嘗て青年であったことを、決して思出すまいとする。
だからこの娘の恋人にとって、母親は屡味方であるが、父親は不倶戴天の敵である。
 
昔は、見そめる、思ひそめる、思ひなやむ、こがれる、まよふ、おもひ死ぬ、等等の言葉があった。今は一つしかない。「I LOVE YOU」
 
彼女は、毎朝鏡を見る。どうしたら美しく見えるだろうかと。
彼女は、毎晩鏡を見る。どうしてそんなに美しく見えたかと。
 
何だって、愛するものを憎まなければならないのだらう。
何だって、憎んでゐるものを愛さねばならないのだらう。
夫婦だからだ。
 
恋人同志は、愛情も感覚もすっかり浪費してしまってから、あわてて結婚する。
 
なかなか卓見だね!
こんな詩もある。
 
 
「そんなに沢山の鍵をどうなさるの?」
女がたづねた。
「女の心の扉をあけるのだ」
男が答えた。
「一つの鍵ではいけないの?」
「そうだよ、女はどれもこれも異なった鍵穴を持ってゐるからね」
「あなたはいつか女の心をあけたことがあって?」
「一度もないよ。どの鍵を持っていっても合はなかった」
「そうでせうね。女の心っていふものは、すこし虫がよすぎるわよ。
 教へてあげませうか。
 あなたはね。
 ほんたうのあなたの鍵だけ持って
 あとはみんな悪魔にやっておしまひなさい。
 そしてあなたはあなたの鍵で
 たった一つのあなたの鍵穴をお探しなさい。
 きっとどこかに
 あなたを待っている娘があってよ。
 
「女はどれもこれも異なった鍵穴を持ってゐるからね」
確かに言えてる。
夢二は当初、画家になるか詩人になるか迷っていたらしいが、結局、両立したわけで双方の才能を開花させた。
ところで、京都の清水寺に行く途中に夢二の旧宅があるが、そこが彦乃と暮らした家なのだろうか?
現在は改装され土産物屋になっている。
 
さて、夢二が終生離さなかったプラチナ指輪の消息だが、現在は金沢湯涌夢二館で見ることができるそうだ。
内側には【ゆめ35しの25】と刻まれ、しのは彦乃の事で数字は年齢を表している。
一度、見に行きたいものだが。
最後に私の好きな詩を。
 
かへらぬひと
 
花をたづねてゆきしまま
かへらぬひとのこひしさに
岡にのぼりて名をよべど
幾山河は白雲の
かなしや山彦(こだま)かへりきぬ。

村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝 栗原康

世に言う甘粕事件を知るには数人の著名人の経歴も一応知っておかなければならない。
第一に大杉栄、そして甘粕正彦憲兵大尉、伊藤野枝、神近市子、辻潤平塚らいてう
荒畑寒村、山川均、堺利彦などだろうか。
中でも大杉と甘粕に関する研究書は多い。
確か、私の記憶では名古屋の陸軍幼年学校の五期先輩が大杉だったような気がするが。
その大杉が甘粕らに殺害されたわけだから関係者の証言や経歴に興味を覚えるのは私としては必然的なのだが、今回の本、タイトルが刺激的なのと、今まで見た事なかった野枝の写真に魅入られ、早速に購入したわけだが、数ページ読んだ段階でしまったと思った。
 
本来、ノンフィクション、評伝、伝記の類は文体も型苦しく内容も硬質なものと思っていたが、まるで、若者の流行語をなぞったような文体にはたまげた。
 
「マジ、ヤバい」「てんぱってる」「すげぇ」「即トンズラ」
 
果たして評伝でこんな表現があろうか。
腹が立って作者の経歴を見るに以下のように書かれている。
 
79年生まれ、早稲田大学大学院政治学研究家、博士後期課程満期退学。
専門はアナキズム研究。
 
更に私の癇に障ったのは必要以上に平仮名に拘る点。
小学校で習うような漢字を敢えて平仮名で書く。
しかし、思ったより読まれている本なので、それぞれの感想文など読むと意外に好意的。
これははっきり言って歳の所為ではないのだろうか。
伊藤野枝サブカルチャーの視点で読み解いたような本とでも言うか。
 
それにも増して苛立つのは、この作家、やたらにセックスという文言を使いたがる。
例えば辻潤の記述ではこうなる。
 
染井の森で僕は野枝さんと生まれて初めての恋愛生活をやったのだ。
遺憾なきまでに徹底させた。昼夜の別なく情炎の中に浸った。
 
それを著者流に意訳すると下卑た感じになる。
 
ヒマである。どうしたものか。ふとみれば、野枝がすわっている。こりゃあもうやることはひとつしかない。セックスだ。セックスである。ど根性でセックスだ。辻と
野枝は昼夜をとわずセックスをした。
 
なんじゃこりゃ!
更に言う。
 
ど根性。家のことなんて関係なく、好きなひとと、好きに恋をして、好きなだけセックスをすればいい。
 
わがまま、友情、夢、おカネ、結婚なんてくそくらえ、腐った家庭に火をつけろ。
ああ、セックスがしたい、人間やめたい、ミシンになりたい。
 
他人の迷惑をかえりみず。やりたいことしかやりたくない。それができなければ、即
トンズラだ。夜逃げの哲学、逃げろ、もどるな、約束まもるな。
 
ウンザリしてきた。
ところで、大杉や野枝の言う無政府主義とは如何なるものなのか。
今日、伊藤野枝全集が出ているが、それによると以下のようなことか。
 
自由恋愛、就労時間の短縮、家父長制度の撤廃、習俗打破、廃娼論。
してみると、現代の男女雇用機会均等法不払い残業ウーマン・リブなど野枝は先取りしていたようにも思うが、では無政府とは何か。
野枝は言う。
 
相互秩序の輪を広げていけば行政などいらない。
損得じゃない無償の行為で相互秩序の輪を広げていけば、国家も経済もいらない。
非国民、上等。失業、よし。目のまえでこまっているひとがいたら、人はかならず手をさしのべる。無政府は事実だ。
 
う~ん、どうなんだろうか。
と、私は思うが著者はおそらく野枝を崇め奉っている。
因みに野枝は辻潤との間に二人、大杉との間には五人の子供を儲けたが大杉とは婚姻関係になく28歳までに七人の子を産んだことになる。
一方、大杉はどのように見られていたのか。
野枝の叔父の回想がある。
 
大杉栄は世に恐ろしき怪物のように誤り伝えられおりしが、その個性においては実に親切にして情に厚い。
 
当時の大杉に対する伝聞の間違いを指摘している。
ところで、例の日影茶屋事件だが、確か、瀬戸内さんの本では宿泊代など旅費は神近から貰ったように書かれていたと思うが。
それに激怒した神近が乗り込み大杉を刺したと。
だが、この本では内務大臣の後藤新平から貰った金で相州、日影茶屋に行ったとあるが。
何れが事実か。
ただ、後藤内相から金を貰ったのは事実だ。
 
総じて、あまり勉強になる本ではなかったが、ただ一つ、震災当日に撮られた大杉、
野枝、最後の写真が存在することは初めて知った。
それがこれ。

ホテル ニューグランドの魔法 横浜の時を旅する 山崎洋子

2008年夏、日産スタジアムで行われたサザンライブ参戦のため3泊4日の日程を組んで横浜へ行った。
宿泊先も横浜、新宿、藤沢と私にしてはかなり豪勢な旅で、横浜では山下公園を眼下に、氷川丸が係留されている絶好のポジションのホテルに宿泊したつもりだっだが、ここ最近、あるテレビ番組で横浜一と言われるホテルニューグランドの存在を初めて知って地団駄を踏んでしまった。
何と、そのホテルは私が滞在した場所の真横に位置し迂闊にも宿泊の機会を逃したわけだ。
調べれるほどにホテルニューグランドは興味の尽きないホテルで、田舎者にして三枚目の私も是非一度行ってみたいと思ってた折り、2016年の桑田佳祐カウントダウン・ライブに参加出来ることになり明けて正月早々ホテルの門を潜ってみた。
意を決して行った限りは、いくら貧乏人でも珈琲の一杯ぐらいは飲みたい。
少し高級そうな一階の喫茶店で予約を取り、暫く館内を散策するとブティック店頭に上の本が。
横浜開港とホテルニューグランドの歴史に付いて書かれたものだけに買わずにはいられない。
旅先で出会う郷土の本というのは確かに魅力的だ。
そして、お目当てのティーへ!
以前にも何かで読んだが、関東大震災は神奈川が震源地だったが為に、この辺り一帯は甚大な被害を被り、その結果、あふれ出た膨大な瓦礫を埋め立てて造ったのが山下公園で、その復興のシンボルとして昭和二年建築されたのが当ホテルらしい。
その後、チャップリンベーブルース、戦後は裕次郎映画のロケ地としても有名らしいが、チャップリンがここに泊まったとは知らなかった。
確か、五・一五事件と重なった日だったと記憶するのだが。
開業当時、支配人はヨーロッパ料理界の貴公子でスイス人のサニー・ワイルドという超一流コックを招き、本場のフランス料理を提供したとあるが、これが実に日本人には厄介な代物。
フランス料理は厳格なマナーで知られ、服装はもちろん正装でナイフやフォークの使い方から、ワインの飲み方、客はウェイターの顔色を窺いながら食事をしなければいけなかった。
また、今に伝わるドリアはワイルドがこのホテルで考案したもので、更にスパゲティ・ナポリタンも二代目のコック長、入江茂忠という人が初めて作ったとある。
とにかく、横浜という所は発祥の地が何かと多い。
それはそうと、このホテルに泊まった最重要人物はマッカーサー元帥。
それも最近まで知らなかった。
私はてっきり、あのお堀端にある、第一生命ビルが元帥の本丸とばかり思っていたのだが、8月30日、厚木飛行場に降り立った元帥は真直ぐこのホテルにやって来た。
三日間泊まった315室はマッカーサーズ・スゥート・ルームとして現在も宿泊可能だ。 
私も元帥の気持ちになって一度泊まってみたい(笑
このエレベーターに乗って。 
因みに大佛次郎昭和6年から10年間、仕事部屋にしていたのは318号室。
夕方、仕事を終えると大佛は当時、一階にあった、バー・シー・ガーディアンで一杯飲むのが日課だったとあるが、このシー・ガーディアンが後にサザンが歌う『LOVE AFFAIR~秘密のデート~』の歌詞に出てくる「シー・ガーディアンで酔わされて、まだ離れたくない」の場所だったんですね。
とにかく、このホテルは歴史の宝庫。
館内には小磯國昭大将の写真もあり、戦前は外国人客で大いに賑わったらしい。
溯れば安政五年にこの辺りの埋め立て造成も完了し江戸の吉原、長崎の丸山に勝るとも劣らない遊郭も出来、清国人も多く来日し、クリーニング、印刷、塗装、料理、洋楽器と西洋文化文明を日本人に指導伝達したのが華僑で、その末裔たちが作ったのが今の中華街になる。
最後に、現在の総料理長は藤沢の辻堂生まれの人だとか。

腰痛に負けない体を無理せずつくる!! 毛ガニの腰伝説

「親族に癌や脳溢血で亡くなった方はいませんか」などという医者の話しはよく聞くが椎間板ヘルニアが遺伝するということは、ついぞ聞いたことがない。
父の晩年は、この椎間板ヘルニアに悩まされる日々だったが、よもや、そのヘルニアに息子である私も罹患しまうとは。
思い起こせば、首の頸椎を20歳の時に痛め、25歳で軽いぎっくり腰になって以来、実に長い付き合いとなっている。
 
サザンオールスターズパーカッショニストで毛ガニこと野沢秀行さんがヘルニアで一時期、バンド活動を休止していたことは知っているが、この程、その体験記を上梓して発売したので、同病相哀れむ心境で読んでみた。
発症したのは約30年前。
ツアーに参加出来ない苦しい胸の裡などを縷々述べているが良く理解出来る。
 
我々、素人では分らないことだが、サザンのメンバーも、みな還暦を迎え、サポートのミュージシャンも全員が50の峠を越えている。
例えば想像してみるといい。
カラオケに行って、3時間以上、30曲を動き周りながら歌い演奏するということを。
それも一日だけではなく、年末ライブなどでは4日間も歌わなくてはならない。
 
ましてやツアーなどに出たらどうなるか。
今の時代はどうか知らないが、昔のバンドは半年間も全国津々浦々回るなんていうこともザラだった。
有名になって音楽を生業にして生きて行きたいという気持ちはミュージシャンなら誰でも思うことだろうが、いざ、プロになってみるとどうだ。
長期のツアーでバンドメンバーやスタッフとホテル暮らし。
毎日毎日、同じ曲を演奏し風邪ひとつ引けない。
 
今日は体調が悪いから休ませてくれというわけにはいかないのである。
それに、いくらバンドメンバー間の仲がいいと言っても偶には機嫌の悪い時もある。
私ならとてもじゃないが、こんなことはやってられない。
ビートルズカーペンターズ、アバも言っているように、「もう、こんなことはうんざりだ」と言いたくなる。
 
野沢さんは言う。
 
「3時間以上のステージが終わると2キロは痩せる。勝手にシンドバッドのような激し
 い曲だと心拍数が128まで上がる」
 
それにパーカッショニストは最初から最後まで立ちっ放し。
勿論、ドラム、キーボード、ギター、ブラスと普通の中年ならまず出来なかろうに。
少し話しが横道に逸れたが、野沢さんのヘルニアは私のとは違い、桁外れの激痛を伴うものだったらしい。
 
以前、心筋梗塞で入院した折り、隣のベッドに重度のヘルニア患者が居たが。
本来、病室は違うはずなのだが空き部屋が無いということで移ってきたらしい。
その男性、年齢は40歳ぐらいで、既に何度もギックリ腰に見舞われているらしく、寝起きもままなず、食事も看護師に食べさせてもらっていたが、最大の問題は排便。
だが、その人は慣れたもので平気でオムツに用便を足し、看護師に取り替えてもらい、更に便の出具合について会話まで交わしていた。
私には到底それが出来い。
野沢さんも書いている。
 
「ただでさえ弱くなっている入院患者の心に、排泄のストレスは重くのしかかってき
 ます。人間の尊厳が損なわれるような惨めな気分に落ち込んでしまった」
「こういう事態が起こるっていうことは特に聞かされていませんでした」
 
そうなんですよね。
循環器系でもオムツを付けるので私も念のために看護師に訊いてみました。
 
「便をしたくなったらどうしたらいいのですか?」
 
すると、まだ20代と思われる看護師の答えは予期したように。
 
「そのまま、オムツの中でして下さい」
 
まあ、それを聞いた時は、はっきり言って泣けてきましたね。
とてもじゃないけど、そんなことは出来ないと。
しかし、体力がないから駄目だと言うんです。
結局、5日間我慢して自分でトイレに行きましたが、野沢さんは母親に来てもらったとあります。
更に、最大の不安は再発の危惧、野沢さんは96年に発症して、03年に再発。
この再発の恐れというのが精神を蝕むんですね。
うつ病の一歩手前だったと」言っている。
 
苦しい局面ですね!
ツアーを休むわけにはいかない。
自分の居場所がなくなってしまうという焦り。
こうなってくると、もうダメです。
負のスパイラルに落ち込んで行く一方。
体力も気力もなくし、他のメンバーから置いていかれる不安。
 
そこで、一念発起した野沢さんはプロのトレーナーを雇い、一から徹頭徹尾、体を作り直していくという地道な作業を二人三脚で取り組むことに。
それはもう微に入り細を穿ち、食事や水分の摂り方、トレーニング、演奏方法まで事細かく相談して努力、ツアーの時は朝から何をどう食べたらいいのか、徹底して取り組んだそうで。
今では40本近いコルセット、ステージで使う専用のマット、靴はオーダーメイド
上から下まで全て腰痛ファッションで統一し、全国の温泉を巡り、一時は温泉ソムリエの資格を取ろうかと真剣に考えていたぐらいの温泉通になったとか。
 
とにかくプロである以上「今日はちょっと調子が悪かったけれど、明日は頑張るからさ」なんていう甘えは通用しない。
腰痛を治すために、ジョギング、登山、温泉と体力作りの毎日。
プロの世界で生きていくことの厳しさはかなりキツイものですね。
朝から晩まで腰と相談している毎日だそうです。
 

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適塾

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大阪の適塾緒方洪庵旧宅と書いてあります。
大鳥圭介大村益次郎橋本左内、激動の時代を生きた人達が巣立っていった塾でした。
大村益次郎暗殺、橋本左内は刑死、共にこの門を潜っていたんですね
そういえば福沢諭吉先生もここでした。
 

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           こちらが緒方洪庵先生、日本近代医学の祖です
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適塾のお隣にこの邸宅
てっきり適塾の教室かと思っていたら
こちら、日本最古の木造建築幼稚園
向こうまで100mぐらいはある!
凄いですね!
ビックリ感動しました
 
私、こんな幼稚園に行ってみたかった
今でも現役なんです! 

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ぶらぶらしていたらこの床屋さん、う~ん、如何にも昭和初期!
船場と言われるこの辺り、戦災を免れたんですね。
貴重な有形文化財がいくつかあります。
全国を焦土と化したあの空襲がなければ、どれだけ美しい建造物が残ったことでしょうか。
戦災によって失われた貴重な建物。
知れば知るほど残念でなりません。
古きを訪ね古きを知るのが私の旅です。
 

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蜜蜂・余生 中勘助

 
年間を通して、中勘助の『銀の匙』だけで国語の授業を行うという、一風変わった中学教諭の話しを聞いたことがある。
教科書を使わず『銀の匙』一冊あれば、こと足りると先生はテレビで言っていたが、そんなことが可能なんだろうか、私には解らない。
今や中勘助と言えば銀の匙銀の匙と言えば中勘助だが、私は中勘助作品をこれしか読んだことがない。
その昔、元カノが私の書棚からこの本を持っていき、感想を訊いたところ痛く感動したと言うではないか。
私の感性がやや足りないのかと訝しんだものだが。
 
ところで最近、『中勘助の恋』という本が存在することを知り、興味を抱いていたのだが、岩波文庫に『蜜蜂・余生』という作品を見つけ在庫があるかどうか紀伊国屋に行ってみると、あるではないか。
で、一読、書評では随筆となっているが、明らかに日記形式で、かなり異なものを感じた。
記述は昭和17年4月11日から10月27日までの事で、全編これ、嫂のことで終始一貫している。
嫂、つまり兄嫁だが、作品中では姉で統一されている。
正しくは義姉ということになる。
何が異なのかといえば日々、嫂の思慕の念で貫かれている点だ。
自分の嫁ではないのに何ゆえここまで愛情こまやかに書くのか。
また、今日も長くなるのかどうかこの時点では分からないが少し余談を挟みたい。
 
文久三年八月十八日、京都で政変が起きた。
八・一八の政変である。
御所九門の警備を会津・薩摩・淀藩兵で固め、長州藩士の出入りを一切遮断。
急進的な尊皇攘夷論を掲げ、京都政局を主導して来た長州藩は都を追われる。
政治的な主導権を失った長州では事態打開のため議論百出。
積極論を唱えたのは来島又兵衛で慎重派は高杉らだったが、結局、積極論に押し切られ長州勢は京都を目指す。
 
久坂玄瑞長州藩の罪の回復を願う嘆願書を持参していたが、最終的には来島に引き摺られ挙兵、御所に殺到した。
時、元治元年七月十九日のことである。
ここに大阪夏の陣以来の太平の世を破る凄まじい激闘が繰り広げられることに。
戦火により約3万戸が焼失する大事件となった。
特に激しかったのは会津と桑名が守る蛤御門で来島隊が乱入。
急を聞き付け駆け付けた薩摩勢が援軍に入ると形勢は逆転。
猛将、来島又兵衛は自害。
 
久坂玄瑞寺島忠三郎と互いに刺し違えて自害。
久坂に藩主世子への伝言を頼まれた入江九一は脱出しようと塀を越えたところで越前兵の槍を顔面に受けて死亡。
その入江九一の弟に野村靖という人がいる。
維新後も生き延び、神奈川県令、逓信大臣、子爵となった人物だが、その娘、末子が即ち、勘助の日記に登場する嫂ということになるのだ。
 
末子の夫、金一と弟の勘助は、どうも確執があったらしい。
日記によると、かなり横暴で末子には辛く当たったとある。
本のタイトル『蜂蜜』というのは末子が働き蜂のように結婚以来、40年間、兄に尽くして報いられることのない人生を送って来たというような意味合いかと思う。
しかし、それにしても微に入り細を穿って嫂を愛すること痛々しい。
 
先にも書いたが日記は4月11日からだが、嫂は4月の3日に亡くなっている。
どうも、くも膜下出血に三回ほど襲われ、晩年は寝たきりだったようだ。
肝心の兄も脳出血で寝たきり。
ところで、以前はくも膜下出血の事を、蜘蛛膜下の溢血と言ったのだろうか。
本にはそのように表記されている。
さて、勘助が何を書いているか詳しく見てみよう。
 
4月29日
想い出は潮(うしお)のように湧いてくる。
歳月はひく汐のように凡てを洗い去った。
 
5月4日
私たちはもともと見ず知らずの二人だった。
それがはてしない空の真ん中で、偶ま嵐にふきよせられた渡り鳥のように出会った。
四十年の苦難の友。
 
7日
コレヒドールが落ちましたよ。泣く。
 
コレヒドールとはフィリピンのコレヒドール要塞のことで指揮官は本間正晴中将。
 
9日
姉はまったく文字通り一生懸命に家のために働いてくれた。
隅ずみまで行き届いて世話をしてくれた。
それゆえ思慕する者の目には家じゅう至る所にその幻が立ちまた座っている。
 
14日
艱難汝を玉にするという言葉が文字どおりあてはまるのは姉の場合である。
 
6月1日
姉の記憶はあっさり記憶と呼ばれるにふさわしくないほど鮮明に、いわば体温をもって私の前に生き残っているのだ。
 
7月2日
私がこの笛を吹いたら姉は梓弓の音にひかれる魂のようにもう一度帰ってくるのであろうか。
 
上手いこと言うね!
 
16日
始終姉の気の毒な一生を思いかえしている。
こう書きながらも涙が滲み出てくる。
 
勘助は嫂を思いながらかなり孤独な生活送っていたのだろう。
10月27日にはこう書いている。
 
父の歿後、兄さんの最初の発病以来。三十三年のあいだに母を見おくり、あなたを見おくり、今また兄さんを見おくって、家族に関するかぎりやっと私の役目を果たした。
 
どうだろうか!
この嫂に対するひたむきな思い。
これはもはや恋と言っていい。
嫂のことしか書いていない本なのである。
一体に、中勘助という人は、ある意味、純粋過ぎる人だったのだろうか。
記録によると野上弥生子の初恋の人とある。
勘助は漱石門下で、今で言うイケメンだったという話しも伝わっている。
いっその事、兄と離婚して勘助と結婚すれば、すべて丸く収まったのか。
 
最後に、もう一遍の『余生』という作品は、どうも勘助が署名入りで、この『蜂蜜』を知人友人へ送った返礼の手紙が数多く載っているのだが、その中にこんな詩が。
 
雨も悲し 風も悲し 照る日もまた悲しかりけり
四十年 嵯峨たる行路 われを守り われを導き
沮喪する我を励まし くずおるる我を起たせ
狂気より癒やし 死より救い 友となり 母となり
手を携えて歩み来し人 たぐいなき善良
柔和の人は ゆきて帰らず 旅立ちたれば 
夜も悲し 昼も悲し 朝ゆうもまた悲しかりけり
 

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