愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

ルイズ―父に貰いし名は 松下竜一

一代の風雲児といわれた大杉栄伊藤野枝が殺害されて90年余。
大杉38歳、野枝は28歳という短い生涯だった。
現在、二人の名がどれほど認知されているか知らないが、私が彼らの名に初めて出会ったのは、おそらく昭和47年頃ではないかと記憶する。
その後、一連の真相に興味を持ち、下手人とされる甘粕憲兵大尉に関する文献なども読んだが、未だ謎の残る事件だけに、いつまで経っても興味が尽きない事案だ。
最近、遺児となった4女ルイズに直接取材を申し込んで上梓されたものが存在すると知って、いつか読んでみたいと思っていた矢先、先日、立ち寄った古書市で偶然、目に留まったので歓び勇んで購入した。
 
発行は昭和60年3月15日、1年半に亘りルイズを取材したもので30年以上も前の本になる。
ところで、単なる奇遇だと思うがウチの父と大杉は同じ名前を命名されている。
更に有名な日影茶屋事件は大正5年11月9日と父が生まれる2週間前のことで何やら意味深な感じがする。
果ては大杉夫婦と共に殺害された甥の橘宗一少年は父と同年生まれ。
 
それはともかく、この本には是非とも家系図を載せてほしかった。
大杉、野枝の係累は非常な子沢山で、野枝の母ウメは6人の子供に恵まれ、野枝自身も10年の間に7人の子を生んでいる。
栄は大杉家の長男で下に3人の弟と5人の妹がおり、共に殺害された宗一少年は大杉の妹、橘あやめの一人息子になる。
 
話しが煩雑になるので少し野枝の子供を整理して書く。
初婚の相手、辻潤との間に2人の子供を儲け長男が後に画家として有名な辻まこと
大杉との間には1男4女が居るが出生地が全員違う。
2人は国家による庇護は一切求めぬという無政府主義者の立場から婚姻関係にはなく、大杉との間に出来た子供は全員、私生児。
因みにルイズは大正11年6月7日生まれなので両親の記憶は全くない。
 
5人の子供は親の死後、全員改名され、ネストルは栄、長女魔子は真子、次女エマは幸子、三女もまたエマだが笑子に、四女ルイズは留意子。
長男はネストルと命名されたが大正13年8月15日、僅か1歳で亡くなっている。
 
本作が求めるところは事件の真相ではなく遺された遺児たちのその後で、紙数を多く裂いた長女真子とルイズに関しては幸多い人生だったとは言えず、ルイズは4人の子供を抱えギャンブル好きの夫が作った借金の返済に明け暮れる一生で、付き纏う主義者大杉、野枝の子供というレッテルからは生涯逃れられず悩み多い人生だったようだ。
 
現在、大杉、野枝の一族は、かなりの数になっていると思うが、どのような暮らし向きなのか、その点が子の無かった幸徳秋水小林多喜二と違うところだと思う。
数年前、NHK大逆事件で刑死した大石誠之助を特集した番組を見たが、事、甘粕事件に関しては何故かいずれの番組でも取り上げたのを見たことがないが、これは何が起因しているのやら。
 
遺児たちはみな天皇さまに弓引いた国賊の子」として育ったとあるが天皇さまに弓引いたでは大逆事件も同じこと。
真相が分からないだけに今後、何か新しい資料でも発見されるのを期待したいが41年前の1976年8月26日の朝日新聞大杉栄らの死因鑑定書が発見されたと報じられたことがあった。
 
軍法会議の命令で、3人の遺体を解剖した軍医大尉の夫人が保存していたとある。
鑑定書は明らかに甘粕らの証言とは食い違い、死因は3人とも扼殺だが肋骨などは複雑骨折で直前に相当な暴力を受けたようだ。
結局、甘粕は真相を明かさぬまま終戦時に自決。
 
時代背景もあるが、このような歴史的大事件の遺児として生きなければならなかったことの辛さを作者はどうしても書きたかったのだろう。
 

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城中焼亡埋骨墳

 
城中焼亡埋骨墳
「じょうちゅう、しょうぼう、まいこつふん」と書いてある。
この辺りは旧大阪城内になるのか。
 
慶応四年の一月、旧幕府軍の本拠地だった大阪城が新政府軍に引き渡されるに際し、これを潔よしとしない幕臣たちは、城内に火を放ちここで自害して果てた。
敵方の薩長軍の兵士が彼等の遺骨を埋葬し武士の鑑としてこの石碑を同年七月に建立したらしい。
 
私の記憶では確かこうだ。
 
鳥羽伏見の戦いは慶応四年の正月明けの三日ごろからだったか。
惨敗した幕府軍は形勢を立て直すため一端、大阪城に退却。
この時、将軍慶喜も二条城から大阪城に戻った。
 
東征してくるであろう薩長軍をここで迎え撃つと思っていた幕府軍であったが夜陰に紛れて慶喜は城を脱出、江戸に逃げ帰る。
この祭、強硬に反対する京都守護職会津中将松平容保京都所司代松平定敬を共に説得し江戸に連れ去る。
二人は兄弟。
 
将軍慶喜の恐れは朝敵になることの一点のみ。
それを悲観しての幕臣達の自害であったか。
この年、西暦では1868年。
 

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慟哭の通州――昭和十二年夏の虐殺事件 加藤康男

私が解釈するところの「慟哭」とは最大限の哀しみと涙という意味になる。
無分別に涙の洪水に哀しみと共に押し流されていく一片の木の葉のようなものだ。
これから書くことは現代史の闇に葬られた、まぎれもなく慟哭の叫びで、読んで哀し、聞いて身震い、見て慄き、怒りに震え、血が煮えたぎるほどの恨みを覚える、将に聞くだに耳が腐るという鬼畜の所業である。
私が言うまでもなく、途中、著者もこのような断りを入れている。
 
あまりにも凄惨かつ鬼畜のような猟奇的行為が語られ続け止まらない。
私は幾度も、もう引き写すのをやめようかと、キーボードから指を離したぐらいだった。読み始められる前に、どうかある覚悟を持たれて読み進めていただきたい。
また、途中で気分が悪くなられた方はどうか本を伏せていただきたい。
体調を崩すほどの蛮行が続くからだ。
けれど、これが実際に中国兵によって行われた残虐行為なのだ。
 
このくだりは、読み進めて205頁目にある。
まだ、昼食を食べていなかった私はここで一端、本を閉じ場所を変え、食後にモスバーガーに移り、そこに書かれている問題の証言記録を一気呵成に読んだ。
あまり感情移入をし過ぎると、夜、うなされ、復は夢に出そうな気がするので。
事実、今日は2時間半しか眠ていない。
 
それほどの蛮行が、どういう訳か現在の日中間で問題の棚上げではなく両者とも触れようともしないために、今を生きる多くの日本人すら知らない事実となってしまった。
故に私は読む、供養のためにも。
さて、今回の読書感想文は長大なものになりそうだなので、遠慮される方は、どうぞスルーして下さい。
 
はじめに、私が知り得る限り、近現代史に於いて邦人の大虐殺事件は3件ある。
 
1.明治4年、台湾で起きた琉球漁民殺害事件。
   漂流した琉球人54人が原住民に殺害され、日本は清朝政府にただちに抗議。
   この時に登場したのが「化外の民」という表現で簡単に言えば台湾のことは預か
   り知らぬという返答。よって、政府は明治7年、台湾出兵に踏み切った。
     征韓論争で西郷が下野した翌年のことである。
 
2. 日本の言うところの尼港事件。
  大正9年3月、ロシア、ニコラエフスクで起きた大虐殺事件。
  領事一家、居留民、駐留守備隊を含め日本人犠牲者の数は判明しているだけで
  731名、ほぼ皆殺しにされ、街は赤軍部隊の破壊により廃墟となった。
  時の首相は原敬
  国会はこの問題で紛糾。
  西にレーニン、東に原敬と言われた時代のこと。
 
3. そしてこの通州事件ということになる。
 
ところで、近代に於ける中国史というのは実に難解を極める。
義和団事変を経て清朝滅亡後に始まる国内の動乱。
一回や二回読んだぐらいでは到底解らない。
袁世凱孫文の権力闘争。
蒋介石奉天軍閥張作霖の覇権争い。
張作霖爆殺と関東軍
張学良と蒋介石
つまりは群雄割拠のような時代に突入するわけだが、いつの世も動乱期に登場する
人物は多い。
 
さて、本題に入らなければならない。
通州という場所は直線距離にして北京の東方、およそ20㌔。
嘗ては通州城なるものがあり周りは城壁で囲まれていたらしいが、今日、そのよすがを見るものは、どういう訳かものの見事に無くなっているらしい。
結果、事件を思わせる痕跡や建造物は何も残っていない。
城まで壊してしまうとはどういうことか?
 
先にお断りしておくが事件に至る経緯を説明するに、私は一介のブロガーであってプロではないので、なるべく間違いのないように書くが至らないところがあったらご容赦願いたい。
 
かなりややこしい話しになるが北支の通州一帯は華北分離工作によって南京政府から離脱した親日家の殷 汝耕(いん じょこう)が設立した冀東(きとう)防共自治政府が統治していた場所ということになる。
因みに冀とは河北省のことで冀東とは、その東部全域を指す。
通州城内には総隊長、張 慶余(ちょう けいよ)率いる冀東保安隊が日本人居留民を守るために駐留していたが、南京政府は冀東防共自治政府に対抗して冀察政務委員会を設置。
その委員長が宗哲元。
簡単に言えば日本にとって冀東防共自治政府は味方で冀察政務委員会は敵という構図だった。
 
そして、例の西安事件蒋介石が逮捕されたのは昭和11年12月12日、逮捕したのは張学良軍。
しかし、敵方の宗哲元は昭和12年2月、土肥原賢二中将を最高顧問として招聘すると表明し、これで親日を装い、冀東、冀察という二つの政府が出来たと著者は言うが、これを日本側の華北分離政策の成果とみるか、蒋介石の巧妙な深謀遠慮と見るかは難しい判断だとある。
土肥原賢二A級戦犯として戦後死刑。
 
西安事件を契機に国共合作となり、運命の昭和12年7月7日、盧溝橋で宗哲元軍麾下の第29軍と支那駐屯軍は戦闘状態に入る。
 
危険を感じた邦人は次々と北京を脱出。
その中には、安全地域と見られていた通州を目指して脱出する邦人も多く、その避難先の通州城内で7月29日の深夜3時頃、本来、邦人保護が任務であった冀東保安隊が寝返り、ここに陰惨を極めた大殺戮事件が起きる。
それはもう殺戮というよりは屠殺と言った方がよい。
保安隊総勢は城の内外を含め5800名。
日本人は守備隊、特務機関、警察、軍属を入れ163名がほぼ全滅、居留民225名以上も虐殺された。
 
問題は、その虐殺の方法である。
居留民の中には無論、女、子供、妊婦を含め、抵抗する者も当然いたが容赦なく殺害された。
さて、ここまで書きながら問題の核心に触れるかどうか悩みに悩んだ。
やはり詳しくは書かない方がよかろうという思いと、何が起こったのかを知ってもらいたいと言うせめぎ合いで実は数日悩んだ。
が、結論を言えば書くことに踏み切った。
 
人が想像し得る最大限の残虐行為とは何か。
これはひとり中国だけの問題ではなく、世界史に多く見られたことなのだが。
まあ、それはいい。
さて、居留民はどうなったのか?
 
子供、女、妊婦、男は?
怖ろしいのは保安隊には小銃以外にも、青龍刀を持つ者が多く存在したという事実。
あれを見たら、もう正常ではおれないだろう。
私も子供時分、日中戦に従軍した父からよく話しは聞いていた。
 
戦闘経過は午前3時頃から始まる。
寝込みを襲われた守備隊は張慶余率いる保安隊3300名に対し3時間も抗戦を続けたらしい。
日本人は、それまで宗哲元軍麾下の第29軍の襲撃だとばかり思っていたが、保安隊の軍服をみて驚く。
保安隊は日本軍が軍事教練した部隊であるからして当然だ。
感動的なのは支那駐屯軍司令部軍属扱いとなって冀東政府実業庁植棉指導所で働いていた石井亨(25)と妻茂子(22)の最期。
殺戮が行われている最中、最後の力を絞って夫が書いた血染めの遺書。
公館では無抵抗のまま10名の仲間が襲撃を受け石井は自らの血糊で息絶える寸前に手帖に書く。
 
「6時30分、襲撃さる。残念」
「バンザイ。アトヲ頼ム」
「パパ、ママ、二百五十円、正金ニアル」
「ニギヤカニユクヤ三途ノ河原カナ」
 
絶命した夫人を左手で庇うように抱きながら。
本の表紙にある写真は昭和12年1月8日、大連で結婚した時の二人。
さすがに、この場面、涙腺が熱くなってきた!
そしてこの後、日本軍の抵抗が止んで、何処からともなく現れたのが学生服のようなものを着た、もはや軍隊とは名ばかりの匪賊、蛮族、教導隊の殺人集団。
 
スローガンは「すべての日本人を殺せ」だった。
略奪、暴行、強姦など死体は男女の区別もままならないほどの凌辱と暴行を受け中国古来の陰惨な処刑が行われた。
彼等の正体は国民党配下の特殊武闘集団で教導隊に紛れ込んでいた殺人集団。
では、その核心を。
 
『死刑全集』という本を読むと凌遅刑という処刑の実際の写真が載っているが、通州に入ったある日本人はこの刑が行われたことを記録している。
全集の解説にはまず、声が出ないように喉笛を切る、そうして於いて肉を鋭利な刃物で削いでいく。
死の前に凄まじい苦痛を与える為である。
この旧弊を改めたのは朝鮮総督となった斉藤実らしいが、その談話などがあれば読んでみたいものだ。
先を続ける。
 
射殺、殴殺、地べたに頭を叩きつける
腹を裂いて腸を出す
丸太に縛り付け逆さに立て切り刻む
鼻に針金を通して引き摺り回す
首に縄をかけて馬に引かせる
腕や脚の筋肉を削る
陰部に棒を差し込む
陰部を銃剣で裂く
 
顔面に毒薬を塗布する
妊婦の腹を裂いて子供を引き摺りだす
腹をさいて腸を取り出す
手足を切り刻み自由を奪った上で集団レ○プする
男子は陰部を切断される
目をくり抜く
耳鼻を削ぐ
手足の指を裂く
 
では、通州を守る日本軍の本隊だった萱島高中将の部隊はどうしていたか?
保安隊は襲撃するに当たって連絡網を全て遮断。
本隊は27日から通州城外で宗哲元軍麾下の部隊と戦闘。
危険が去った段階で通州から30㌔離れた地区へ移動。
連戦で兵の消耗甚だ激しい中、通州平坦部の辻村憲吉中佐が電信室を改修、無電を回復させ急を通報。
そして以下の返電あり。
 
30日午前2時稍々過ぎ豊台発無電にて萱島部隊の主力赴援の通知あり。
全員元気百倍払暁を迎ふ。
 
その萱島部隊は通州は安全だと思っているのに、何故今、大敵を前に反転するのか判らず憤懣やる方なかったようだ。
何しろ2日前に通州を後にしたばかり。
「敵を背にしての行軍は恂に士気振るわず」とある。
連戦の疲労に増して完全装備の背嚢の重さも加わり、30㌔の夜間行軍は並大抵ではない。
 
桂中尉の手記。
 
摂氏40度の炎天下、鈍足の連隊歩兵中隊は逐次後へ残され、通州城門に辿り着いたのは31日、午前2時頃。
先行した連隊主力は何処へ行って何をしているのだろうと不信が募る一方。
城門守備の歩哨から初めて知ったことは「味方と信じていた保安隊が叛逆して攻撃をして来、為に日本守備隊は包囲せられ居留民の大部は殺害せられた、連隊長は守備隊に位置し敵を掃討中である」と。
 
初めて知った愕然たる事実を闇黒たる雨の中で部下に伝えたその瞬間、それまで足腰の立たなかった部下や、私の強行軍を怨んでいた輜重兵までがガバっとばかり立ち上がり「前進用意」の合図ももどかしく、その時までの落伍ぶりとはまるで別人のように歩き出したが、日本人の家を訪ねて見れば、その居室で到る処、惨状が展開されて居た。吾々が一日早く到着して居れば良かっただろうにと切歯しつつ合掌した」
 
萱島部隊の到着を見た生存者たちは軍靴の響きを聞きつつ、生き返った。
 
日本兵が一個分隊くらい通るのを見て、力一杯棒切れについた日の丸を出し、日本 
 人だ万歳ッと腹一杯叫んで救われた」
 
つまりは惨状目を蔽うばかりであったということになる。
そして、事件に対し政府も新聞も素早く対応。
特に新聞社では号外を出し、現地に特派員を急派。
東京日日新聞、読売、朝日は連日のようにこの大虐殺事件を書き立て、現地の破壊された街の写真や証言を載せ、9000万の国民は悲憤慷慨、恨み骨髄に徹し、8曲の国民的悲憤の歌が発売された。
佐藤惣之助が作詩、古賀政男が曲を書き、西条八十も万斛の詩を書き、社会主義者の山川均までが「鬼畜に均しい」と言っている。
所謂、暴支膺懲(ぼうしようちょう)とは、この頃盛んに言われたスローガンなのだろうか。
将に「君よ憤怒の河を渡れ」ということになった。
 
無制限な猟奇的な殺人、この本にはそれらのおぞましい写真が掲載されているが、実にその惨状言語に絶し、正視に堪えない。
かなり長文になり申し訳ないがまだ書かねばならない。
 
雑誌『主婦之友』が吉屋信子をカメラマン同行で現地へ送り込んで来た。
何故、女性の吉屋なのか解らないが、女性だけに現地ルポも大変だっただろう。
一行が通州へ向かったのは8月29日朝。
皇軍慰問特派員」という陸軍からの許可書を持って。
吉屋信子の見聞録はかなり長いが私なりに重要なところを引用してみたい。
 
嗚呼、通州!
北平(ペイピン)に着きし翌日は、まさに八月二十九日(事件一か月後)
特務機関の全員は、重要書類を死守して、五千発の弾丸を撃ち尽くし、遂に甲斐中佐は、白刃を抜いて入り来る敵を突き刺しつゝ力戦、遂に力尽き、無数の弾丸を受けて、無念にも倒れた。
 
もっとも惨劇の激しかった近水楼では。
 
あゝ、今の刹那見た血しぶきは、みな此処の女中さん数人の血だったのか!
か弱い女性に、武器を持って、あらゆる暴力、悪逆非道残忍の行為をほしいまゝにし、地獄の責苦の殺し方をした冀東政府保安隊よ、汝等人類の敵、地球上の男性中の最悪劣等卑劣、獣類に半ばする彼等を、日支親善平和の通州保安隊として、日本軍自ら彼等を、軍隊教練を指導して、一人前の兵士に仕立て上げてやったのだとは、さればこそ、守備隊も通州居留民も、彼等を信頼して、北支事変後も、此処ばかりはと、平和を信じて動揺せず、その日まで、各自業に安じてゐた故にこそ、この無残な災禍を受けたのだった。
 
あゝ、出来る事なら、この場所へ、蒋介石の夫人宋美齢を伴ひ来たって、彼女たち支那の女性の生んだ、支那の男性が、こゝにいかなる女性幼児虐殺を行ったか、見せ、
示してやりたいと思った。
宋美齢夫人よ、いかに?
 
来る時は、保安隊の残兵が出たら怖いと思ったが、帰る時は、われら悲憤に燃ゆるあまり、残兵出るなら出てみよ、必死となって復讐してやる!
と眼が血走る思ひだった。
 
女性にしてこの怒り。
将に怒髪冠を衝くとはこのことだ。
アメリカ人ジャーナリストのフレディリック・ウィリアムズという人はこのように言っている。
 
「古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう」
「最も闇黒なる町の名として何世紀の後も記されることだろう」
 
いつの時代でも歴史というものは神社仏閣、名所旧跡、古文書などを除けば紙に書かれた印刷物でしかない。
そこからいくら事実関係を炙り出したところで想像の域を出ない。
 
特務機関員だった父はよく戦争の話しを熱く語った。
市街戦の模様、複数のトラックで移動中、待ち伏せを喰らい脚に銃弾を浴びたこと。
貫通銃創じゃなかった為に重症であったこと。
同僚が部屋で殺害され秘密書類を盗まれたこと。
トラックの荷台で同僚の頭が敵弾で吹き飛ばされたこと。
砲弾が遠距離に落ちる場合と近距離に落ちる場合の音の違いなど子供の私を捕まえて熱弁を奮っていたが、父にとっての思い出は私にとっての想像でしかない。
 
歴史には時として異説がある。
それをどう取捨選択するかは本人の歴史観や学習力も必要だが、バランス感覚を身に付け、鋭い洞察力も必要となろう。
想像を更に炙り出して肉感的に形作るのは並大抵ではない。
こんな名言がある。
 
「歴史を学ぶとは、現在という高所から過去を審くことよりは、嘗て未来の闇に向か
 って孤独な決定を行った人間の身になることであろう」
 
さて、やっと長い記事から解放されるわけだが、この事件は全国民の知るところとなり、無論、全将兵の耳にも入った。
今現在も両国間で問題になっているあの大事件を溯ること4か月余り。
もし、あの12月13日に起きた虐殺事件があったとしたら、この通州事件の記憶も耳新しい日本兵はどのような思いで南京城内に入ったのだろうか。
上海派遣軍司令官松井石根大将が入城したのは17日。
戦後A級戦犯として処刑されたが興味のある方は一度、松井大将がどのような人だったか読まれるのもいいかと思う。

青春怪談 獅子文六

 
獅子文六、第7弾!
その名も『青春怪談』、相変わらずのドタバタコメディで、あまりパッとしないタイトルだが、まずは目出度い。
これでちくま文庫の復刻版は阿川弘之2冊、源氏鶏太2冊、そして獅子文六が7冊。
どうもこの3人の戦後小説は似たり寄ったりのラブロマンスで、当時にあっては必ずと言っていいほど映画化され、この作品に到っては何と3回もリメイク版があるらしい。
さすがに映画好きの私も、計11作品中、一本も観たことがないが。
 
本作は文六先生、戦後、4作目の新聞小説で当時のエッセイにはこんなことを書いている。
 
180回から200回、言い換えれば、6か月とか7ヵ月とかの間、毎日、欠かさずにものを書くことは、重い労苦であり、それに堪えるものは体力以外にない。
私は、大体、2年に1度ずつ、新聞小説を書くことにしているが、次第に、それも重い負担になりつつある。
 
因みに昭和30年、先生は62歳。
作中人物の主人公は50歳で、既に老人扱いされているから当時の60代はもうお爺さんなのだ。
さて内容はざっとこんな感じ。
 
美男子で合理主義の青年、宇都宮慎一は商売で店を持つことにのめり込み、その婚約者、奥村千春はバレエの道を邁進している。二人には、早くに伴侶を亡くした親がおり、ある時、親同士をくっつけてしまおうと画策するが…。一方でつかず離れずの関係を続ける慎一と千春をうらやむ周囲の人間から、仲を引き裂こうと怪文書が届き、この二人にもドタバタ劇が訪れる!
 
作中、気になった文章と言えば!
 
・セックスを離れて、芸術はないそうだが
 
・うちのママが、乾いた薪であることは、知っていたが
 
・恋愛というものは、灼けつくとか、焦げつくとかとかいう状態に至らないと、本物
 とは思えない。
・対手にすべてを献げるとか、いかなる犠牲も忍ぶとかいう感情が起こるのが、本筋
 である。
 
さすがに分かっていらっしゃる。
まあ、一言で言うならば軽妙洒脱な文体とストーリーで、マンネリと言えば失礼な話しだが、軽く読んで忘れてしまう小説ということにもなり、今日、絶版久しいのも頷ける。
故に、将来、また再び、文六ブームが来るのはいつのことやら。
だから、今の内に読んでおくのである。
必ず、また絶版になる日も近いはず。
 

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箕面

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どうです、この佇まい。
昔は料亭でもやっていたのでしょうか。
木造3階建てで今は1階が喫茶店。
勿論、これを見ては入らずにおられません。
古い建物が大好き。
下は川でせせらぎの音が何とも心地よい。

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野口英世博士です。
15年のアメリカ滞在を経て日本に帰ってきたのが大正4年の9月。
昔の話しですね。

まだ私の父も生まれていません。
その野口英世が慰労ために母を伴ってこの地を訪れたとか。
そしてこの銅像が建てられた。

 

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日本会議 戦前回帰への情念 山崎雅弘


最後の岡っ引きと言われ、「吉展ちゃん事件」の犯人、小原保を落した警察官、平塚八兵衛は、小原処刑の報を聞いて、しばらく後、その小原保の墓参に行ったと記憶するが、日本人的な思想では、どんな悪人も死ねば、みな仏になるという概念があると何かで読んだことがある。
何も平塚さんは極悪人を賛美するために墓に参ったわけではない。
 
しかし、どうだろうか?
靖国の問題は戦後七十年余の今日に至っても参拝の是非を巡る議論は内外ともにかまびすしい。
注意すべき点は、あくまでも内外共にというところにある。
つまり国内に於いても非を主張する人が居るからに他ならないのだが、するとどういうことになるのか?
 
つまりは、処刑され、死して尚、極悪人というレッテルを貼られているが故、参拝は相ならんというわけになる。
死ねばみな仏になるのではないということを一部日本人が、これまた内外に声高に叫んでいる。
 
先にお断りしておくが、当ブログは政治関連ブログに非ず。
これは、読書感想文であること、お間違えなきよう。
 
さてと、どうするか・・・!
つまりはこういうことだ。
靖国に参拝して戦没軍人に手を合わす、それ即ち、戦争指導者にも手を合わせているということになる。
そこで見解が分かれる。
ただ分かれるだけではない。
右派と左派の鬩ぎ合いは舌鋒鋭く批判し合い、まるで民族を二分するかのようだ。
 
しかし、この論争、客観的に見て着地点などあるのだろうか。
全く持って不毛の論争のように映るが。
しかし、人間は不毛の論争だからと言って押し黙るということはない。
却って逆だ。
最近の傾向を見ていると熱戦がより煽られているように見えるのだが。
 
そもそも、歴史観が違う場合、いくら話し合っても解り合えるなどということはない。
話せば分かるなどというのは犬養毅の場合だ。
そこで妥協点として出たのが、何処か別の場所に無宗教で誰もが参拝出来る所を作ってはどうかと言う案が誰かの内閣の時にあった。
しかし、この案はどうだろうか?
 
戦没者の多くは靖国で会おう」と言って散華した人も多く、それら故人の意に反して全く知らない場所に祀られるということを知ったらどう思うだろうか。
仮にである。
全国民が靖国参拝を拒否する。
唯の一人もお参りしない。
もし、私が戦没者で後世の人からそっぽを向かれたとしたら、私たちは何の為に戦ったのかと思わないだろうか?
 
あの熾烈な戦いを経て今日があるのに戦死した人のことなんか関係ないなんて思われたら一体どうしたらよいのか。
もう、馬鹿らしくて遣ってられないねとならないだろうか。
余談が長くなった。
 
日本会議、現在、日本最大の右寄りの団体だが戦前の黒龍会玄洋社の流れではない別の団体になるが思想的には近いものがあるのだろうか。
しかし、著者は左派的な立場で書いている。
日本会議」とは何ぞや!
 
国家神道体制下での時計の針」を再び動くようにして戦前回帰のカリキュラムで日本を統治しようというようにも思える内容だが、果たしてどうか。
例えば弁護士になるにせよ検察官なるにせよ司法試験を受けなければならないわけで、同じ試験を受けながら一人の容疑者に対し、死刑を求刑をする検察官と無罪を主張する弁護士が居る。
この現象を我々素人はどう見たらいい?
 
国家試験をパスした秀才の二人が一つの事件を巡って全く相反する結論を導き出す。
更に、正義はこちらにありと御旗を振りかざす。
殺したか、殺してないかに関して灰色決着などあり得ぬ。
それでは、南京問題をどう考える。
 
私個人はあったと考える。
しかし、数が問題だ。
昔、読んだ本にも書いてあったが、30万人はともかく、例え3000人でも大虐殺に違いないと言えば、私はそれに同意する。
だが、大事なのは今日のような平和で人道的立場から当時の事件を一方的に糾弾するのはどうかと思う。
著者もこう書いている。
 
「いずれのケースも苛烈な戦場における将兵の異常心理状態を十分考慮すべきであり
 また、被害者の総数も立証されていない」
 
法廷論争でよく耳にする、被告人は当時、心神耗弱状態にあり云々。
そういう見解が通るなら、戦場に於いては双方が心神耗弱状態にあると言える。
戦火の中で人道主義などと唱えていては自らの死を招く。
つまり、非は戦争そのものにある。
しかし、一端、戦火を交えたら最後、将兵たちは、文字通り死力を振り絞って戦うしかあるまいに。
誰もが死にたくはない。
ならば相手を殺す。
それが戦争だと思っている。
生きて、家族の下に帰らねば。
 
故に軍旗に悖る行為があったと想像する。
しかし、ある面、戦争とはそういものだということを物語っているとも思う。
日頃、優しかった父や兄と雖も戦場に於いては正常な感覚足りえない。
では、それらの行為に及んだ、または指導した将兵が祀られている靖国で手を合わせたら戦争肯定論になるのかと言えば、事はそう単純ではあるまい。
 
何だか話の本質が筋に乗っ取っているのかどうか怪しくなってきたが、日本会議が目指す戦前回帰というものが事実だとしても、左派勢力の言う再び大陸への侵攻などは俄かに信じられない。
何の為に?
何の目的で?
貿易に頼らざる得ない日本の現状では領土防衛の為の紛争はあっても侵略行為の再現などはあり得ないと思っている。
 
では、何故、日本会議なる右派が存在するのか。
戦前回帰と言っても、それは日本人としてのアイデンティティを取り戻すと言うことであって、何も今更ファシズムの道をひた走り、昔、来た道を逆戻りして滅亡の淵に立つ、そんなことはないと信ずる。
また、そんな企みがあっては堪らない。
確かに今の世界情勢は混沌としている。
何が起きるか解らない。
それ故、しっかりと凝視する必要はあると思うが、あまりヒステリックに事を荒立て考え過ぎるのもどうかと思うが。
 
一番偉いのは戦争をしない軍人だと言った人が居たが、精神の鍛練は怠りなく誤りのない舵取りが出来る人ということだろうか。
しかし、日本を取り巻く情勢は思った以上に激越で更に、右派と左派の対立は罵り合っているように感じる世情になって来た。
荒廃した精神構造を戦前回帰の下に取り戻す勢力を日本会議と呼ぶか、再びファシズムの下に超国家主義の道をひた走る集団を日本会議と捉えるのか解らないが、ただ、言えるのは、この本を読めばみな統一した考えになるとは必ずしも言えないことだけは確かだと思う。
 
アメリカの新大統領は果たしてDr.スランプならぬDr.トランプになるのか否か。
ある面、興味ある時代に突入したのだろうか?
 

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ないもの、あります クラフト・エヴィング商會

 
『ないもの、あります』とはどういう事なのかと購入前には思っていたのだが。
つまり、『ないもの』を売っている店ということになるわけで。
店名はクラフト・エヴィング商会。
著者もクラフト・エヴィング商会となっている。
では、一体、どんな物が売っているのかというと、これまた抱腹絶倒の商品ばかり。
さて、その商品名をずらりと並べてみると・・・!
 
「堪忍袋の緒」
「舌鼓」
「左うちわ」
「相槌」
「口車」
「先輩風」
「地獄耳」
「一本槍」
「自分を上げる棚」
「千本針」
「思う壺」
「捕らぬタヌキの皮ジャンバー」
「語り草」
「鬼に金棒」
「助け舟」
「無鉄砲」
「転ばぬ先の杖」
「金字塔」
「目から落ちたうろこ」
「おかんむり」
「一筋縄」
「冥途の土産」
「腹時計」
「他人のふんどし」
「大風呂敷」
 
つまり、これら一般では手に入らぬ商品をクラフト・エヴィングなる商会が新しい看板を立ち上げ販売しているというわけだ。
ただし、いつ行っても品物があるとは限らず、場合によっては取り寄せもある。
更に、あんなもの、こんなもは置いてありませんかという問い合わせも多数あり、まずは商売繁盛。
 
さらには使用上の注意から効能まで親切丁寧明朗会計。
例えば「堪忍袋の緒」については以下のように書かれている。
「えいっ!」と思いっきりよく切ってしまって、人生を棒にふることもあるので注意が必要」などという説明書き。
因みにこれは下町町人の手作り。
 
一番の人気商品がこれ。
「左うちわ」
これさえあれば他になにも要らない商品。
朝寝、朝酒、朝湯も大結構。
毎日が竜宮城状態。
 
そして、悪党の皆様の為の限定商品として「口車」がある。
特に口達者の悪者にはお薦め商品。
舌先三寸で転がすように作られている一品。
 
「思う壺」も売っているようだが、これがなかなか手に入らない。
いつも先方にばかりある商品だからだ。
即ち、「相手の思う壺」「敵の思う壺」「向うの思う壺」、つまり、「自分の思う壺」なる商品は自分には回って来ないものだとか。
 
そして迅速をモットーとする店として一番の商品は「捕らぬタヌキの皮ジャンバー』
「ほしい」と思ったら直ぐ「はい、どうぞ」と出てくる品物。
さらに代金はただ。
何しろ、タヌキをまだ捕まえていないし、この世に存在するかどうか判らぬタヌキ。
 
「語り草」ついての注意書きには、育て過ぎると「お笑い草」になってしまうので気を付けるようにとある。
 
ところで「猫に小判」「豚に真珠」の商品は常時在庫が豊富だが「鬼に金棒」は最近在庫切れ状態。
何故か、近年、「鬼」の存在がめっきり減ったためだとある。
 
そして「冥途の土産」だが、その土産の塩梅が難しいらしい。
「できちゃったよ」ぐらいが程よい商品。
「ひひひひ、出来たぞ、できた」では大した土産にはならない。
「お前さん。これで冥途の土産が出来たっていうもんだね」
この一言があれば最高級品!
 
最後の一品、それが「大風呂敷」
どんな大きなものでも包み込んでしまうが、まるで何も無かったように、さっとたたんで消え去ること。
ここが肝要。
 
近年、これほど笑った本はない。
文章で人を笑わせるにはよほどの技量と知識とセンスが必要だ。
その全てを兼ね備えているのがクラフト・エヴィング商会。
早速、私も「金字塔」と「左うちわ」を注文した。
これで余生はご安泰間違いなし!
こういう店を待っていたんだよ!
 
早く届かないかな、取り敢えず私は「ろくろ首」は要らないから。
そんなに長く待っていられない。
 

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