愛に恋

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恋日記 内田百閒

 
今現在、いずれ読みたいと思っている本は430冊ほどあるのだが、先日のように古書市に出向くと必ず何冊かは見つかるもので、そんな時は必ず「あっ、あった!」と呟いてしまう。
その一冊が今回の内田百閒『恋日記』だったのだが、読んでみるとこれが意外に手間取る。
日記は明治38年9月19日から始まるが当然のことながら現代語ではなく文語調で書かれ読み下すのに苦労する。
 
熱烈な恋愛対象の相手は百閒の友人、堀野の妹清子なる女性だが記録を見ると、明治38年、百閒は岡山中学四年の17歳、清子は女学校一年の13歳で何れも数え年なので現代では百閒が高校一年、清子は小学校6年となりはしないか。
 
百閒日記の特徴は、夕食後に出向いた堀野家の場面だけで、私生活なり学校での出来事などは皆無で、ひたすら、家人に気持ちがバレないようにしながら全神経は清子だけに向けられている。
帰宅後、その日のことをつぶさに書いたのが『恋日記』で、公開予定はなく結婚後、清子に見せるためだけに書かれたものらしい。
 
まだ、恋などという艶っぽいことを知らぬ清子に対し、百閒は既に将来の嫁は清子を於いて他にないと心定めていたようで、いくら明治の昔が早婚だったとはいえ、まだ小学生の子に対しそのような気持ちになれるものだろうか!
しかし、このような記録もあることからして、余程、清楚、美人な少女だったのか。
 
閑院宮妃殿下の公園に於ける愛国婦人会支部の総会に於いて、殿下に茶菓出す給仕として女生徒中より、岡山高等女学校より五人を選びたり。才と色と列べる少女を、而して実に清さん(清子)はその五人の一人なりき。
 
ともあれ現在『恋日記』を読めるのは、昭和39年夏他界した清子の形見分けで押し入れから出た風呂敷を三女の菊美さんが貰ったことに端を発する。
その後、四半世紀の時が過ぎ、日記の存在を遺族が明らかにしたことで徐々に出版の道が開かれ、現在、原本は岡山県郷土文化財団に寄贈さる散逸を逃れている。
 
本書には生涯一度の証言として娘伊藤美野さんの『父・内田百閒』という小編が掲載されているが、あれほどまでに好いた清子と所帯を持ち子供にも恵まれたのに百閒は外に女を囲い、挙句の果てには出て行った。
金銭感覚にしてもおかしい。
相当の稼ぎがありながら贅沢三昧でいつも困窮、その度に清子の嫁入り道具が質草となっていったが、娘たちはしきりに離婚を進めたが清子は頑として受け付けない。
 
「そんな騒ぎを起こしたら、弱虫なんだから、お父さんはもうそっれきり物が書けなくなってしまう、そんなことはしたくない、私はこれでいいんだ」
 
と娘たちを呆れさせた。
百閒にも言い分はある。
大所帯となった内田家では煩くて物が書けない。
安らぎを求めて静かなところでゆっくり生活がしたい。
しかし、これは一般的には通らない話だが百閒は意に介さず押し通す。
だが、世間知らずの思春期に覚えた清純な気持ちは本物だろう。
あの頃は対象者が人生の全てのような錯覚に陥りやすい。
そして17歳の百閒が書いた日記はさすがに文学者を目指すだけのものはある。
 
あゝ我は今夜清き少女の清さん(清子)を見んとて行きて却りて、汚れたる清さんに会ひたり。実に、我は、清さんに対して一片の肉情を起さゞるを誇る。否起し能はざるなり。我の清さんと相座するや、何となし心中陶然として身はこれ楽園にあるが如く感ぜらるなり。帰りて後も亦、一種の清風心中を吹き渡りて云ふべからざる爽快を感ずる也。さるにても、先ずかゝる事は云わざるべし、最早筆を措くべし。
 
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