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時代の一面 大戦外交の手記 東郷茂徳

日本人にとって著名な外務大臣といえばいつの時代でも陸奥宗光小村寿太郎ということになるのだろうか。
中学の歴史教育でも確か、この二人しか習った記憶がない。
いずれも戦勝国日本の外相ということで殊更にクローズアップされていると思うが、明治以来、東郷茂徳ほど時代の難局に敢然と立ち向かった外相は他に見当たらないと思うがどうだろう。
開戦内閣の外相、またA級戦犯として訴追されている関係上、あまり良いイメージがないのか、どうも知名度が低い。
 
本書は禁固20年の刑を受けた東郷が亡くなる半年前の昭和25年1月5日から3月14日までの二が月余りで一気呵成に書き上げた獄中記でおそらく原稿用紙にして一千枚近くにはなろうかという大作だが、それにしても、さしたる参考文献もない中、よく短期間でこれ程のものが書けたものだと、今更ながら東郷の記憶力、またその能力に驚く。
 
東郷は大正元年に外交官試験に合格、翌二年、奉天在勤を命じられたのを皮切りに波乱に満ちた外交官生活が始まる。
その後、赴任先はスイス、ドイツ、ソ連と幾たびか変わるが大正初年度から終戦まで、第一次欧州大戦を挟んで多くの難問重責を抱え休まる時がなかった。
 
本来、東郷の根本思想は国際信義、条約神聖、平和的紛争処理で決して主戦論者ではない。
しかし外国から日本は二元外交と見られていたように横暴な軍の横槍には時に屈し、中でもドイツ大使時代、大使館付陸軍武官大島中将は東郷を差措いて外相リッペントロップと直接交渉、三国同盟締結など、この時代の大使館付武官はかなりの力を持っていた。
事実、海軍武官は海軍省へこんな電報を打っている。
 
日独協力関係増進を必要とする此際、独逸外務大臣と折合の悪い東郷大使を留任せしむることは帝国のために採らざる処なり
 
その後、東郷は更迭されソ連大使に転任。
東郷は日独接近に危機感を覚えていたが軍は防共協定、更には同盟関係へと急速に舵を切り替えて行く。
ところで、この当時、松岡外相の構想は日独伊三国同盟に加え日ソ不可侵条約締結で強固な関係を以て米国に当たらんとしていたらしが、39年6月22日の一大事。
 
独逸軍のソ連進撃の飛報が伝わったので日本側にも多大の衝撃を与えた。
松岡外相はソ連挟撃を按じたが近衛首相の反対により成立しなかった。
 
ソ連と条約を結んだ本人の松岡は参内して、この際ドイツ軍と共にソ連を挟み撃ちにするよう上奏、陸軍の一部も、この機に乗じて東西相呼応してソ連打つべしと主張、
もしこの時、関東軍が北進論を採っていれば確実にソ連は崩壊し大戦の行方も変わっていたかも知れない。
さて、問題の日米交渉の発端だが1941年4月14日、ハル国務長官が野村大使に、
 
日米了解案なるものにより交渉を進めても宜しきや、日本政府の訓令を得られたい
 
と申し出たことに始まる。
よく知られているように近衛公は松岡ある限り日米交渉は纏まらぬと決断、第三次近衛内閣では外相に豊田海軍大将を起用、しかし、米国、並びに東郷を驚かせたのは7月21日の日本軍南部仏印進駐。
 
それより先の39年7月、米国は日米通商条約の破棄、40年9月には屑鉄の輸出禁止等経済制裁の始まりで、南部仏印進駐問題はフランス降伏後に誕生したドイツの傀儡政権ヴィシー政府と印度支那共同防衛に関する議定書が7月29日に調印された結果の進駐だったが、米国政府の硬化した態度は寧ろ日本にとっては予想外のことだった。
さらに米大統領は在米日本資産凍結、続いて石油の輸出禁止を命じ、これが日米どちらも予想した戦争勃発の決定的要因で尚且つ米国は重慶蒋介石政府を援助していた。
 
日本側は9月6日御前会議事項として。
 
十月上旬頃に至るも猶我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対英米蘭開戦を決意す
 
備蓄燃料が枯渇してしまえば海軍の大艦隊は宝の持ち腐れ。
結実の見込みなき交渉を継続して遂に戦機を逸するということになっては一大事と豊田外相は陸軍の駐兵問題に対し多少なり譲歩を求めるが軍部はこれを拒否。
ここに第三次近衛内閣は退陣、愈々以て東條内閣の誕生、外相は東郷ということになる。
東郷は書く。
 
由来戦争はよほどの軍国主義者に非ざる限りこれを欲するものはいないので、この点は米国でも日本でも異なることはない。即ち平和を欲し、戦争を回避せんと欲すと云いながらその主張を固執して一歩も譲らないのはなんらの意義を成さない。無論その主張が正義に合致するやまた国際信義に背反せざるやは、第一に検討すべき問題であるが、相手の立場をなんら顧慮することなく自己の繁栄のみに執着するが如きは、真に平和を希求するものとは云えない。
 
ところでこの時期、日本の空母機動部隊は11月10日に単冠湾に集結、26日、真珠湾攻撃に向けて出発。
しかし、驚いたことにこの事実は東京裁判に於いて初めて知ったとあることからして当時、首相は元より陸相、外相に至るも統帥部から事前に知らされていなかったことになる。
いくら内閣と統帥部が同列の立場とはいえこれは酷い。
欧米では考えられないことだ。
 
日米開戦が差し迫り連日のように連絡会議が開かれていた。
連絡会議の構成委員は以下の如し。
内閣からは総理、陸軍、海軍、外務、大蔵、企画院総裁。
統帥部からは参謀総長軍令部長、並びに両次長、また幹事として内閣書記官長、陸海軍軍務局長が出席。
 
11月1日から2日の連絡会議は大激論。
主題は交渉不成立の場合の対応策。
 
一 ただちに開戦
ニ 臥薪嘗胆
三 開戦決意を以て交渉を継続
 
連絡会議の大勢は交渉決裂の場合、戦争勃発を覚悟すべし。
出先大使は、その決意で交渉に臨まなければならない。
従って11月末までに交渉不成立の場合はただちに開戦。
あくまでも交渉継続を主張する東郷とジリ貧になる前に開戦を主張する軍令部総長
 
一方、アメリカ側は進展をどう見ていたのか。
昔からルーズベルトは日本の奇襲攻撃を事前に予知していたという説があるが、これはもう当たり前でしょ!
ルーズベルトほどの人が全然予想だにしなかったなどというのは愚の骨頂。
東郷自身も書いている。
 
如何にすれば日本に第一砲火を発射せしむることが可能かと云うことであって、その翌日に手交すべき日本人への回答について、日本人との交渉成立を計る気配は全然ないのは極めて重大な点である。
 
11月26日、運命のハルノートの提出、翌27日、米国は戦争必死と見て陸海軍長官は戦時警報を発令。
ハルノートの衝撃は日本に全面屈服か戦争かを迫るものであって、結果的には窮鼠猫を嚙むの例え通り日本は開戦に踏み切った。
日本の国民感情を無視するものとして名高いこのハルノートを巡っては米国の歴史家さえこう言っている。
 
国務省が日本政府に送ったような覚書を受け取ればモナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国に対して戈をとって起ちあがったであろう」
 
ただ、ルーズベルトの誤算は日本海軍を甘く見ていた点だ。
予想を超える甚大な被害に大統領はどう思ったことであろうか。
東郷は言う。
 
日本にまず手出しせしむるように仕向けた事実は、米国側の材料によって明白であるが、これを挑発と云わずして何と云おうか。また先に手出ししなければ如何に挑発しても差支えないないと云うことは、道義的に見れば偽善、悪徳しかも卑怯なやり方である。これを正当視することは東洋道徳にては勿論、動機を尊重する泰西倫理学に於いてもとらざるところである。
 
長くなったが終戦鈴木内閣の外相としての東郷の立場は今更私が言うまでもなかろう。
唯一つ、20年8月9日の構成員会議の論争点だけは書いておきたい。
国体護持に関しては全員一致で異論はない。
しかしながら以下の四つの点で意見は纏まらず。
 
一 保障占領はなるべく短期間、且つ東京を除く
ニ 武装解除は我が方にて自主的に行う
三 戦争犯罪人の処分は我が方にて行う
 
即ち、これは無条件降伏に非ずして有条件降伏。
拒絶された場合は地の利を生かし、本土決戦で一度米国を叩いた後、講和に持ち込む。
しかし、原爆投下、ソ連参戦で一刻も早い終戦を力説する東郷。
阿南陸相との激論、そして14日の御聖断。
 
最後に東郷氏は、これを娘のいせさんに託し、早くこれを読んで意見を聞かせてくれと言った5日後、米陸軍病院で息を引き取った。
昭和の一級資料はこうして残った!
 
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