愛に恋

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泡沫の35年―日米交渉秘史 来栖三郎

 
 故事に「勝家の甕わり」という言葉があるが、日本人は昔から坐して死ぬより討って出るのを潔しとする習性があるのだろうか。
例えば浅井長政は籠城せずに果敢に討って出たし、石田三成は家康が上杉攻めで大坂を留守にした間を狙って挙兵した。
真田幸村は凡そ勝ち目のない戦を死に場所と定め決戦に臨んだ。
 
幕末維新ではどうか。
河井継之助は交渉決裂と見るや官軍を攻撃、落城した長岡城を奪い返している。
松平容保は孤軍奮闘、非は長州にありとの信念を曲げず籠城戦を戦い抜いた。
西南戦争では「政府に質問の儀、これあり」桐野利秋ら薩摩勢は挙兵し、熊本城争奪戦へ。
しかし、これらの武将たちはみな破れ滅んで行った。
 
最近、『それでも日本人は戦争を選んだ』という本が出ている。
維新以来、外国との戦争をすること数度。
日清、日露、第一次大戦満州事変、盧溝橋事変、そして太平洋戦争へと。
今日、これらの戦争は全て検証され尽くしているが太平洋戦争だけはどうも決断の点に於いて不可解な問題が多い。
ドイツと違い、誰が開戦のボタンを押したか今日以て私にはよく判らない。
 
理由の一つは他の法治国家と違い手続きが非常に煩雑で解り難い。
大日本憲法下では帷幄奏上というシステムがある。
軍令部総長参謀総長は直接、政府を通さず天皇に奏上できる仕組みで、謂わば政府と統帥部は同等の立場であった。
外交に関しても軍部が外務省を凌駕する時代が昭和初期から始まっている。
幣原外相などは軟弱外交と軍部から揶揄されてもいた。
 
諸悪の根源はどこにあったのか。
例えば二・ニ六事件後、現役大将は全て予備役に編入され広田内閣の陸軍大臣になったのは寺内寿一中将だが、寺内陸相山本権兵衛内閣が苦慮して作った制度をなし崩し的に改正し、軍部大臣現役武官制を復活せしめ、これが軍人の政治介入に大きな役割を果たすことになったのではないだろうか。
 
前節が長くなったが昭和16年の日米交渉はおそらく誰が大使であれ日米了解案は纏まらなかったであろう。
16年1月、駐米大使に就任した野村吉三郎はルーズベルトと30年来の旧知の間柄ということで期待されていた。
海軍大将、軍事参議官、学習院院長、外務大臣を経て赴任しだが、一向に捗らない交渉の手助けとして送り込まれたのが来栖三郎というわけだ。
 
来栖は日独伊三国同盟に署名した本人で、その当時はドイツ大使だったが、これを最後に退官しようと思って帰国した直後、予想外にも駐米大使を要請され、風雲急を告げる太平洋の荒波を渡ったわけで、それからの野村、来栖両大使の苦渋に満ちた日々を思うと同情に値する。
11月5日の東郷外相からの訓電では。
 
「本交渉ハ諸般ノ関係上遅クモ本月二十五日マデニ調印ヲ完了スル必要アル処右ハ至難ヲ強フルガ如キモ四囲ノ情勢上絶対ニ致方ナキ儀ニツキ」
 
つまり、政府は軍部作戦の必要上交渉期限は11月25日が限度だと訓令しているが、出先機関は作戦行動に就いては一切聞かされていなかった。
連合艦隊は全無線を封印し、それぞれ単独でヒトカップ湾に集結、12月1日、午前0時を持って作戦行動に従事すべしという命令だったと思うが。
 
アメリカ側の態度を硬化させているのは日本軍の南部仏印進駐で野村大使は大統領に資産凍結の解除と引き換えに南部仏印からの撤退を進言しているが、政府への回電はかなり厳しいものになっている。
 
「単ニ凍結前ノ事態ニ復帰スルト云フガ如キ保障ニテハ到底現下ノ切迫セル局面ヲ収拾シ難ク」
 
「情勢緩和ノ手ヲ打チタル上ニテ更ニ話合ヲ進ムルガ如キ余裕ハ絶無ナリ」
 
「右ニテ米側ノ応諾ヲ得ザル限リ交渉決裂スルモ致方ナシ」
 
東郷外相は決して主戦論者ではないが国内事情に鑑みということだろう。
しかし26日、運命のハル・ノートが提出され政府からは29日までに調印完了というタイム・リミットも課せられ「我々の失望は甚大なものであった」と来栖大使は嘆いている。
息詰まる状況下、両大使は27日、最後の大統領との会見、当のルーズベルトは12月1日にも日本軍の奇襲があり得ると警戒していた。
それほどハル・ノートの衝撃は両大使にとって強烈だったが、行方を眩ました連合艦隊の動向を躍起になって探している軍からの報告で大統領も焦っていた。
 
これより先、交渉妥結に向け洋上で近衛・ルーズベルト会談を模索する動きもあったが実現しなかった。
その後のことは周知の事実だが、戦後、来栖はこのように語っている。
 
「われわれは無慙に敗戦した。われわれは、われわれの先人が少なくとも明治維新後に築き上げたすべてのものを、国際的にも国内的にも、政治的にも経済的にも、ほとんど根こそぎ失ってしまったのである」
 
「官僚や左翼の人々は、とかく何事にも「企画」を主張し「統制」を主張するが、人生には偶然が多く、矛盾が少なくない。人間の知識徳性の現状において起こり得べき偶然のすべてを予測し、存在する矛盾のすべてを克服し得るがごとき「企画」や「統制」はあり得ようとは思われないのである」
 
「電流も蒸気もそれ自体に機械を動かすつもりはない。これを善導して動力たらしめるところに技術の尊さがあるのである」
 
なるほど、今日、野村吉三郎の伝記本はあるが来栖三郎の本というのはあまり聞かない。
その意味では貴重な回顧録だ。
因みに駐独大使だった来栖の後任は大島浩元陸軍中将。
戦後、大島浩は戦犯訴追された。
来栖は、あるアメリカ人に焼野原となった東京を見た後、こう言われた。
 
「一般の米国人が一番忘れない名は、東條でも東郷でもない。来栖という名である」
 
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