愛に恋

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広重ぶるう  梶よう子

読者の中には安藤広重と覚えている方もおられようが、これは広重の本姓で正しくは、歌川門下に入ったので歌川広重が正しいらしい。私は好んで時代小説や歴史小説を読むが、戦国期や幕末維新の他はさして詳しいわけではない。ましてや錦絵に関してはずぶの素人。錦絵というのは先ず蔦屋のような版元が居て、彼らが画師に注文を出す。つまり版元がいなければ仕事にならないというわけだ。で、画師が描く、次が版木に掘る、そして摺師が刷ってあとは何部と決めて売り出すという分業なわけだ。ここで人気画師になれば版元も画師も儲かるわけだが、そもそも広重は幼名を徳太郎、のち重右衛門といい、数え13歳で広重が火消同心職を継ぐが、15歳のころ、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広に入門。文政4年に、同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚した。 文政6年には、養祖父(安藤家)方の嫡子仲次郎に家督を譲り、一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになったらしい。ヒロシゲブルーというのは、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高い絵具ラピスラズリのことで、大量に輸入されたのをきっかけに広重はこれに目を付け、有名な『東海道五十三次之内』を描き大ヒットしたわけだ。然し、時代小説などで賞を獲るような人は、実に良く歴史を知れべている。カバン持ちに雇ってもらいたいぐらいだ。最後に広重が死んだ安政年間というのは実に大きな天変地異や事件が起こったものだ。黒船騒ぎ、安政の大地震、大水、安政の大獄、そして広重の命を奪うコロリ。コレラだ、 安政5年9月6日、61歳没。維新の夜明けを見ずに逝った。