愛に恋

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日本の偉人伝 Part.9 

五味康祐、剣豪小説で知られますが麻雀、占い、オーディオなど様々な分野で著作を出し大変人気がありました。

檀一雄です。ライフワークとなった火宅の人などの他、檀流クッキングなど料理本も執筆しています。最後の無頼派と呼ばれたりもしましたが、しかしどうだろう、失礼ながらあまりモテるようなタイプとも思えないが女性遍歴は豊かだった。だがどうしたわけか、娘のふみにはとんと浮いた話もなく、今年、ついに70歳を迎える。

1863年の2月14日は日本の思想家、文人岡倉天心が生まれた日です。語学にすぐれ、ニューヨークで『茶の本』を出版しました。日本の美術史学の開拓者で日本美術概念のの確立に寄与し、英文で著作を発表しています。本名は覚三。御用外国人フェノロサの助手となり法隆寺夢殿の秘仏・救世観音開き扉等、10年間で21万件もの仏像・ 文化財を調査。のちに東京美術学校(東京芸大)の初代校長となる。

3月7日は、安部公房の生誕100年に当たります。『壁』『砂の女』『箱男』をはじめ、その尖鋭な創造力から生み出された傑作の数々は世界を震撼させ、今なお多くの人に影響を与えて続けています。併し、何となく難解な作品ですよね。長生きしていればノーベル文学賞は確実だったのかもしれません。

狂人日記の凄まじさ、うらおもて人生録の優しさ。阿佐田哲也名義で麻雀小説も書いています。

満州国皇帝の姪・愛新覚羅 慧生と青森県八戸市出身の大久保武道。昭和31年に学習院大学で始まったふたりの恋は、翌年の末にピストル心中という最後を迎えた。その場所は静岡県天城山。当時のマスコミが「天国に結ぶ恋」と大きく報道する一方、双方の家族は「無理心中」と「同意の上」をそれぞれ主張した。一体ふたりはなぜ永遠の旅立ちを選ぶに至ったのか。慧生の親友や武道の実弟の貴重な証言を交えて愛の軌跡をたどりつつ、いまだ明らかにならない真の動機に迫る。『われ御身を愛す 愛新覚羅慧生 大久保武道 遺簡集』を読んだが分らない。

北杜夫は1981年に自宅を静かにし「マンボウ・マブゼ共和国」の独立を宣言しました。国歌や国旗も準備していました。

分かりますか、戦後の永井荷風と仲良し女性群です。女好きな荷風らしいですね。

1903年5月22日、第一高等学校の生徒であった藤村操が華厳滝で自殺した。 学校で藤村に英語を教えていた漱石は、予習をしてこない反抗的な藤村に対し 「勉強する気がないなら、もうこの教室に来なくてよい」とも発言しており、自分のせいで自殺したのではないかと少々病んだという。藤村がミズナラの木に記した遺書は「巖頭之感。悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懷いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の 不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。」

1840年5月22日、最期の薩摩藩島津忠義が生まれました。 島津久光の長男で、久光や西郷隆盛 大久保利通に実権を握られながらも、藩主として倒幕運動に寄与しました。 八女の俔子が昭和天皇の后の香淳皇后を産んだことから、忠義は天皇陛下の高祖父にあたります。