愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

死してなお踊れ: 一遍上人伝 栗原康

一遍というのは二つの意味があるらしい。一つは「一日にしてあまねく」阿弥陀の心は我ひとりももらさじ。阿弥陀という一つの存在が、衆生をあまねく包み込んでいる、浄土の教えとはそうものだと。二つ目は「ただ一度だけ」これがよく解らない。ただ一度、南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に行けるのかといえば、そうでもないらしい。ともあれ一遍は念仏踊りで教えを広げ、何もかも捨てて、地位、財産、土地、家族まで捨てて踊り続け全国行脚に出た。初めは乞食坊主のように思われていたが、自然に人があつまり宗教問答や徹夜踊りのようにして衆生を浄土に導くことを念じたらしい。「仏が迎えにくるのを待ち、毎朝、最期のときが近づくのを喜びとする。」「三業を天運にまかせ、四儀を菩薩にゆずる」念仏に作法なんていらない。歌いたいときに、歌いたいように、歌えばいい、ということだが。彼は遺言として教団は作るなといっているが、結局、教えは「時宗」となって残った。聖というのは乞食のことだと思うが、おこぼれや、お布施など頂いて、それこそみすぼらしい姿で広場や寺で問答や踊りを見せて、民衆を巻き込んで念仏踊りをするのか。一遍は空也を尊敬しているらしいが、空也曰く「捨ててこそ」の教えをそのままの一生だった。いまのご時世ではさすがに念仏踊りは出来ないだろう。