『溝口健二を愛した女』なんて言うから、例に拠って不倫話でも始まるのかなと思いきや、豈図らんや、全く不純な関係などないまま終わっていくストーリーだった。
まず、坂根田鶴子という、この聞いたことのない女性は明治37年12月7日、坂根清一と志げの長女として京都で生まれる。
清一は宮津で代々縮緬織りの織元の子として生まれたが、発明好きが昂じて京都に出てから亡くなるまでに、特許を200近くも取り、中でも大ヒットとなったのは「小町糸」と「魚のウロコで作ったハンドバック」で、これが売れに売れ、巨万の富を得て社団法人帝国発明協議理事となり地位、名誉、富と全てを手に入れたとある。
更にその頃流行り出した活動写真に興味を持ち、発明の過程をシナリオに書き、日活撮影所で『絹の帝国』『発明日本の女性』『発明行進曲』と三本の活動写真を自費で作らせ、大正13年には帝国キネマ制作の『籠の鳥』1500万円の制作費を個人でスポンサーになるほどの大盤振る舞い。
銀行員の初任給が50~70円の時代の頃にである。
その関係で田鶴子は父とよく撮影所に出入りしていたらしい。
まだ女性従業員の数が少ない時代、活動写真なら男女の差はなく、努力次第で女性監督第一号になと決め、早速、父に相談。
然し、当時の映画界は河原乞食より低い職業だと世間では思われており、さすがの進歩的な親もこれには反対。
だが、一度、父の紹介で見合い結婚をして失敗した田鶴子は、もう女として生きて行くのは嫌だと迫り、結局、親の伝手を頼って半年間無休が条件となり日活京都太秦撮影所助監督という待遇で入社することになった。
それが昭和4年10月末のこと。
入社当日は束髪、銘仙の対になった着物に御太鼓帯、下駄履きで通用門から所内に入ったところで守衛から、
「どなたですか、何しに来たんですか」
と、冷たい質問、
「今日から現代劇部監督助手として、こちらへ見学に来るようにと言われたのですが」
といって守衛を驚かし、以後、毎日弁当持参で撮影所に通い、セットの見学を初め、監督たちの会話や服装、ヘアースタイルなど、今まで見たこともない男性の中から目を引いたのが溝口健二だったらしい。
そんなある日、制作部長から、
「溝口先生の所の仕事を手伝って貰いたい」
と言われたのが運命の始まりというわけだ。
それからというもの、脚本の口述筆記をするため毎日のように溝口家に通う。
溝口の帰りが遅いときなどは好きな絵を描いて待っていたが、溝口はかつて黒田清輝の主宰する葵橋洋画研究所に入所し、画家として身を立てようと思った時期があるほどで、彼女の描いた絵と達筆が共に気に入られ、二人の師弟関係はこの時から始まる。
その後は溝口の下でキャリアを積み、日本最初の女性映画監督として『初姿』を撮ったが出来はあまりいいものではなかった。
しかるに田中絹代が最初の女性映画監督という説は間違いなわけだ。
昭和18年の戦時下、溝口は悲劇続きだったらしい。
妻千恵子の発狂、永年苦楽を共にし住居まで一緒にしてきた田鶴子との別居。
更に千恵子の弟、田島松雄が日本映画社の社員として乗り込んだ航空機がマライ半島で墜落、この知らせを聞いた溝口は声を上げて泣き、これ以上、一人での生活は耐え切れぬと、松尾の遺児二人と未亡人を手元に引き取って生活。
一方、田鶴子は溝口の元を去り渡満して満映に入社。
然し敗戦後、京都の実家に戻った田鶴子が下加茂撮影所に溝口を訪ねると、一瞬、田鶴子が誰なのかわからなかった。
そのあまりの変貌さ驚いたものの、溝口は再び田鶴子を松竹に戻した。
確かにこれでは誰だか分るまい。
本書の中で、一番悲しく思ったのはGHQから「反民主主義映画の除去に関する件」を通達され、昭和17年4月以降からのが「反民主主義」と判断され250本が焼却命令となったこと。
一時上映禁止ではなく焼却命令として永遠に失われてしまった。
敗戦とはこういうことなのだ。
田鶴子の撮った映画も今はなく、マッカーサーの厚木到着を待たずして、火事や戦災でフィルムが焼けたことだろう。
それも日本文化の一部と考えると非常に残念な気持ちになる。
因みに溝口は1956年8月24日に亡くなり、田鶴子は1975年9月2日に亡くなっている。
二人のことを知る人が存在しなくなった時、物語の終焉がやってくるわけだ。