愛に恋

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センセイの鞄 川上弘美

 
 谷崎潤一郎賞受賞の話題作。 
 
主人公ツキコさんが行きつけの居酒屋で、30歳年上の高校時代の恩師、古文の先生(センセイ)に再会。
そのセンセイがツキコさんに、
 
「ツキコさん、デートをいたしましょう」
 
といっても不倫ものではない。
歳の隔たりも何のその、居酒屋で会う度、たわいもない話から恋情が生まれくる。
30歳の年の差婚とは芸能界でたまに聞くものの、一般社会ではどうなのだろうか、深く静かに潜航している場合もあるのかどうか知らないが、本書は小気味いい文章で読み易い。
 
「犬が電柱ごとに止まってしまうように、気になる露天の前に来ると、すぐさまセンセイも立ち止まってしまう」
 
面白い表現だ。
芭蕉の句に、
 
「梅若菜まりこの宿のとろゝ汁」
 
という俳句があり、センセイはツキコさんに、
 
芭蕉もしらないんですか」
 
と言っているが、私も知りません。
更にこんな観察。
 
「開けた口のあたりに、老いを感じられる。さきほどあわびを噛んでいるときよりも、さらに濃い老いを感じられた。私は静かに視線をそらせた」
 
初めてセンセイと旅行に行った時の夜。
当然部屋は別々。
 
「しばらくじっとしていた。それから浴衣の中の自分の乳房をさわってみた。柔らかくも固くもない。そのまま手をすべらせて、お腹を撫でる。なかなかになめらかなお腹である。さらに下へ。ほんわりしたものがてのひらに触れる。漫然と自分でさわってみても、ちっとも楽しいものではない。それでは、センセイに計画や思惑を持ってさわられれば楽しいかと考えると、どうもそうではないような気がする」
 
堪り兼ねてツキコはセンセイの部屋を訪ねると、センセイも起きている。
センセイも悶々としていたのかと思いきや然にあらず。
センセイは俳句の下五が出来ないと言って悩んでいた。
 
「それでしかたなくわたしもセンセイと並んで句を作ることになってしまった。何がなじょしてこうなった。時刻はすでに午前二時を過ぎている。指を折りながら、「ゆうぐれの灯にくる大蛾さみしそう」などというヘボな句をつくっているこの状態は、いったい何だ」
 
実に面白い描写だ。
俳句を創作するためにわざわざ深夜、センセイの部屋を訪れたわけではない。
 
「ツキコさん、ワタクシはいったいあと、どのくらい生きられるでしょうか」
「ずっと、ずっとです」
「そうもいきませんでしょ」
「でも、ずっと、です」
「ずっと、でなければ、ツキコさんは満足しませんでしょうか」
 
少し悲しい会話のあとに、
 
「ツキコさん、ワタクシはちょっと不安なのです」
「不安?」
「その、長年、ご婦人と実際にはいたしませんでしたので」
「いいですよ、そんなもの、しなくて」
「あれは、そんなもの、でしょうか」
「そんなものではありませんね」
「ツキコさん、体のふれあいは大切なことです。それは年齢に関係なく、非常に重要なことなのです」
 
昔、教壇で平家物語を読み上げたときのような、毅然とした口調だ。
 
「でも、できるかどうか、ワタクシには自信がない。自信がないときにおこなってみて、もしできなければ、ワタクシはますます自信を失うことでしょう。それが恐ろしくて、こころみることもできない」平家物語は続いた。
 
「まことにあいすまないことです」
 
平家物語をしめくくりながら、ふかぶかとセンセイは頭をさげた。
 
恋はきっかけとタイミング、あとは流れに寄り添うように。
しかし、いつの時代に出会っても必ずその人と恋に落ちたかといえば、そうともいえず、人生、発展性の流れの中で異性の見方、環境も違ってくれば選ぶ相手も違ってくる。
 
さりながら人は愛に依って支え合い、愛すれどまた切ない。
誰が言ったか、枯れ木も山の賑わいというが華がなく、或いは、その枯れ木に花を添えるのが性とも言える。
絶えず人は文学、音楽、映画にと愛を奏でるが、いくら経験値を積んでも恋は異なもの不思議なもの。
「忍夜恋曲者」しのぶよるこいのくせものと言うではないか。
さて、後半の会話、
 
「センセイ、どこにも行かないでくださいね」
「どこにも行きませんよ」
 
とどのつまり、人を愛するとは単純に、この言葉に尽きるかも知れない。
失うことの損失と埋め合わせることの出来ない恋情。
人生は儚し、それらを表現力豊かに作家は世人の思考を代弁し、かてて加えて読み手を感動へといざなう。
川上弘美、よい作家ですね。
 
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