愛に恋

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セクシィ川柳 東 正秀

 
『セクシィ川柳』と題してはいるが、もちろんエロ本ではい。
下ネタ川柳を学問的見地で捉えたもので、少し難しいが、俳句も川柳もそのルーツは和歌から生まれた連歌に行き着くということらしい。
光秀が本能寺へ向かう前に連歌師と句会を開いたあの連歌ですね。
 
最初の人が「発句」といってまず五七五を詠み、次の人が「付句」として七七を付け足し、そこから次々と機知に富んだ句を繋いでいって最後は「挙句」で終了する。
挙句の果て、の語源はここから来ている。
 
その貴族的趣味だった連歌が、室町時代に入ると、俳諧連歌として庶民にも受け入れられ、俗語やユーモアも交えて作られるようになる。
そして、連歌の中の初めの「発句」が独立して俳句となっていく。
 
江戸中期になると、上方の先進文化に遅れを感じていた江戸っ子は「粋」を売りに「意地の文芸」として庶民による川柳を生み出す。
では何故、川柳作家が現れなかったか、元々川柳とは、今でいうイベントみたいなものから発足し、その代表的点者が柄井川柳という人で、川柳の名はここから採られた。
 
つまり、江戸も中期に入ると学識ある商人も増え、選者と投句人との知恵比べ的な要素も生まれ、参加者も多くなれば賞金も増えることから江戸で流行していく。
しかし、一般庶民でも作れる川柳となれば、そこはそれ、自ずと内容も下に降りてくる。
 
どうも江戸期と現代では、性に関する考え方にかなりの開きがあるように思う。
川柳の投句者は全員男だが、内容的には必ずしも男性優位とは限らない。
女性のしたたかさと貪欲さ、性が娯楽のように扱われて何やら楽し。
 
色男 惜しいことには不如意なり
 
生活力はないが、あちらだけは達者也。
 
色男 へのこ一本で暮らしてる
 
男根が良すぎて、女が貢いでくれる。
 
雪隠の出会 必ず隣あり
 
トイレでアレをしていると、必ずカップルが隣にも居る。
 
出会茶屋 あんまり泣いて おりかねる
 
嗚咽が激しかったため、恥かしくて下りられない。
 
江戸時代、快楽の序列としてこのような番付があったらしい。
 
一盗二卑三妾四妓楼五妻
 
つまり男を興奮させてくれる順番ということか。
一は不倫、二は使用人、亦は下女、三は妾、四は遊女、五は妻。
なるほどね、古女房は最下位、妻が聞いたら、さぞ嘆くやら怒るやら。
しかし江戸時代、不義密通は死罪なのに、いつの時代も下半身は別人格で、こればかりは止められないということでしょうか。
こんなのもある。
 
中指で さねを釣ってる 握りぼぼ
 
まあ、つまり女性の一人何とかですね。
 
それにしても春画のあそこは何故、あのように大きいのか、それを学術的に調べた人がいたらしいが、結局はよく分からなかったらしい。
ただ当時、嫁入り前の女性には、あの大きさは大変なショックで、実物を見たことがなけなれば、あのサイズが本物かと思うのも無理からぬこと。
私が面白いと思った一句はこれ。
 
女房の 角はへのこで たたき折り
 
いくら怒っていても、アレをすれば機嫌は直ぐよくなる。
因みにフェ○○オは「吸茎」と言ったらしい。
まだまだ面白いことが載っているが、あまり書き過ぎるのもどうかと思うのでこの辺でやめておこう。
 
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