愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング 久世光彦

 
人生最期に聴く曲は、どんな歌を選ぶか。
久世光彦が14年間にわたって雑誌「諸君!」に連載した123篇のエッセイから52篇を選んだ“決定版”。
久世さんは昭和10年生まれなので戦中戦後にヒットした曲、または隠れた名曲など採り上げているが、私の知らない曲もかなりある。
 
童謡、歌謡曲、軍歌、ジャズ、ラテン、ワルツと実に幅広く聴いていが、意外と言っては失礼だが涙脆い方だったんですね。
例えばはこんなことを書いている。
 
「表通りから少し入った坂道の住宅街、たまたま通りかかった見知らぬ町の日暮れ、ようやく街灯が点って、坂の下から一日の仕事を終えた人たちが、影絵のようにゆっくり上がってくる。ついさっきまでどこかからか聞こえていたピアノの練習曲が止んで町が静かになると、代わりにあちこちの家からいろんな夕暮れの音が遠慮深げに聞こえてくる。茶碗が触れ合う音、水を使う音、子供を叱っているらしい女の人の声、可笑しいと思われるだろうが、私はいい年齢をして涙がこみ上げてくるのである」
 
そしてこう締めくくる。
 
「私の弱い、恥ずかしいところは、こういうことである」
 
この本には多くの歌、映画、俳優、演技などに繊細すぎるほど感性を露わに表現し、作者の人間性や感受性が散見できて非常に興味が持たれる。
それに加え語彙力や表現力も素晴らしい。
いつだったが爆笑問題の大田君の番組で拝見したことがあったが、その頃はもう晩年だったんですね。
 
生涯、如何に多くの感動に巡り合えるか、これこそ人間が追い求め、生きる為の根源とでもいう大前提ではないかと私は思う。
人生の先輩として感動を追い求めて行く一生だった。
 
「長いこと生きていると、かつて愛した歌たちの結末を見なければならない」
 
つまり歌い手や作家の死を見届ける。
それは、とても悲しいことだと言っている。
流転の中に浮き沈みする悲哀や情念。
独りぽつねんと、そんなことを考えていると、峠の一本道から眼下を漠然と見下ろしているような感慨に耽る。
私の好きな曲もいくつかあった。
 
何日君再来」「海ゆかば」「プカプカ」「カタリ」「さくらの唄
 
しかし久世光彦さんは結局、最期の一曲を決めずに逝ってしまったような気もするが。
 
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愛の手紙―文学者の様々な愛のかたち

 
歴史上の人物の日記というのは目的が二種類に分かれる。
後世、公になることを想定して書かれているものと、そうじゃないもの。
中には死後、破棄、焼却を遺言したにも関わらず、何らかの理由で遺族が遺したものもある。
しかし手紙やハガキ類はどうだろう。
妻や恋人に愛情溢れる文言を書き連ね、それが将来、まったく見ず知らずの他人に読まれるとあっては、聊か本人も照れ臭くはないだろうか。
 
近代文学を彩った文豪たちの書簡は、後世の私達にとっては貴重な作品でも、本来は窺い知れぬ私人としての一面を覗かせている。
本書は写真と共に手紙、ハガキ類をそのままに公開している。
例えば斉藤茂吉のこんな手紙。
夫人と別居中の茂吉は永井ふさ子なる女性に会った昭和9年9月53歳でふさ子は25歳、その2年後の手紙。
 
「ふさ子さん!、ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。
 何ともいへない、いい女体なのですか。
 どうか大切にして、無理してはいけないとおもいます。
 玉を大切にするやうにしたいのです。
 ふさ子さん、なぜそんなにいいのですか」
 
この問いに対するふさ子の返信が読みたいものだ。
 
詩人、立原道造にはこんな記述がある。
9歳上の女性作家、若林つなが、死の1週間ほど前に見舞いに行った折、立原は彼女にこう言ったとか。
 
「五月のそよ風をゼリーにして持って来て下さい」
 
僅か24歳で他界した夭折の詩人。
残された写真は見るからに蒲柳の質そのままで、この青白い顔の青年にあと5年の命を与えることが出来たなら、如何な作品を残したであろうか。
 
縁も所縁ない私がそれら遺稿を読むことは、一生懸命に生きた彼等に対し少しは供養になるのだろうか?
立原道造のあの顔から一滴の涙を見たら堪りませんね。
本書は、そんな作家たちの愛の手紙。
 
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オットー・ディックス 1891年12月2日 - 1969年7月25日 (77歳)

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1933年

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《ジャーナリスト、シルヴィア・フォン・ハルデンの肖像》 f:id:pione1:20181130170220j:plain

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《マッチセラー》(1920年 f:id:pione1:20181130165042j:plain 

 《売春婦1》

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《死の勝利》(1934)  

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 《負傷兵》                  f:id:pione1:20181130165728j:plainf:id:pione1:20190823092442j:plainf:id:pione1:20181130165925j:plain

《銃殺》

新即物主義の画家、よく分からないが絵は面白い。

戦争の悲惨さ、第一次大戦後の頽廃したドイツの社会情勢をグロテスクに生々しく表現しているが、ナチ政権下では御多分に洩れず退廃芸術の烙印を押されてしまった。

戦後日本でも戦争協力者は公職追放になったが、同じようにドイツでも教職など公式な立場から追放され制作活動も禁じられるので、こうなっては国外に逃れるより他はない。

しかし、退廃時代の一面を担った絵画は訴えかけるものがあって存在感を増しているのだが、ナチの健康的なプロパガンダからは相反する芸術であることは一目瞭然だから仕方ないことか。

だが、このオッパイを持っているは何を意味しているのだろうか。

漱石山房の記 内田百閒

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早稲田南町漱石宅には以前から訪問客が絶えなかったので、鈴木三重吉の提案で面会日を毎週木曜日午後三時以降と定めるようになったが、いつしか若い文学者たちなどが集まり「木曜会」という文学サロンへと発展していく。
それを纏めて内田百閒が昭和29年に上梓したのが本書。
 
昭和二十九年六月五日 初版印刷
臨時定價 四拾圓
ページ数122頁で昭和29年当時はこれで40円だが、現在この本はどうなっているのか調べてみた。
勿論、絶版本なので古本の状況はと検索してみると・・・!
 
 
最高額は4,300円。
確かに貴重本だと思うが、しかし高い!
古本の場合、経年劣化に伴い値段に高低はあるものの差が開き過ぎる。
私がこの本を入手したのは15年ほど前。
何と価格は100円也!
まあ、口出しすることではないと思うが、それにしてもこの値段の差はどこからくるのだろうか?
 
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1911年8月20日 ルーブル美術館

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1911年8月20日モナリザはまんまと盗難に遭い、20世紀最大の美術品窃盗となった。

犯人はこの男、ビンセンツォ・ペルージャ

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その後、2年間もパリのアパートにモナリザを隠していたが、泊まっていたホテルで逮捕され、絵も無事に戻り本当に良かったが、破損でもされたら大変なことだった。

湖の南 大津事件異聞 富岡多恵子

 
三井の晩鐘として有名な三井寺に行ったのは、はて、いつのことだったか?
40歳を幾つか手前の頃だったと思うが。
明治の20年代、ここには「御幸山西南戦争記念碑」という立派な石碑が立っていた。
 
何故、鹿児島から遠く離れたこの地に石碑があったかと言えば、西南戦争で大津第九連隊の戦死者が東京に次いで多かったことに由来しているが、現在では理由は定かではないが、その場所よりさらに10分ほど登った所に移築されているらしい。
20代後半の頃、旅の途中、大津でこんな石碑を偶然見た。
 
 
石碑にはこう書かれている。
 
「此附近露国皇太子遭難之地」
 
ロシア皇太子ニコライを斬り付けたのは滋賀県守山署詰三上村駐在所勤務、津田三蔵巡査36歳。
三蔵は三重県津藩の藩医の次男として生まれ廃藩置県後、10年の兵役を終えた後は巡査として伊賀や滋賀県の間を転勤していたらしいが、兵役中は西南戦争に従軍し負傷して勲七等を授与されている。
その事件現場は思いのほか道幅が狭く、当時の記録にはこのようなことが書かれている。
 
道幅二間半(約4・5メートル)、警備として道の両側に警官160余名と大津第九歩兵連隊がびっしり並び、その後ろに見物人たちが押し寄せ、その間を皇太子以下の人力車40両以上が走って行く。
 
この通りは昔の商店街で、当日は多くの見物人でごった返していたことだろう。
列は知事、接伴員、随行員が先導で、その後ろに皇太子、いとこのギリシャ王子ゲオルギオス、有栖川宮、ロシア公使、ロシア東洋艦隊司令官の順で最前列から最後尾までの長さは約180メートル。
その時、明治24年5月11日、突然、警備に付いていた津田巡査は走り出てニコライの頭部に一太刀あびせた。
 
人力車から飛び降り、驚いて逃げるニコライを追った津田を車夫が引き倒し、その背中をギリシャ王子が杖で乱打。
津田が落としたサーベルで、車夫が首と背中を切りつけ捕縛された。
負傷した津田の刀傷を思いのほか重く、背中はともかく首の切り傷は重症で、首の付け根の辺りに半円状、長さ14センチ、深さ5センチの深手だった。
 
この事件を知ったきっかけは確か、佐木隆三の『勝ちを制するに至れり』で、時の大審院長児島惟謙(これかた)が判決を巡って政府と鋭く対立したもので「皇室に対する罪」と同じように死刑を適用せよと迫る政府に、法令がない以上は単なる謀殺未遂だと無期徒刑の判決を下した児島大審院長。
ロシアとの戦争を恐れる政府は「法あっての国家」ではなく「国家あっての法」だと特に西郷内相と児島大審院長の論戦は面白い。
 
吉村昭著『ニコライ遭難』では確か、公判記録も交え事件の全容をこと細かに書かれていたと思うが、この富岡多恵子版は、近年見つかった津田三蔵書簡を重点に事件前の津田がどのような経歴、性格の男だったかを浮き彫りにしているような書かれている。
そこから垣間見えるのは安月給ながら只管、妻と二人の子供と母親への慈愛と几帳面さ。
事件の起った5月の1~2日、津田は伊賀上野に帰省しているが、公判記録では。
 
「何用で帰省したか」
 
「守山警察署詰トナリシ以来一度モ帰省セシ事ナク母ヨリ孫ノ顔モ見度キ故一度其地ヘ行クト申来リシ自分ハ少々取寄セタキ道具類モアリシ故六歳ニナル子供ヲ伴ヒテ帰省其夜最寄ノ親族等ヲ訪ヒ母方ニテ泊リタルナリ」
 
「肝要ノ噺ハ纏マラズ」
 
つまりは今後、母親と同居するかどうか、帰省して親戚と話しなどしたが、親戚一同誰も母の面倒を見てくれる者なしと三蔵は嘆いている。
そして10日後、津田はサーベルを抜いた。
この事件が国民に及ぼした多大な影響は今日よく伝わっているから省くが、一体に津田は何ゆえ、斯かる事件を起こしたのか。
 
巷間、いろいろ言われているが、どうも合点が行かぬ。
国賊になるのを覚悟で、尚且つ妻は満23歳、子供は4歳と1歳、それと老母の行く末。
津田は三浦順太郎予審判事の尋問に縷々原因を述べているが、こうも言っている。
 
「自分ナガラ分カラヌ」
 
その後、三蔵は7月2日に北海道釧路集治監へ収監され同年9月30日午前0時30分死去。
事件から3ヶ月も経っていない。
私が予審判事でも、事の重大さを考えれば、このような事件は津田の憤怒や反ロシア感情は理解出来ても、行為としては到底理解し得るべきものではない。
当時は弱肉強食の帝国主義時代、一歩間違えれば大変なことになっていた。
 
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グロリア・スワンソン 1899年3月27日-1983年4月4日84歳

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1922年   

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1920s

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 1923年

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(1929年)

貴女でしたか、ケネディ大統領の父親でジョセフ・P・ケネディと不倫関係にあったという人は。

さすがに大物喰いですね!

しかし、一体貴女は何回結婚しているのですか?

数えてみると6回ですね、それ以外にも恋愛、火遊びなどありそうですから生涯人数はかなりの数になるのですか。

 

まあ、そんなことはいいです。

驚いたのは貴方の身長ですよ!

150㎝しかなかったんですか、とてもそんな風には見えません。

ところで週に100万ドル稼ぎ、100万ドル使うスターというのは本当ですか!

当時の100万ドルといったら凄いでしょ。

桁外れな女優さんだったんですね。

 

グロリアさん、しかし貴女の若い頃の目は獲物を狙うような獰猛な眼差しですよね。

その目で一度私を捉えて欲しかった。

なんなら7番目の夫でも良かったんでしすよ。

話は変わりますが貴女が書いた自伝ね、あれ何とかなりませんかね。

重たくて持ち運ぶに不便で買うに買えません。

文藝春秋から1994年に出て文庫化されてないということは、申し訳ありませんが売れなかったということですよ。

大体、今の時代、日本人で貴女を知っているひとなど居ません。

翻訳した人には敬意はを払いたいですが、おそらくこの先も文庫本が出ることはないと思いますが、その点は納得してくださいね。

私、私ね、興味はあります、だからといって読むとも読まないとも言えません。

とにかく、若かりし貴女の美貌には参りました。