愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

バナナ 獅子文六

 
筑摩書房復刊の獅子文六作品をかなり読んできたが、当初はお手軽な娯楽小説みたいなものと、軽く受け流しを決め込んでいたのだがさすがに明治人、語彙力があり思考にしても表現力にうま味がある。
明治大学斎藤孝先生が「語彙力こそ教養である」と言う通り私も異存はない。
 
彼も、立派な体格を持ちながら、雄としての力は、案外弱く、人には言えない悲しみも、時には味わってるので、何かに縋りつきたい気持ちがないでもない。中年以後の男性に訴える売薬の広告は、残らず、眼を通している。だが、テルミのような女と冗談を言ってると、有効な錠剤を二つ三つ服用したような気分が、湧かないこともない。
 
クラブに通い、馴染みの女を物にしようとするわけではないが、ただ、横に座っているだけで多少は功を奏すると言っているわけで。
 
シャンソンの感傷性は、若い女には味わえない深い満足を、彼女に与えてくれた。それは、過ぎた青春を顧みさせるばかりでなく、高価なハチミツ剤のような、若返り作用もあることも、教えてくれたのである。その証拠に、胸がウキウキして、血が暖かくなったような気持ちがする。まるで、昔好きだった男に、街頭で巡り合って、挨拶しただけで別れたのを、良人に言わずに、日記に書いた晩ででもあるかのように。
 
良人に言わずに、日記に書いた晩ででもあるかのように、上手いこと言うね!
戦後、文六作品は書く後から次々に映画化され昭和30年代は売れっ子作家だったのだろう。
それもこれも才能故の話だが、作家というものは斯くも本を読むものかというほど文六も読書家だったのか。
しかし、文豪は本当に偉いものだと思う。
鴎外、露伴漱石荷風、志賀、谷崎、芥川と、ほとほと舌を巻く名文を残したが、私などはいくら読む量を重ねても、精々、彼らのカバン持ち、いや、そのカバン持ちの付き人ぐらいが関の山。
 
その文豪(五)の一段下、それが文六なんですね、翠帳紅閨なんていう言葉が出てきましたが、「すいちょうこうけい」と読みます。
高貴な人が寝るベッドのことですが楊貴妃が使用していたそうで。
さて、文六先生のお手並みはこんなところにも。
 
しかし、そうと気がついても、彼には、あまり嫉妬心が湧かないのである。第一、彼は妻を信用していた。彼女の浮気の虫は、相当飼い慣らされていると、知っているからである。ムヤミに暴れ出すほど、野生を帯びていない。彼女の自尊心とか、見栄とかいう手綱が、浮気の虫の首に、結びつけられている。今までも、虫のうごめきは何度も、形跡があったが、いつも、無事で終わっているのである。
 
上手い表現だが、どうも文六先生は句読点が多いが、これは癖か。
本書は昭和34年2月19日から9月11日まで朝日新聞に連載されたもので戦中戦後の話もよく出てくるが、私はそんな時代のことが結構好きで何だかんだと言いながら結構、文六作品を読んでしまった。
ストーリーは解説のものを載せておくが、文六先生との付き合いも、そろそろ終わりにするか。
 
お金持ちの台湾華僑の息子、龍馬は車が欲しい大学生、そのガールフレンド、サキ子はシャンソン歌手としてデビューしたいが、青果仲買人の父の許しが得られない。そんな二人の夢を叶えるのはバナナ?ひょんなことからバナナの輸入で金儲けをすることになったのだが、そこへ周囲の思惑が絡み、物語は意外な方向へ!テンポの良い展開に目が離せないドタバタ青春物語。
 

ブログ村・参加しています。

ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟
                                                     

 

Judy Clay - Lonely People do Foolish Things

www.youtube.com

先日、津川雅彦さんが亡くなったが、なんでも津川さんは5回も徳川家康を演じたらしく、その中でも江守徹石田三成に扮した時代劇ドラマで二人の別れの場面が印象に残る。
床几に座る家康、砂利の上に座らされる三成。
光成の言い分を聞き終わり、片言、話したかと思うと、居並ぶ諸将を後に、その場を立ち去りかける家康。
思い留まって光成の傍近くへ寄り、両手を膝に、ジッと光成を見つめていたかと思うと、一声を発す。
 
「さらばで御座る」
 
いい場面でした!
 
津川さんは享年78と聞く。
いや待てよ、最近、世間を騒がしている御仁も確か同年ではなかったか?
山根会長は1939年10月12日生、津川雅彦さんは1940年1月2日、うん、やはり同級生だ!
津川さんは瞑目合掌となったが会長は連日、獅子咆哮、報道陣を煙に巻いているが、大変な時代を生き抜いて来たお二人、惜しまれつつ去る者もいれば、晩節を汚す人もいる。
人それぞれの人生、感慨深い。
 
では、今日、二つ目の記事となりましたがジュディ・クレイのナンバーで!
♪ Lonely People do Foolish Things

「上海東亜同文書院」風雲録―日中共存を追い続けた5000人のエリートたち 西所正道

 
去年、長い間探しあぐねていた父の引揚げ記録が本籍の県庁に保管されていることが分かり、早速取り寄せてみた。
そこに書かれていた父直筆の「引揚状況等に関する申立書」を見て驚いた。
昭和12年8月、「軍からの徴用で上海東亜同文書院中退」とあり、さらに「特務機関情報部に徴用さる」と書かれていた。
特務機関に所属していたことは子供の頃から聞かされて知っていたが、上海東亜同文書院といえば難関のエリート校と知られる名門で多くの文献に出てくる有名大学だ。
 
終戦と共に消え去った同大学の書類は密かに持ち出され現在は愛知大学が保管し上海東亜同文書院記念センターとなっている。
その愛知大学に先日問い合わせ、担当委員の人といろいろやり取りしたが、当方の調べによると、さらに絞り込んで国立国会図書館に或いはと思われる文献が存在してるような記録を見つけ、さあ、これからどうしようかというところだが、取り合えず、上海東亜同文書院に関する書物を少し読んでみようと買った本が今回のものだが、著者は同大学の同窓会名簿を元に卒業生のその後を追っている。
 
東亜同文書院は、1901年の創立から1946年の教職員、学生の引揚げをもって閉学。
全卒業生は四千数百名で商社、外務省、政界、大学、マスコミとあらゆる分野に巣立ち錚々たるメンバーが名を連ねているとある。
しかし、残念ながら我が父はこの名簿の中に入っていない。
 
祖父は京都友禅の職人だったという話だが、大正初期、何を思ったか大陸へ渡り、蘇州で生まれたのが次男の父で、戦争さえなければ或いは画家にでもなっていたやも知れる父の運命を狂わせたのが12年7月7日の盧溝橋の一発だったということになる。
支那事変勃発、さらに第二次上海事変と日中両軍は民族的全面対決へと発展して行くわけだが、資料を読むと父が軍から徴用されたのは12年8月とあるから正にこの時期と一致する。
上海在住だった父はこの戦闘を間近に見ていたのだろう。
ここから8年に及ぶ青春時代を懸けた長い闘いが始まるわけだが、無念遣る方無く負傷した父は戦後、恩給を貰いながらGHQの仕事をしていた節がある。
 
東亜同文書院は戦時中からスパイ学校と言われ逮捕されれば処刑の可能性もあったわけだが、当初は従軍通訳という肩書で徴用されたようだ。
父が何期生だったか分らぬが28期生が書いた記録によると当時の科目は以下のようになる。
 
簿記、会計学、銀行論、貨幣論民法、商法、経済原論、交通論、倉庫論、取引所論、金融論、貿易実務等だが、特質すべきは中国語で全学年を通じて毎日、中国語関連の科目がある。
例えば「華語会話」「華語」「日文華訳」など、確かに中国語が堪能だった父に当てはまる。
戦後、貿易関係の仕事をしていたという親戚の証言からも裏付けが取れるが、好きだった歴史や絵画は趣味だったのだろうか。
だが意外な科目もある。
 
『春秋左氏伝』『四書』『五経』『支那史』『支那小説』『支那経済事情』
 
愛知大学教授は東亜同文書院はビジネス・スクールだったと言っているが、以上の科目を見ていると確かにそう言える。
戦争がなければ将来の夢は何だったのだろうか?
しかし、歴史の授業がないわけでもない。
 
秦の始皇帝、漢の劉邦、楚の詩人屈原、近代では孫文、段祺瑞、呉 佩孚、魯迅を教えられたとあるから歴史好きはこのあたりから来ているのか。
僭越ながら今回はごく個人的なことを書いているがお許し願いたい。
家系のルーツが書物の中にあるかもと思えば調べざるを得ない。
その手掛かりが散見できる条がこれ。
 
盧溝橋事変の一か月後、軍から書院に対し「学生を通訳として従軍させるように」との要請があったのだ。大内院長は最初否定的だった。「学生は学業に専念すべきだ」というのが持論だからである。学校サイドの議論は分かれた。しかし、最終的には派遣せざるを得なくなり、9月、34期の学生の中から80人が戦場へと向かった。
 
これだ、正にこれに違いない!
さらにこんなことが書かれている。
 
昭和11年10月、亡くなった文豪魯迅の亡骸を葬送しながら、激しいデモストレーションを行う中国人青年たちは、同文書院の近くを通過し、万国公墓へと向かい横断幕を掲げながら <打倒!日本帝国主義>とシュプレヒコールを繰り返し、それを同文書院の生徒は見ていた。
 
ということは、父も魯迅の葬送を見ていたのか?
魯迅と親しい内山完造が上海で開いた内山書店は家から学校への通り道だったと親族の証言もあり、よく本を買いに行ったらしいので或いは魯迅と邂逅したか!
 
何はともあれ本書は戦後活躍した同文書院の卒業生回顧談に満ちている。
出世、栄達した人たちを羨むわけではないが、重症を負い帰還した父は昭和20年代まではそれなりに横浜で活躍したようだが、30年代に入ると徐々に歯車が狂いだし破滅への道を歩みだした。
私個人は誰を恨むわけでもなく、今更、あの戦争さえなかったらなどと言っても仕方ないが、我が一族に限らず歴史の大きなうねりに翻弄され明日の行方も知らぬ浮き世船とあっては、大陸に取り残された膨大な数の邦人たちはさぞ不安な毎日だっただろうに。
 
上海在留邦人は約5万人。
町には国民党軍や八路軍が入って来て大変なことになっていただろう。
記録によると、一族11名は全員無事帰国したが、廃墟となった故国を見て如何ように思ったことやら。
戦後生まれの私はそれらのことが追体験出来ないだけに辛酸を舐めた親世代の苦労が偲ばれる。
私が今日あるのも、父が経験した必然と偶然の重なり合いの産物だろう。
ルーツへの拘りが人一倍激しい私にとっては貴重な本だったが、まだまだ東亜同文書院に関しては多くの書物があるので読まねばならぬ。
 
 
 

ブログ村・参加しています。

ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟
                                                     

阪神 夏の古書市

 
まったくなんてこった!
50冊ほどもあった未読本をやっと24冊まで減らしたと思ったのに、この3日で12冊も増やしてしまった。
あれほど気持ちを引き締め減らすことに専念して来たのに。
『古本病の罹り方』というありがたいような、ありがたくないような本があることは知っていたが敢えて無視していた結果がこのありさまだ。
 
読書は全て自己責任をモットーに活字と向き合っているが、性格的にはストレスを溜めやすいタイプで積読本が増えることは、その分量だけストレスも倍増する。
 
昨日の古書市も出来得るならば、欲しい本がないようにと念じながら会場に向かったのに、あろうことか7冊も買ってしまった。
馬鹿垂れ、阿保んだら、お前の母ちゃんでぇべそ。
ホントにどうしてくれようか!
いったい、誰が読むねん、お前や。
 
参りました、もうギブアップです。
際限のない読書生活はトランプ大統領の任期が終わっても続けられるのでしょうか。
♪カモン・ベイビー・アメリカンなんて歌が巷ではヒットしていますが、我が家にはカナダからの手紙も来ません。
来るのはガス料金の請求書ぐらいなものです。
そのうち世間から忘れられた世捨て人のようになって、次の大地震で本に埋もれ圧死するのでしょうか。
 
そうそう、何を買ったか載せておきましょう。
 
川端康成・隠された真実 三枝康高
ヘンリー・ミラーのラブレター 江森陽弘
・本で床は抜けるか 西牟田靖
・内的独白 福永武彦
・恋日記 内田百閒
・贋・久坂葉子
雷蔵好み 村松友視
 
ここまでが阪神古書市、その前日と前々日に下の3冊。
 
安井かずみがいた時代 島崎今日子
・謎の独立国家 ソマリランド 高野秀行
・放蕩記 村山由佳
 
下二冊は新刊。
 
原民喜 梯 久美子
サザンオールスターズが40年も愛される48の秘密 SASウォッチャー編集部
 
あっ、そうそう、探していた伊藤雄之助『大根役者・初代文句いうの助』という本があったが2,700円。
しかし、Amazon価格は7,000円なのだが。
 
それに、こんな意外な本を見つけた!
原書房伊藤博文暗殺記録』安 重根の尋問調書全文、価格5,000円、高い。
Amazonでも5,000円だ。
う~~~~~~ん、欲しい!
誰も買わんと思うがな私に譲って下さい。
 

ブログ村・参加しています。

ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟
                                                     

D.G.ロセッティ ラングラード

本書を読んで、あるひとつのことを学んだ!
それは、もう二度とみすず書房には手を出さないこと。
これで三度目となったみすず書房
 
イェルサレムアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』ハンナ・アーレント
『D.G.ロセッティ』ラングラー
沈思黙考したわけではないがみすず書房は翻訳ものを専門に扱う出版社なんだろうか。
それにしてもどれも高価で重たく長く難しい。
だからみすずさんバイバ~イ!
では、なんでこんな本を読もうと思ったか。
それは二枚の絵が直接な理由で。
 
 
 
 
上の絵はよく知られている、ラファエル前派のミレーが描いた、『オフィーリア』だが下の『ベアタ・ベアトリクス』は、ロセッティが亡き妻エリザベスをベアトリーチェとして描いた作品で、ダンテの『新生』をヒントにベアトリーチェの魂が肉体を離れ、死んでゆく瞬間を表現している。
どちらもモデルはエリザベス・シダルという女性で同一人物。
そのエリザベスとの婚約期間は10年に及び結婚に対し消極的なロセッティの前に登場したのが友人ウィリアム・モリスの妻ジェーン(下の写真)。
 
 
エリザベス・シダルとロセッティはジェーンとモリスが結婚した翌年1860年に結婚。
しかし、ジェーンに心を奪われ、結婚後も諦めようとしないロセッティ、夫婦関係に悩み続けながらもエリザベスは妊娠。
これで色情狂のロセッティも落ち着くものと期待したが子供は死産。
絶望したエリザベスは1862年2月11日、大量のアヘンチンキを服用して死去。
享年32歳、自殺同然の最期に激しく後悔したロセッティが描いた絵が上記のもので、それらのあらましと女狂いのロセッティを知りたいというゲスな勘繰りという低級な好奇心から、こんな本を選んでしまったが、何分、登場人物が多く煩雑でややこしい。
更にラファエル前派とは何かという疑問からも果敢に挑戦したが敢無く自沈。
そのラファエル前派、著者の解釈は。
 
イギリス美術史上もっとも驚くべき三人の画家を擁する「ラファエル前派協会」を密かに結成したのは、ごく当然のことだった。彼らのいわゆる「ステンドグラス的」絵画は、その本質において、中世的、文学的、宗教的主義から霊感を得ている。清教徒的イギリスにありながら、ジョン・エヴァレット・ミレー、ウィリアム・ホルマン・ハント、およびダンテ・ゲイブルエル・ロセッティの画布には、光が、官能が、逸楽が、彼の前でたいてい裸体でポーズした女性たちの豪奢さが、はじけるように輝いている。
 
その精神は、自然への回帰、構図に対する色彩の輝きの重視、14世紀、15世紀イタリアの巨匠たちへの依拠などによって特徴づけられると言うのがよいだろう。
 
つまり、ラファエルは古典主義の完成者で、その後のアカデミズムの規範とされたわけだから19世紀アカデミーにおける古典偏重の美術教育に異を唱える集団で権利回復の要求であり、象徴主義の拒絶ということか。
ここまではよい、しかし、これからだ。
 
ラファエル前派は押し寄せる工業化社会の現実を逃れるための中世への回帰、カーライル流の空想社会主義ウィリアム・ブレイクターナーの幻視的リアリズム、イタリア・プリミティフ派の交差点に位置していて、ハントは疑いもなく、この芸術運動のきわめて重要な側面を代表している。こうした多様な源泉は、その後、ルドンやモローなどの象徴派の画家やアール・ヌーヴォーが放つ光の中に感取されるとはいえ、ラファエル前派の理論的弱点や不安定さの原因とならざるえなかった。
 
分かるだろうか、小生はまったく解らん!
そして・・・。
 
ヴィクトリア女王の世紀の厳格主義、工業化の破壊的進展、都会の醜悪さに反抗さまざまなする芸術家気質の結合から1848年に生まれたラファエル前派協会は3年しか続かなかった。1851年にはすでに分裂の兆しが認められる。
 
結果として、
 
ラファエル前派は、ヨーロッパの芸術へ向けてイギリスの門戸を開き、イギリス人の生活に、ラファエル前派以外には不可能な色彩を与えた。彼らは芸術創造を共同作品へと創りかえたのだ。この点において、ヨーロッパ芸術史に比類ない地位を占めるのである。
 
はっきり申せば、これはもう素人門前払いの本で大学教授乃至評論家の出番なのです。
さらに付け加えたい。
 
ロセッティは、うつろな美の不滅なる部分、ないしは不可視的部分を画布に定着することによって、芸術を時間の流れにたいする防波堤にしようとする。これはまたプルーストがおこなってみせるような時間の転位とはいえないが、肉体と魂とを区別する根源的な本質の具象化にはかならない。
 
まったく書く方も書く方なら、訳す方も訳す方で今年、一番疲れた本だった。
分かったことは私の到底及ぶ次元話ではない、それだけはハッキリしている。
最後にエリザベス・シダルとの出会いはこのように書かれている。
 
肢体は16世紀イタリアのブロンズ像のように均整のとれた肉づきをしていた。
それがエリザベス・シダル、のちにロセッティが自分のモデルに採用にし、ほどなく己の美神として恋することになる女性の姿だった。彼女はまもなく、ロセッティ専用のモデルとなり、彼の天使、あるいは悪魔、彼の魂の最初の像、ラファエル前派の第二の化身となりスティーヴンズが主張するように「彼女の顔立ち、横顔、豊かなとび色の髪は、ラファエル前派の美の理想となった。彼女は17歳、ロセッティ23歳だった。
 
しかし、ミレーの『オフィーリア』に対してロセッティの『ベアタ・ベアトリクス』はエリザベス・シダルという同一人物を描いたにしては陰鬱で見惚れる作品ではないためか、あまり人気がないように思うがどうだろう。
 

ブログ村・参加しています。

ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟
                                                     

東條英機の妻・勝子の生涯 佐藤早苗

 
映画『日本のいちばん長い日』は、取り分け私の好きな映画で、これまで何度も鑑賞しているが阿南陸相演じる三船敏郎は言うに及ばず、クーデターに参加した畑中少佐を演じた黒沢年男の演技も光っていた。
中でも見せ場は森近衛師団長殺害の場面だが蹶起失敗に終わった15日、畑中少佐は宮城の見える玉砂利の上で自害するが、本書に登場する古賀少佐の自害がどうも記憶にない。
 
古賀秀正参謀少佐は近衛第一師団所属で東條英樹の次女満喜枝の婿。
8月13日、生後11か月の長男を連れて用賀の東條邸に里帰りしていた満喜枝に会いに、サイドカーに乗って訪れ、これが今生の別れとなった。
たまたま来客のあった東條とは込み入った話も出来なかったため、よく14日、東條自ら陸軍省に出向き、陸相と懇談、その後、近衛師団で女婿の古賀に会い、以上のように諭し帰宅、満喜枝に報告した。
 
「決して軽挙妄動してはならぬぞと言ったら、ハイ! と答えていたから大丈夫だ、心配するな」
 
以下、東條かつ子の手記
 
終戦の御詔勅をきいた直後の午後一時、はっきり記憶しております。電話が鳴りました。
 
「司令部ですが、閣下に」
 
主人にかわり、傍で聞いていますと、
 
「あ、そうですか・・・それはお世話になりました」
 
と受け答えをしています。古賀が自決したことを知らせる電話だったんです。
主人は電話を置くと「満喜枝」と呼びかけました。
 
「一時間ばかりしたら秀正が帰って来る。秀正は自決したらしい、満喜枝、いいな、覚悟は出来ているな」
 
「はい、わかりました。いいですわ、お父様・・・秀正様は永遠に少佐でいらっしゃるんですから、立派な軍人でいらっしゃるんですから・・・」
 
遺体に対面した親子三人は誰も口を開かず、取り乱した様子もなかったと女中は証言している。
古賀少佐は殺害された森師団長の遺体の横で、腹を十文字にかっさばき、ピストルを口中にあてて撃っていたので遺体は包帯で巻かれ、顔もなにも見えなかったとある。
古賀は14日の玉音放送の録音盤奪取事件に加担していた為、自決に追い込まれてしまった。
しかし、それにしても妻子を残して凄まじい自決!
 
終戦前後、既に東條家には脅迫状が舞い込むようになっていた。
 
「東條の直系を皆殺しにしてやる」
「袋叩きにしてやる」
 
次男輝雄は父に迫っている。
 
「いったいこれからどうするつもりなんですか、一家自決ではないだろうか」
 
話を続ける前に英機、かつ子の家系を少し書いておきたい。
英機の父は比較的有名な英徳で陸軍大学を首席で卒業するほど優秀な人材だったが閥外であったため中将止まり。
東條家は南部藩に仕える能楽の宗家で英徳には9人の子供が出来たが長男・次男が早世したため三男の英機が事実上の長男の役目を担うようになった。
 
かつ子の実家は福岡県田川郡で五百年も続く豪族の家柄で大地主。
二人の結婚は明治42年4月、英機は25歳の陸軍歩兵中尉、かつ子は日本女子大3年で19歳。
しかし、かつ子の結婚生活は楽なものじゃなかった。
引き続き大学に通うことを条件に結婚したのだが、朝5時に起きて、13人分の食事の支度、広い家と庭の掃除、山のような洗濯を済ませ、夫の身支度をして大学に通ったとあるが、結局、体力の限界を感じ退学届けを提出。
その後、己の能力のすべてを、夫の将来と東條家に捧げる決心をしたらしい。
 
大正8年9月23日、陸軍大学を出た東條は35歳、ドイツ・スイスの大使館付武官として単身赴任。
この間、夫婦の往復書簡は実に303通、かつ子から英機に159通、英機からかつ子へは144通と実に筆マメだが、よく知られているように東條はメモ魔であったから、さもありなんと思うが、とにかく一回の手紙が実に長文でこれを読むのも大変。
生活上の一切を事細かく書き、何日何時間もかけて書いていたらしい。
二人の密なる愛情は確かなもので、東條夫婦とはかくなるものかと驚きを持つ。
その英機・かつ子の手紙を私も読まされるわけだが著者は書いている。
 
長い長い手紙である。このような手紙のやりとりを続けていたのだから、出す方も受け取る方も1日の3分の1くらいは手紙にとらわれていたのではないかと思ってしまう。手紙が特別に長いのは、日記ふうに毎日の出来事を書き綴り、一つの手紙に纏めていたからのようである。それにしても、これほどまでに激しく妻に愛され、尊敬され、健康を心配され、そして留守家族の日常生活の一部始終を知らされては、夫としては嬉しい半面少々うっとおしく重くはなかろうかと、淡泊な私には感じられる。
 
ところが実に似た者夫婦というか、東條英機は几帳面で、なにもかも把握していなければ納得できないタイプのようで、かつ子からの嵐のような手紙を非常に満足していたことが、英樹の返事のなかから伺える。
 
事細かに伝えたい妻と、事細かに訊きたい夫、よく出来たものだ。
しかし、この条はなんと解釈したらいい!
 
どうぞ御身御大切に、運動と早臥とを御注意遊す様極度に婦人の貞操を責むる私を、男の貞操も合理的に是非に行わるる事を理想として居ります私は又何等かの方法の下に清い温かい婦人の友人でも御出来遊ばして落莫たる御旅情の少しにても清くて楽しきものに御なり遊す様にと切に願って居ります。
 
出張中の性欲は自分で処理して、婦人との関係は清く正しくと言っているのか、或いは現地妻とはあと腐れないようなサッパリとしたものをと解釈すべきか、少しまどろこしい。
 
ともあれ教養あるかつ子は信頼できる夫婦関係、絶対的な理想的夫婦像を求めていたようだが、かつ子の話好きは有名で、一旦話し始めると二時間、三時間と話し続けて止まることがなく、その長話を東條は「また神武以来が始まった」と敬遠していた。
そんなかつ子を襲った悲劇。
夫の自殺未遂と逮捕、そして処刑。
戦後、東條批判の凄まじい中を7人の子と3人の妻と孫を守り、決して偉ぶることなく質素で合理的な生活態度を貫いたかつ子は91歳の天寿を全う。
 
現代史に生きる女性としては稀有な生涯を送った人だったと思う。
著者は直接本人に会って取材しているが、かなり東條家に拘りを持っているのか本作を合わせると過去3作品、東條に付いて書いている。
 
東條英機の妻・勝子の生涯 1987年
・東條英樹「わが無念」 獄中手記・日米開戦の真実 1991年
東条英機封印された真実 1995年
 
そういう私も東條に拘ってか3作品とも読んでしまったが、一体に東條とはどのような人物であったか角度を変えて見る必要性から著者同様に興味の尽きない対象で、東條関連の本は、これからも読むことがあると思う。
 

ブログ村・参加しています。

ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟
                                                     

活字と自活 荻原魚雷

 高円寺に住む、古本が大好きで貧乏な物書きの話しで目標は!
 
「10年この町に住んで、そのとき文章を書き続けていたら、俺の勝ち」
 
というもの。
高円寺の一画で安アパートを7回も転居しながら四苦八苦。
時に電話、ガス、電気、水道も止まり立ち退き2回。
何とも切なく侘しい話しだが、そんなことでめげていては活字中毒は務まらない。
 
「あいつでなくては出来ないということが一つでもあれば、それが人生の価値」
 
をモットーに逞しく今日も生き抜いている魚雷先生
好きな時に起きて好きな時に寝る。
夜は酒を飲み、一日、ごろごろ家の中で過ごすことも多いとか。
勤め人にはならず、とにかく何とか食べていける物書きを目指して。
物書きは読書が仕事、確かに書棚を見るとかなりの読書家ということは分かる。
私とは傾向がかなり違うが、本人は読書についてこんな事を言っている。
 
「本を読む時、大体私はボーッとして本を読んでいる。だから読み終わってから、それがどんな内容だったか、ボーッとしか思い出すことが出来ない。勿体ない、とは思う、けれど別の考えではそれで構わない、そういうものだ、という気もする」
 
と謙遜しているが、どうしてどうして結構な記憶力で咀嚼して吐き出した教養はかなりのもので役立つことが大きい。
むしろ、直ぐ忘れてしまうのは私で、少しでも記録として留め、脳裡にかさぶたとして保存するためにブログを書いている。
 
ところで高円寺という所は19歳頃だったか、一度立ち寄ったことがあるだけで全く地理不案内だが魚雷さんに言わせると、フリーターの密度が全国屈指の所で、古本屋、中古レコード、古着屋が多く金がなくてもそれなりに楽しく生きていける町だとか。
しまった、高円寺に住むんだった!
 
余談だが私は全集というものを買ったことがない。
例外的に月間で発売される若山牧水志賀直哉全集を買い集めてみようかと思ったことがあったが挫折した。
しかし魚雷さんは大学1年当時、終電に乗り遅れ先輩のアパートに泊まったときのこと。
風呂なしアパートに住み、ニーチェ全集を持っていた先輩は、
 
「何があっても俺はこの全集だけは売らないつもりだ」
 
の台詞にしびれ、翌日、神保町に行って辻潤全集を24,000円で買うという荒業。
一聴、私も翌日古書店に走り、牧水全集を買いに行ったかと言えば、それはない(笑
魚雷さんは掃除をしながら考える。
 
今より、貧しく、物がなくて、不便だった時代でも、人は生きていけたわけだし、まあ、そう考えると、貧乏でもいいかと思う。
 
赤貧洗うが如しというほどではないにしろ、何とかやっていけるわけだ。
しかし将来的な不安は常に付き纏う。
確かにしがらみの中で窮屈に生きて行くよりは自由気儘に生きた方がより人間らしい。
これで金さえあれば更に言うことないわけだが、そう世の中は甘くない。
彼のような生き方を一概に否定しない。
本人、納得した上ならそれもまた愉しで、
 
「狭いながらも愉しい我が家」
 
エノケンも唄っている。