愛に恋

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袴田事件を裁いた男 尾形誠規

 
戦後に起きた重大事件に関しては大抵の場合、少しぐらいの予備知識があるのだが、この袴田事件については名称以外は全く何も知らなかった。
先日、冤罪事件として拘置所から釈放される袴田さんを見て、どのような事件だったのかと思っていた矢先、この本の出版である。
 
事件は昭和41年6月30日、ちょうどビートルズ来日の最中に起こった。
静岡県清水市で味噌販売会社の専務宅が襲われ、一家4人を殺害、放火、現金が奪われた。
事件当日が給料日だったため、内部事情に詳しい者の犯行とみられ、逮捕されたのが従業員で寮住まいだった元フェザー級ボクサーの袴田巌(30)
 
この本は、死刑囚となった袴田を追うのではなく、主任裁判官として事件を裁いた左陪席判事の熊本典道(29)という元裁判官を追跡し、その悔恨と苦悩の一生を描いたルポルタージュ
 
冤罪の疑いが濃いとされた袴田事件、しかし合議の場で2対1で敗れ、無罪を確信しながら心ならずも断腸の思いで死刑判決文を書く運命に立たされ、結審後、自ら退官して野に下った。
司法試験にトップで合格するという秀才が、それからの約40年、酒に溺れ、2度の離婚とホームレスまがいの生活。
生活保護の申請にまで追い込まれた彼の人生は一転、元裁判官としての守秘義務を破りテレビ、新聞を通じて袴田事件の冤罪を積極的に訴えて出た。
 
そして、2014年3月27日、静岡地裁の決定が下され45年ぶりに袴田さんをテレビで見る熊本元裁判官。
袴田さんは長い拘置所生活ゆえの拘禁反応が見られ、熊本さんは痴呆症に罹り、思えばビートルズ来日など遥かな遠い昔。
この信じられない期間を冤罪として囚われの身となる恐ろしさ。
あってはならない、絶対にあってはならないことだ。
裁判長は言う。
 
「捏造する必要と能力を有するのは、おそらく捜査機関のほかにない」
「国家機関が無実の個人を陥れ、45年以上拘束し続けたことになり、刑事司法の理念からは到底堪え難い」
 
この見事な判決を下したのは村山浩昭裁判長。
ただ作者は言う。
熊本元裁判官が正義心からマスコミに名乗り出たのか、はたまた何かの売名行為か。
しかしいずれにしても当時から冤罪を疑っていた裁判官がいたことは事実なわけだ。
熊本さんには終生忘れられなかった母より教えられた歌があるらしい。
それは・・・
 
おちぶれて 袖に涙のかかる頃 人の心の奥ぞ知れたり
 

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夭折の画家 佐伯祐三と妻・米子 稲葉 有

 
佐伯祐三が画家の道に進もうと思った動機は武者小路実篤の『その妹』を読んで感動したからとある。
戦地で失明し、画家になれなかった主人公に代わり自分が絵の道に進みたいと思い、武者小路にファンレター送ったと。
その手紙を武者小路家に出入りしていた吉薗周蔵なる人物が武者小路に断って返信を書いたことから二人の交友が始まり、後に佐伯のスポンサーのような存在になる。
 
上京した19歳の佐伯は東京美術学校の受験に備えるべく川端画学校に学び、吉薗を訪ね、牧野天心堂医院「救命院」最初の患者となるとあるが吉薗は当病院カウンセラーの手伝いで、その関係で救命院神経科医師牧野三伊の診断結果が吉薗の日誌に残されている。
それを見ると。
 
佐伯の性格分析
◎非社交的、静かな様子、控え目、堅固、変人に見える。
◎臆病、引っ込み思案、繊細、敏感、神経質、興奮しやすい。
◎従順。善良。正直。無頓着。鈍感。
◎生真面目さと自閉症
◎敏感ー鈍感とつながる。
◎分裂症気質、こういうものを合わせ持っている点が特徴。
分裂病人格障害者は他者との関係、情緒的な関わりをもつ能力と動機づけに欠陥はもっているものの、思考、知覚、行動に奇妙さは見られない人が多い。
 
疑い深い点。
一旦疑ってしまうと解疑できず、心の底で疑いを氷のようにとどめている。
よって、心の底は冷たく、自らは、親しい友人をほとんど作れないことになる。
◎所見
やはり分裂病予備軍と考えるのが妥当と思われる。
 
米子の分析
 
◎言葉の丁寧な婦人だ。商人の出だとは思えない。
◎体温と脈拍は婦人がとる。
◎体温37・1度 脈拍88。
◎今日は熱があるようだなと私が言うと
「そりゃそーや、ヴィーナス熱や」と祐三が言う。婦人はよく笑い、よく喋る。仲々弁が立つ。
 
牧野先生の所見では、
ああいう患者には、あの形の目から鼻に抜けたような女房殿は良くないのではないかね。
 
以上だが、本書は単なる伝記本だと思っていたが、どうも杏子なる女性が佐伯夫婦の足跡を追うルポを小説化したような本で、その結末がこれまで聞いたことのなかった結果になる!
つまり、小説なので調べた結果は全て杏子の調査に拠るもの。
吉薗の職業だが、カウンセラーの傍ら、各地のケシを纏めて製薬会社に納入、又は上原勇作元帥の要請で海外邦人の動静も探っていた。
当時、パリにいた薩摩治郎八が在仏画家のパトロンで、有り余る財力を国際主義運動に注ぎ込み、それが日本の国益を損なうおそれありと危惧した吉薗は、その動静を探っていたが、治郎八の夫人千代子に強く惹かれていたのが佐伯だったというのだ。
 
なるほど、少し入り組んでいるが、そういうこともあったのか。
その佐伯だが渡仏後は美校の先輩洋画家の里見勝蔵に兄事し、何かと世話になっていたらしいが、ある日、里見が教えを受けるフォービズムの御大モーリス・ヴラマンクに祐三は絵を見てもらうことになった。
ヴラマンクは絵を見るなり、
 
「このアカデミック!」
 
と皆が驚くほどの大声で怒鳴り!
 
「サトミ、こんな画を見たいと僕は君に云ったか?」
 
と叱責され、以来、佐伯の苦悩は計り知れないものだったらしい。
その後の佐伯の変転は省くが、身体に異常を来たし、吉薗に出した手紙には。
 
命運つきたり
右手が死んだ
我の国にもどるべきや
妻此巴里に染むれば我一人にてもどるべき
これも修行の内か
なれば今日も写生に赴く、これ惰性ゆえ
来られたし
来られたし
 
(原文はカナ)
昭和3年3月18日
 
このあたりから佐伯と米子の関係が破局へと向かって行き、絵心がある米子は、佐伯の友人荻須高徳と不倫しているというのである。
因みに米子は川合玉堂に南画、共立美術館で北画を習い二科展にも5点入選しているところを見るとかなりな腕前だったのだろう。
佐伯は「今頃はいつもひとりなので」と吉薗に書簡を送り、米子が荻須のアパートに行ったっきり帰って来ないと言っているので浮気は佐伯自身も認めていることになるのか。
その後、昭和3年5月の絵ハガキ「俺はもうだめです」とあり、日時不明のメモには「米子はんと荻須のこと、許してやってください、全部、ワシが悪いんやから」とある。
体調芳しくない佐伯にたびたび離婚を迫っていた米子の浮気はやはり事実ということか。
話がややこしいが米子は佐伯の絵に北画的な筆を加え、佐伯はそれを見て自分の絵らしくないと言っている。
 
ヴラマンクに面罵された後も冷静な米子の指導によりヴラマンクを脱却、独自の画風を立てたのも米子の存在の大きさ故、しかし、佐伯の画風と米子の加筆が両立しなくなると、米子は荒れ始め体調不良に陥り夫婦は一挙に別居状態へ。
米子はひとり娘の弥智子を置いて出て行ったが、彼女の懸念は佐伯が吉薗にどこまで加筆の件を漏らしたか不安を抱き、ここに至って佐伯の殺害を決心したのか。
そんなことがあり得るだろうか?
しかし、佐伯の日記には!
 
米子はんはまたいつか、ガス栓を開くと思います。
 
とある。
この後のことを時系列書くと。
 
吉薗、昭和3年1月
陸軍の密命で渡仏。
 
2月
佐伯と荻須は吉薗から金を借りてモラン地方へ写生旅行。
 
2月中旬
吉薗はパリで佐伯に会う。
「この時、佐伯は元気そのものだった」と吉薗日記にはある。
 
3月13日
佐伯一家は荻須の見つけてきたリュ・ド・ヴァンヴのアパートに引っ越す。
 
3月15日
米子は原画500枚の分与を条件に離婚話を進めるが煮え切らない佐伯は返事をせず。
以来、米子は荻須のところへ通い、佐伯は先に書いた薩摩千代子のアトリエに通う。
佐伯の体調に異変が現れたのはこの時期「目がよく見えない、舌が痺れる」と周蔵宛書簡にある。
 
6月4日
友人の山田新一は佐伯の顔に「一種の死相を見た」と書いている。
 
6月13日
作家の芹沢光治良は多くの訪問客の中で佐伯の結核は問題にするほど重症ではなかったと期す。
 
佐伯が薩摩千代子に体の異変を感じたのは引っ越し直後で、それらの事実が『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』の著者落合莞爾のレポートにも書かれているらしい。
そのレポートによると佐伯の死後、吉薗夫婦が渡仏して死因を捜索、その結果を「周蔵遺書」として纏めたものを娘の明子が証言している。
 
しかし、父は佐伯君は、米という細君によって、少量づつ、砒素を投与されていたものと、判断しています。彼は昭和3年、パリの精神病院で、飲食を断り続けて衰弱死しました。砒素に関しては、父は雑貨屋から確認をとりました。
 
つまりこういことになる。
吉薗は佐伯が住んでいた辺りの雑貨屋で砒素入りの殺鼠剤が売られているのを確認、それを米子が買ったことまで突き止める。
 
落合レポートは言う。
佐伯は吐血、しびれ譫妄(せんもう)症状、など、典型的な砒素中毒だと。
佐伯の担当医ジョルジュ・ネケル医師の書簡も記載されている。
 
5月29日
患者は心の安定を失っている。精神病ではないが、心が荒廃している状況にある。治療を求めているが、打開策はない。今、彼を助けることの出来るのは神だけである。
彼が今熱烈に望んでいるのは生きることであり、必要とするのは生きる力である。
 
6月12日
患者は、夫人と友人たちから後を追われていると信じており、精神状態はさらに悪化することが見込まれる。私は、これ以上の治療を夫人から禁じられてしまったのが残念だ。彼の娘の治療も禁止された。娘は別の病気で、明らかに薬物中毒に陥っており、症状は重篤と見るべきである。私はあなた方を助けられないことを、とても残念に思っています。これで報告を終わります。
 
米子は娘にも毒を盛ったということか!
その後、あいつで亡くなった二人の遺骨を抱いて帰国、下落合の佐伯のアトリエで44年間住み続けた。
なんか松本清張みたいな話になってきたが、仮に殺害したとして動機は何か?
佐伯の死は8月16日だが2月には元気に写生旅行をしている。
その2月に撮られた父子の写真がある、確かに元気なように見える。
 
 
米子が離婚の条件として作品を500枚要求した件はどうか。
佐伯の死後、それらの絵に加筆し自分の作品にしようと思っても不思議ではないと!
どうなんだろうか、もし、これがらの事が本当なら即NHKで特集を組んでもおかしくないと思うが、何ら世間で動きがないところを見ると・・・!
誰か反証はないのか。
 

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島田清次郎 誰にも愛されなかった男 風野春樹

 
島田清次郎という小説家をいつ、どのように知ったのか全く覚えがないが昭和37年に直木賞を受賞した杉森久英氏の『天才と狂人の間』という伝記小説を古本屋で探し出して以来の対面となる。
今日、島清こと島田清次郎の名を知る人は少なく、その作品を探すのさえ容易なことではない。
 
忘れ去られた作家となったが大正時代には、彼の名を知らぬ者はないというほど文名は高まり、天才児現るとマスコミも大々的に囃し立て、若干20歳にして発売された『地上』は大ベストセラーとなった。
石川県生まれで父を幼くして事故で亡くし、母と二人、極貧のうちに育った清次郎の家を訪ねた友人はこのように書き残している。
 
「家というのは名ばかりで、どこかの養鶏場の一隅に在る納屋に畳を敷いたもので、鶏が勝手に出入りをし鶏舎も同様で、世にこれほどひどい貧乏もあるものかと感じ入ったものだ」
 
その清次郎が大正八年六月『地上』を発表したまではいいが、如何せん性格に問題があった。
文壇ではこれを絶賛する者と稚拙だと批判するグループに分かれたが総じて世の若者は熱狂的に清次郎を迎え入れた。
天才を持って憚らない清次郎は居並ぶ諸先輩を全て「君」呼ばわりし、傲岸不遜と叩かれながらも何ら反省することなく、まるで専制君主のような振る舞いに友人は元より次第に出版社からも敬遠される存在になっていく。
 
女性に関しては典型的なDVで、陸軍少将の令嬢誘拐が裁判沙汰に発展し、それを機に世は一斉に清次郎バッシングと傾く。
一切の仕事を絶たれ、貧困ここに極まる中、彼は次第に発狂していく。
誇大妄想癖のある清次郎を世間はこのように皮肉った。
 
「求処女、マゾヒズムに耐うる処女、当方天才、月収二万八千円、外印税年二百万円、欧米文豪全部友人、島田清次郎
 
大正13年7月30日未明、不審人物として警察に連行された清次郎は、取り調べの結果、精神に異常ありとして巣鴨の「保養院」に強制入院となる。
病名は早発性痴呆、現在でいう統合失調症らしい。
 
「まるで破滅型のロックスターのような振れ幅の大きい人生」
 
と、精神科医の作者は言っている。
島田清次郎は20歳でデビュー、25歳で精神病院送り、31歳で肺尖カタルで世を去った。
友人曰く、
 
「要するに彼は誰にも愛されない男だった」
 
生前の池田満寿夫は確かこんなことを言っていた。
 
ゴッホは確かに天才だと思うが友達として付き合うのはどうかなと思う」
 
確かに、これは清次郎にも言えることだろう。
人を喰ったような態度が災いし、出版を拒否され、転落していく様を見ていると、自業自得とも取れるが、流石に精神に異常を来たしたともなれば第三者としては同情を禁じ得ない。
 
病院には6年程居たらしいが、ひたすら再起を信じて退院願望が強く最晩年に至るも死の予感が全くない。
今回、表紙として使われた清次郎の写真は大正10年頃、鵠沼で撮られたものらしい。
文壇史では極めて異質なタイプで当時の人は大いに迷惑を被ったと思うが、写真を凝視するほどに哀れさを誘ってならない。
 

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自分をつくる 臼井吉見

 
臼井吉見さんの作品には安曇野という大作があるが結局読んでない。
唯一、この人の作品で読んだのは川端康成の死の原因を追究した『事故のてんまつ』という本だけだが既に絶版になっている。
『自分をつくる』というタイトルから分かるよに、私には似つかわしくない本で、本来ならこの手のものは読まないのだが、先日読んだ荻原魚雷さんの『活字と自活』に紹介されていたので興味を持ちamazonで取り寄せ一読。
 
つまりは昭和40年代の前半、学生相手に語った講演集でちょうど私の年代が、その学生に当てはまる。
戦争体験のある氏はどちらかと言うと左寄り、全ての事に関して辛口で手厳しい。
 
驚くのは教育の荒廃という言葉が使われているが、私の学生時代、既に教育は荒廃していた訳か。
本書を読もうと思ったきっかけは読書に就いて書かれていることで、私にとってはとりわけ大きかった。
魚雷さんが関心した件そのままに引用したい。
 
「すぐれた本というのは、はっきりしてますよ。時間という、偉大な批評家に合格したのが、すぐれた本です。われわれのような人間の生き身の批評家なんてものは、いい加減なもので、間違ったことばかり言っていますが、時間という厳しい批評家の手にかかると、悪いものは必ず退けられ、いいものだけが必ず残る」
 
「五十年たっても、まだ値打ちのある本は、大まかにいって、時間という、偉大な批評家の目に合格したと考えていいでしょう」
 
しかし、
 
「天下公認の優れた本を読めば、文句のない栄養がえられるかというと、そうもいかないのがおもしろいところです」
 
確かに仰る通り、言い得て妙ですね!
見識が深い。
私は古書店巡りが好きだと何度も書いてきたが、一端、その世界に足を踏み入れたら最後、抜け出すことが出来ないほど面白い分野と思っている。
紹介ではこんな御仁がいると。
 
串田孫一という人が12年かけて一冊の本を追い掛けた。
それは江戸時代の教養人、鈴木牧之(ぼくし)という人が書いた『秋山紀行』という書物で、あるか無きか分からないようなものを12年間かけて探し当てたと。
読みたい一心で、まるで親の仇を探し当てたかのような感動的な対面。
実に興味を惹かれる人物だ。
 
血眼になって探すというほどではないにしろ、私も何冊か探し求めている古い本があるが、下手をすると一生、お目にかかれないかも知れない。
とにかく臼井さんは乱読の勧めと正しい日本語の使い方、このことには特に煩い方のような印象を持った。
 

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海の祭礼 吉村 昭

 
久しぶりの吉村昭作品。
この人の本は歴史小説というより記録文学と言った方が正しいかも知れない。
それ程までに緻密さが随所に表れ小説という割には会話が少ない。
司馬作品が歴史の本流なら吉村文学は埋もれた脇役達の発掘作品と言ってもいい。
 
幕末ものは昔から好きで吉村文学は沢山読んできたが今回の主役は日本に憧れを持つ捕鯨船員のマクドナルドと長崎通詞の森山栄之助。
日本を取り巻く国際情勢の激変から開国間近と悟ったマクドナルドは船長の許しを得て単身、利尻島に上陸。
長崎に護送されてきたマクドナルドに英会話の教授を願い出るのが森山栄之助。
二人の利害は一致、共に語学を学び合う前半と、ペリー来航以後、激変する政局と条約問題に奔走する森山栄之助。
 
幕末の政局ほど緊張と波乱に富んだ歴史も珍しく作品は遺憾なくその興奮をこちらに伝える。
ペリー来航は突然のものではなく、その2年前にオランダ公文書から幕府に知らされていた。
浦賀に現れたペリー艦隊を初めて見た者からの報告は!
 
「其早キ事糸車之廻リ候様ニ御座候」
 
老中首座阿部正弘の苦悩、条約問題でペリーと折衝、総領事ハリスの無理難題、大老井伊直弼の暗殺、列強諸国と条約締結、相次ぐ異国人襲撃事件、生麦事件に端を発した薩英戦争と長州・イギリス、フランス、アメリカ、オランダ4か国との戦い。
森山は休む間もなく、これらの武力衝突を伴う事件の収集に奔走。
迎えた明治維新では新政府から出仕を乞われるも、既にその気力はなく、明治四年、51歳で世を去るまでの激動の一生を描いた小説だった。
 
作品を書くにあたっての吉村さんの資料収集力はまるで敏腕刑事のそれで読むものを圧倒する。
特に海を主題にしたテーマが多く、難破船ものを書かしたら右に出るものはいないだろう。
司馬、吉村両氏のファンだっただけにお二人の鬼籍入りは今もって残念でならない。
 

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Nickelback "Burn It To The Ground"

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ニッケル・バック好きです!

肉食系にはこういう音楽がたまりません!

特に兵士のような方々にはワイルドでハードなサウンドがお似合い。

夏が好きな私は三度・サンドのお食事を平らげ、間食もなんのその。

ブログ・読書・音楽と日々満喫しております。

しかし、樋口一葉ではありませんが、肩凝り、腰痛に加え、最近は脚痛にも悩ませれ、薬局屋のお姉さんにからかわれました。

 

「肩、腰、脚と来たら、終わりだねと言われているけど」

 

何を仰いますやら!

まだまだ、これからですよ。

痛い、痛いと言いながら、仕舞には遺体にならないよう気を付けます。

そのためにの気付け薬として肉食音楽を偶には聴きたいのです。

 

 

アンリ・ルソー 楽園の謎 岡谷公二

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  アンリ・ルソーとはこんな絵を描く人だが実に変わっている。

代々フランスのブリキ職人で父は不動産業にも手を出していたらしいが、全く美術史の中に系譜を持たない彼は一族の中でも変わり者の絵描きと思われ、原因として従妹同士で結婚した親族がいたことから劣性遺伝が出たのではというのが家族間の合意だった。
ともあれルソーは驚くべき幼児性を生涯持ち続けたとある。
 
性格的には不器用、真面目、正直、あらかじめ絵以外の余計な才能が与えられていなかったようなタイプだが、つまらぬ罪で二度も服役している。
初めて展覧会に作品を出品したのは1885年、評価は惨憺たるもので新聞紙に書かれた評を見ると!
 
アンリ・ルソー氏はラヴェル生まれとのことだが、パリにやってくるより、そこに残って、キャベツでも植えていたほうがよかっただろう。
 
これはあきらかに人物をなぐり描きで描こうとした10歳の子供の作品だ。
 
ルソーはそれらの批評を切り抜き丁寧にノートに張り付けていた。
批判をどう思っていたか知らないがルソーの絵には遠近法がない。
どれも平面状に描かれているのは何故か?
著者は言う。
 
彼にとって影響とはいったい何だったのか?
先人や同時代の画家たちの痕跡は、全くといっていいくらい見つからないのだ。
これは、ルソーの個性の強さもさることながら、むしろその絵画感からきている。
ルソーは美術史を全く頭に置かず、自分の絵画の位置について無知というよりは、一切心を労しなかった人間で、自分が所有したい、或いはその中で生きたいと望んだ世界を始終描き続けたにすぎない。
 
つまり、美術史や遠近法、系譜、影響なんかはどうでもいい!
私は、頭の中に浮かんだものを描くだけだ、ということか。
更に著者は続ける、少し長いが大事なところなので引用したい。
 
リアリズムを、対象を肉眼で見える通りに忠実・正確に描く、という一般的な意味に解釈するならば、ルソーの人物風景も、私たちの眼に映るようには描かれてない。
ルソーは、意図を実現できなかったのだろうか?
本能が意図を裏切ったがゆえに?
それとも技術上の未熟さから?
いずれの場合にしろ、ルソーは意図に反した作品を描いたことになる。
今日傑作とみなされているルソーの絵の多くは、少なくともルソーからすれば失敗作ということになる。もしそうなら、彼は自分を無能者と見なさざる得ないだろう。
少なくとも意識は分裂し、彼が終始持ち続けた晴朗さも「自己の力に対する意識」も、生まれる余地はなかっただろう。
 
結論として、
 
ルソーの眼は、私たちの眼とは違っていたと考えるほかない。彼は自分の眼に見える通りに、忠実に描いたのである。即ち彼は、幻視家だったのである。彼は、対象に忠実であろうとしたが、自己のヴィジョンに忠実だったにすぎない。そして彼は、そのことに少しも気付いていなかったのである。
 
なるほどね、そんな風に見えていたのだろうか。
では肖像画などモデルがほとんど真正面を向いている点はどうか?
ルソーは樹木の豊かな繁りを描かずにはいられない画家だが、風景画でさえ木々が正面を向いている。
つまり、ルソーに対する批判は技術上の未熟さだと指摘する評論家がいるのはこのためだろうか。
一方、構図の安定のために正面を好んだという考えもあるようだが私には判断できない。
遠近法にしても著者は、ルソーの感受性に全く反し、無縁な方法であったと言っている。
 
画家としての技術論はともかく私生活では孤独な一面を覗かせ、二人の妻と六人の子供を亡くし、1904年、見境のない画材の使い方が原因で債務不履行になり商会から訴えられている。
 
ところで著者はこの絵に釘付けになったと言っているが、これには納得する!
多彩な緑を実に上手く使い分けている。
 

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私は、絵に文字通り征服されてしまった。私は、描かれたものが現実に存在するかのように、絵の持つ喚起力に心をとらわれてしまった。
 
と、感嘆。
本のカバーにもなった作品で大きさは204.5×299㎝。
生涯の傑作と言われているが、やはりアンリ・ルソーは天才なんだろうか?
ルソーはパリの慈善病院で誰にも看取られずに死んだらしいが、彼の命を奪ったのは脚に出来た癌性の壊疽で、その晩年、ルソーは稼いだ金の殆どを周囲が反対するにも関わらずレオニーなる女性に貢ぎ報われない一生を閉じた。
 
最後にエピソードを書いておきたい。
電話機の扱い方を知らなかったルソーは、知人の女性からの電話で初めて受話器を渡された時、近所中に聞こえる甲高い声で叫んだ。
友人が声を小さくするように言ったが、それに対する答えに唖然とした。
 
「でもあの子に聞こえるようにするには、大声を出さなきゃならないんです。だって、随分遠くにいるんですから」
 

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