愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

ハリス 日本滞在記 下

 
苦心惨憺読了、どうもこの本は学術的色合いが強い日記で一般向けではない。
しかし、そこはそれなり、ハリスが洞察する日本の国状や人となりは理解できたと思う。
さしずめハリスの観察はと言うと、一見、幸福そうに暮らしている庶民を見て!
 
私は時として、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。
 
そこなんですよね!
よく、気付いてくれた。
太平の眠りから覚め、日本を待っていたのは攘夷派と佐幕派の熾烈な争い。
近代日本へ向かう試練としては余りにも大きな代償だった。
 
ところでハリスは徳川幕藩体制というものを少しずつ理解していたようだが、初期の段階ではミカドに対する存在認識が間違っていた。
宗教的法王のような存在と了解し、故に政治的な決定権は何も持たず条約批准には何ら関係ないと思っていたがようだ。
それ故、条約締結が遅々として進まない原因が理解できず、強硬措置として江戸出府に拘り続け、直接、大君に大統領親書を手渡すと言いはり、その度に奉行が江戸まで徒歩で往復、これでは日数が掛かってしょうがない。
結果的に大君に謁見し、親書を渡すことは出来たが条約批准には思わぬ難問が。
最高権力者である将軍が条約調印を出来ない!
老中は言う。
 
幕府はすべての重大事件を大名に諮らなければならない。
もし、幕府が諸大名の意見に反して重大事件を処理しようとすれば「騒擾」すなわち謀叛を引き起こすだろう。
それ故、幕府は諸大名の意見に従わなければならない。
 
最高決定機関が独断で調印できない、ここに来てハリスの目算は大きく狂う。
大名、武士階級がそれに異を唱えていると。
更に!
 
何故に彼らが江戸を開くことよりも大坂を開くことに、これほど大きな反対をするのか了解することができないと、彼らに告げた。
 
ハリスとしては不可解なことだろう。
大坂はあまりにも京都に近すぎ、朝廷を刺激することを何よりも恐れる幕閣とハリスの認識は大きく食い違ってい、更に京都を開けば必ず反乱が起き絶対に認められないとハリスに詰め寄る。
ハリスは書く。
 
ここで彼らは非常に感情的な言葉を吐いた。
彼らは、もし諸外国が日本人と戦端を開くなら、我々日本人は災禍に対処して出来うる限り最善の努力をしなければならなぬが、如何なる場合でも外国との戦争は、国内の争乱ほど恐るべきものではないと言ったのである。
 
これを読むと幕府が如何に内乱を恐れていたかがよく解る。
徳川幕藩体制の屋台骨を揺るがすようなことは断じて認められないという強い意志。
1858年2月17日の日記。
 
今月11日に条約を有りのまま諸大名に提示したところ、城内忽ち大騒ぎとなる。
若干の最も過激な分子は、かかる大きな変革の行われるのを許す前に、自分の生命を犠牲にするだろうと言明した。閣老会議は断えずこられの人々の啓蒙に努め、単なる政策に止まらず、王土の滅亡を避けんとすれば、この条約の締結は止むを得ないものであることを、彼らに指摘してきた。
 
更に!
 
流血の惨を見ることなしに、今直ちにこの条約に調印することが出来ない状態にあると。
 
そして出された結論が。
 
閣老会議の一員が京都の「精神的皇帝への特使」として赴いて、皇帝の認可を得ることができるまで、彼らが条約の調印を延期しようと浴していること。
その認可があり次第、大名たちは反対を撤回するに相違ないこと。
彼らは条約の内容をそのまま受け入れ、ただ若干の些細な辞句の変更を申し出るだけで満足し、特使が都から戻り次第、条約を実施するという彼らの約束を厳粛に誓うこと。それには二か月を要することを知った。
 
だがハリスは念を押す。
 
もしミカドが承認を拒むなら、諸君はどうするつもりか訊ねた。
彼らは直ぐに、そして断固たる態度で、幕府はミカドから如何なる反対をも受け付けぬことに決定していると答えた。私は、単に儀式だけと思われることのために、条約を延期する必要がどこにあるか問うた。彼らは、この厳粛な儀式そのものに価値があるのだと答えた。
 
そして!
 
ミカドの決定が最後のものとなって、あらゆる物議が直ちに治まるであろうというのであった。
 
この大任を担って京都に赴いたのは老中首座堀田備中守。
因みに朝廷と武家の橋渡しをする役目の者を武家伝奏(てんそう)というが堀田は思いのほか朝廷工作に苦慮。
そして下された朝廷からの決定事項は。
 
条約勅許の件は改めて徳川三家以下諸大名の意見を徴した上で再び申請すべし。
 
というつれないもので、ここにおいて、ハリスと幕府との間に約定された条約調印の問題は全く暗礁に乗り上げ、堀田は滞京60日間、条理を尽くした陳弁もその甲斐なく失意のうちに江戸に戻る。
つまり、幕閣の考えでは幕府創設以来、朝廷との関係は上意下達で政治向きなことに口を出さないのが長い間の習わしだった。
ところが勅許は下りず、岐路に付いた堀田を待ていたものは井伊直弼大老就任。
ともあれ堀田は江戸に戻り、ハリスを自邸に招き条約締結の延期を願い出る。
対するハリスは延期の期間を訊ねるが、それには答えない堀田に対して。
 
幕府に条約締結の実験がないならば、自ら京都へ行って談判すると息巻いた。
 
ところでハリス日記だが1858年2月27日に発病したとある。
病名は腸チフスで危篤状態が数週間続き、驚いた幕府は長崎でオランダ医学を修めた最も有名な医師二名を送り、強制的な回復を命じ、もしハリスの生命を取りとめられない場合は、切腹をして申し開きをするようにという極めて無理な注文さえ発した。
そんなご無体な!
その後の記述は病気回復後の断片的なメモのようなものになっているらしい。
 
さてと、大老井伊直弼だが堀田と違って心からの開国論者ではなく、むしろ鎖国的な見解を持っていたが条約否定論者の鼻先だけの強がりには与せず、従って外国と戦端を開いて幕府の基礎や国土の存立を危うくすることには絶対反対であったが、ここに突然、条約の調印を促進するような事態が持ち上がった。
 
6月13日、合衆国の汽船ミシシッピー号が最新の情報をハリスに齎す。
イギリスが既にインドの反乱を鎮定しイギリスとフランスの連合軍はシナを完全に屈服させ、その余勢に乗じて連合の大艦隊を編成し日本に向けて航行しつつあり、ロシアの艦隊もこれに続くと報じた。
翌14日、ハリスはこの情報を堀田に急報。
狼狽した幕府は井上信濃守と岩瀬肥後守をハリスの下に派遣。
 
約束の期日前に調印することは国内の事情により不可能
 
と弁明。
これに対してハリスは!
 
私は約束以外の何ものをも求めない。私は危急を諸君に知らせ、これに対処すべき最良の方法について忠言を与えるだけだ。諸君は私の忠告を無用とするならば、私は下田に帰って、おもむろに調印の時期を待つより外に仕方がない
 
拠って起こる戦火と不幸を回避するか否かは幕閣次第だと言っている。
この場に至っても逡巡、引き延ばしを望んでいた大老も遂に窮し。
 
萬止むを得ない場合は、勅許を待たずして調印するも致方なし
 
との言質を与え、1858年7月29日(安政五年六月十九日)午後三時にポーハンター号の艦上で調印は執り行われた。
しかし、ハリスの日記は58年6月9日の断片的な記事を以て終わり、その後のものは現在発見されていない。
帰国に際して閣老の安藤対馬守はハリスを招いてこのように言っている。
 
貴下の偉大な功績に対しては何をもって報ゆべきか。これに足るものは、ただ富士さんあるのみ
 
と、ハリスのこれまでの尽力に対し多大な感謝を述べている。
因みにハリスは帰国後も独身を通し、晩年は質素な下宿住まいで1878年2月25日、74歳で亡くなった。
幕末の血生臭い動乱、大老や通訳ヒュースケンの暗殺についての記述がないことは残念で、政局はここからが面白くなるのだが。
大老は条約締結、将軍継嗣問題と悩まされ安政の大獄と移っていく。
今にして思えば違勅調印は避けて通れないもので、徒に攘夷を振りかざすだけでは何も解決出来なかったと思うが。
 
ブログ村・参加しています。
ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟
                                                     
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ハリス 日本滞在記 中

私が、初めて伊豆の下田に降り立ったのは確か昭和60年の夏だと記憶するが、一週間ばかり仕事で行ったのを皮切りにすっかり当地を気に入り、以来、何度となく足を運んでみた。
二度目の訪問は観光で、偶然にも黒船祭りの時期、米軍の軍楽隊演奏を中心に市内はお祭りムード一色だったが、既に30年余の時を経たとは信じられない。
 
下田と言えばやはり黒船。
ペリー上陸地点、お吉身投げの川、松陰密航の柿崎弁天島、そして玉泉寺と見て周ったが、今回、ハリス日記を読みながら当時を思い出し、出来るならもう一度、玉泉寺を訪ねてみたいと切に思う。
 
私の下田に関する印象はハリスは書いていないがとにかく南国情緒。
とにかく昆虫、甲殻類がやたらに大きい。
尤も驚いたのはゲジゲジ
私が育った地方でゲジゲジと言えば精々、小枝ぐらいの細さで体長も4㎝ぐらいだろうか。
しかし、下田のゲジゲジは桁外れ。
親指大ぐらいはあり路上を歩くゲジゲジを見てビックリ。
更に樹木に群がる蜘蛛のこれまたお尻の大きなこと、蜘蛛嫌いの私には衝撃で、それに連なる田圃には至る所、無数の蟹。
気候が違うとこうも生き物のサイズが拡大するのかと感心することしきり。
 
余談が長くなったが、ハリスが米艦サン・ジャント号で下田に入港したのは1856年8月21日。
総領事館は玉泉寺で時にハリス51歳。
ハリスは運動不足解消のため始終散歩に出ては動植物、市民の暮らしぶりを小まめに書き留めているが、元来、日本人には散歩の習慣はない。
しかし、勤労意欲が運動不足を補っていたのか比較的、庶民は健康のようだとある。
その結果、こんな記述が。
 
日本人は喜望峰以東のいかなる民族よりも優秀であることを、繰り返して言う。
 
下田より温和な気候は、これまでのところ、世界のどこにもないと確信している。
 
日本人は清潔な国民である。誰でも毎日沐浴する。職人、日雇いの労働者、あらゆる男女、老若は自分の労働が終わってから毎日入浴する。下田には沢山の公衆浴場がある。
 
ただ一つ、ハリスを悩ませ理解出来ないこと、それは・・・!
 
男女、老若とも同じ浴室に入り、全裸になって身体を洗う。私は何事にも間違いのない国民が、どうしてこのように品の悪いことをするのか、判断に苦しんでいる。
 
しかし、ハリスが言うように!
 
それが女性の貞操を危うくするものと考えられていないことは確かである。
 
確かに不思議なことだ!
女性の全裸を見ても欲情を催すこともなく勃起もしないとは、長い習慣が性欲を麻痺させてしまったのか。
しかし、夫婦間の性行為だけは別とはどういうことか?
この点に関しては通訳のヒュースケンも同様のことを日記に書いている。
 
住民はみな貧しく生活するだけで精一杯だが、人々は楽しく暮らしており、食べたいだけ食べ、着物にも困っていない。それに家屋は清潔で日当たりもよく気持ちがよい。世界の如何なる地方においても労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい。
 
更に。
 
日本人のように飲食や衣服について、ほんとうに倹約で簡素な人間が、世界のどこにもあることを知らない。宝石は何人にも見うけられない。着物の色は黒か灰色である。貴人のものだけが綿布で、その他そべての者の布は木綿で、日本人は至って欲望の少ない国民である。
 
昔から日本人は質素倹約を旨のしてきた民族なんですね。
ところでハリスは日記の至る所で体長不良を訴えているが周囲の日本人を驚かせたのは冷水浴。
11月6日の記述にも冷水浴とあるが、流石にこの時期では少し寒かろうに。
つまり、日本人には冷水浴の習慣がなかった裏付けでもある。
 
 
しかし、ハリスはいいことばかりを書いているわけではない。
役人との折衝は遅々として進まず激論に及ぶことも屡々、全権委任状を持つハリスと、いちいち幕閣にお伺いを立てる奉行、その度に江戸に向かう使者。
会議の進展がなくハリスを苛立たせるが、奉行にしてみれば何事も独断で決定出来ず、場合に拠っては切腹もあり得るとなればうかうか決断も出来ない。
 
例えば日米の貨幣交換比率問題、下田、函館へのアメリカ人永住許可、役人を通さぬ買物の自由、総領事の国内旅行の自由化などだが、確かに当時の国法にあっては奉行如きが決められるはずもない。
因みに当時の筆頭老中は堀田備中守で最終的な大問題はハリスの江戸出府。
大統領の親書を大君に直接渡すと言って聞かず、前例もなきこと故、こればかりは到底許し得ないと食い下がる奉行たち。
意地と面子の駆け引き、さあどうなるか下巻のお楽しみ。
 
ブログ村・参加しています。
ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟
                                                     

ハリス 日本滞在記 上

 
実に重々しい本だ!
何しろ註釈が凡そ半分はあるかと思うほどで尚且つ文字が小さく旧漢字で書かれている。
古書店で見つけ先客が手に取ってペラペラ捲っていたのを目撃。
なかなかお目に掛かれない代物だけに相手が買わなければ即買いと思っていたが運よく我が手に。
しかし、上・中・下巻で3,000円は高いような。
だが、買ったはいいが、この手の本を読むには少々気合がいるためワインの如く暫く書棚に寝かせておいた。
 
で、やっと重い腰を上げたのだが、何と、意に反して全く日本国が出て来ない。
『日本滞在記』とはあるもののハリスは本来外交官ではなく商人としてかなり広範囲に世界を飛び回り、1855年、フランクリン・ピアーズ大統領から初代駐日領事に任命され来日するわけだが、その前にシャム、つまり現在のタイ王国との通商条約締結を命じられ、上巻ではシャム王国高官との折衝を約300頁も読まされるから敵わない。
 
相対的にハリスのシャム人に対する印象が酷く悪い。
もう二度とこの国には来たくないと言っている。
更に結婚制度、奴隷制度について述べた後、
 
「男色は、ひじょうに晋く行われ、獣姦もまた同様である。いずれに対しても、処罰はきびしくなく、必罰は僧侶の場合だけである。姦通も極めて普通のこととなっているが、殆ど処罰されないでいる」
 
また、
 
「嘘をつくことは、この国では、国王から下々にいたるまでの通例となっている」
 
ハリスは生涯、妻を娶らず独身で謹厳な性格にして童貞だったので、これらの風俗を忌み嫌っていたのだろう。
ハリスがシャムを離れ船上の人となり日本へ向かうのは1856年5月31日。
因みに本書の第一刷発行は昭和28年11月5日とあるが、この当時でもまだ書体は旧漢字だったのだろうか?
 
ブログ村・参加しています。
ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟
                                                     
 
 

裏長屋

 行水や美人住みける裏長屋
 
昔から美人は裏長屋に住んでいるもんだと言いますが残念ながらお目に掛かれませんでした(笑
大正や明治の頃ならさしずめこんな感じでしょうか。
 
  
粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪
 
大きく開いたうなじを背に長い黒髪を束ね、乾いたタオルで水分を拭き取る、仇な姿の洗い髪通り掛かりに私が一言、声を掛ける。
 
 「お富さん、あんまり焦らすんじゃないよ」
 「また、そんなことを言ってる」
 
 
 
 
 
何でしょうね、この2階建。
廃屋ですが中に入ってみたい。
どんな暮らしがここにあったんでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
ブログ村・参加しています。
ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟
                                                     

よみがえる 松岡洋右 福井雄三

 
東京裁判の公判中、検事が東條英機に対しこんな質問をする場面がある。
 
「貴方は、弐キ参スケという言葉を知っているか?」
「はい、知っています」
 
戦前、弐キ参スケと言えばあまりいい印象が無かったようだ。
 
星野直樹 国務院総務長官
岸信介  総務庁次長
松岡洋右 満鉄総裁
 
この五人の名前の最後の字を取って弐キ参スケという。
つまり満州を牛耳っていた軍・財・官の5人で甘粕は入っていない。
ところで今日、松岡洋右と言えばあまり芳しい印象がない。
しかし、この書は徹底的に松岡擁護にまわり、まるで松岡冤罪論を晴らすかのような論陣を張っている。
ところで、一体、松岡の何がこれほどイメージを悪くさせているのか。
その最たるものは近衛公が自決の直前に残した「近衛手記」の内容にある。
 
「日米了解案が順調に進行し、日米の和解が成立しかけていた直前に、訪欧から帰国した松岡がこれに横槍を入れて反対し、日米和平の芽を摘み取ってしまった」
 
つまり近衛首相は、あの時、松岡さえ反対しなければ戦争は起きなかったと言っているわけだ。
では、松岡は何に対して反対していたのか。
その前に松岡が世界的デビューとなった国際連盟の臨時総会での演説、よく知られる場面だが松岡はポマードを塗ったオールバックで連盟脱退を宣言する。
この時、松岡は主席全権で誰もが認める国内随一の切れ者だという人物だったらしい。
 
11歳でアメリカに渡り、苦学して将来の政治家を目指し、帰国後、外務省に入省。
退官後は請われて満州国で辣腕を振るう。
本来、松岡は満州問題の武力解決には断固反対の立場でありながら、全権に指名され連盟脱退の立役者のように祭り上げられ帰国後は国民に歓呼の声で迎えられる。
松岡にすれば全く意に反するっことだったらしい。
 
その後、松岡は第二次近衛内閣の外相に就任し日独伊三国同盟、日ソ中立条約を締結して帰国。
あくまでも対米戦反対の松岡は日独伊とソ連が組めばアメリカも易々と手が出せまいという大構想。
本来、日独にとって共産主義は共通の敵だが、この時点で松岡の脳裏に将来の独ソ戦は想定されていなかったはずだ。
 
松岡の日米了解案の反対理由だが、松岡は入閣するにあたって近衛に対し「外交一元化」を確約させていた。
つまり、外交のことは自分に任せてほしいということである。
にも拘わらず、帰国後、内閣は松岡に何の断りもなく野村吉三郎大使を通じてルーズベルトやハル国務長官と直接折衝。
当然、松岡は日米了解案を認めようとはせず再検討を命じる。
 
更に松岡にとって打撃だったのは出先の野村大使が了解案頓挫の理由を大統領に告白したことが災いしアメリカ側は松岡の印象を一層悪くさせてしまった。
そして大いなる大誤算が!
スターリンと中立条約を締結した二か月後の9月、独ソ戦が勃発。
松岡は直ちに参内して「即刻、北進してソ連を討つべしと言上」
歴史ファンなら誰もが考える「もし」である。
日本にとって第二次大戦勝利への道、千載一遇のチャンスが到来したのである。
 
戦後、チャーチルもまったく同じことを言っている。
あの時、日本が北進してソ連をドイツと挟み撃ちにしていれば日本は勝者となっていたと。
これはあながち間違いではなく、欧州各国の予想では数か月でモスクワは陥落するというのが一般論だった。
この本には書いていないが、そこで暗躍したのがゾルゲということになる。
 
「日本軍、北進せず」
 
よってジューコフ将軍率いるソビエト軍は反攻に転じる。
アメリカの国内世論はどうか?。
41年11月の世論調査では欧州戦参加への不可は63%にもなっている。
日本軍の動向としてアメリカ国務省ソ連に宣戦布告するのが最も合理的と考えていたが事実はそうならなかった。
 
7月2日の御前会議。
松岡の反対を押し切って南進論が国策として決定。
南進すれば必ず対米戦になると警告していた通り日米戦は勃発。
松岡外交は刀折れ矢尽き、こと、ここに至って近衛は内閣を解散、第三次近衛内閣の発足となる。
交替したのはただ松岡のみだった。
つまり松岡降ろしのための改造内閣というわけである。
そして運命のハル・ノート
 
満州を含む中国および仏印から、日本の陸海軍および警察の全面撤退
・日華特殊緊密関係の放棄
三国同盟の死文化
・中国における重慶政府以外のいっさいの政権の否定
 
もはや万事休す。
戦後、松岡は自決しなかった。
判決日まで存命であれば或は死刑判決を受けていたかも知れぬ。
しかし退官後の松岡は持病の結核が重く21年6月27日死去した。
市ヶ谷に向かう時のことか、バスから降りる最晩年の松岡の映像が残っているが、嘗てのエネルギッシュな風貌とは程遠いやつれた姿が痛々しい。
しかし、松岡に対する検証は今後とも必要であろう。
 
著者は東京国際大学教授という肩書だが一読するところかなり松岡に対する思い入れが深いように読み取れる。
因みに近衛退陣の後は松岡内閣の構想もあったようだが本当だろうか。
その場合、参謀総長石原莞爾だとか。
 
ブログ村・参加しています。
ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟
                                                     

裸はいつから恥ずかしくなったか 中野明

比較的有名なこの絵を一度ならず見たことがある人もいると思う。
作者はドイツ人画家ヴィルヘルム・ハイネ。
ペリーの日本遠征に随行画家として1854年に下田にやって来た。
その時に描かれた所謂、「下田公衆浴場図」は合衆国政府に公式文書の記録として提出されたもの。
 
無論、ハイネが全くの想像で描いたものではない。
我々、現代人も江戸の昔、銭湯は混浴も可だったということは知っている。
がしかし、この風習は江戸の町に限ったことなのか、はたは全国的なものだったのか良く知らなかった。
しかし、いい意味で羞恥心というものを知らなかった日本人の裸体は日本全国、至る所で西洋人の目に触れたようだ。
古来、日本人は性に関しては淫靡な感覚を持ち、現代人より遥かに大らかだったというようなことを何かの本で読んだことがあるが、この本を一読、まさかここまでだったとは驚いた。
 
昭和30年代に育った子供なら知っていると思うが当時は電車や路上などでも母親は躊躇なしに子供に母乳を与えていたし、それを見て特別違和感もなかった。
また、腋毛を剃る習慣とて一般的ではなかったように思うのだが。
あれが江戸の名残を最後に伝える時代だったのだろうか。
 
ともかく、幕末、大挙して訪れた西欧人は驚きの目を持って混浴の様子を日記に書き記している。
上の絵を細部に亘って解説するとこうなる。
 
入浴者は全部で二十二人。男性が九名、女性が十名。性別を判別できない人物が三名。入浴者はおおよそ四つのグループに分かれている。まず、画面右奥には、女性五名の群れがあり、幅広の木桶だろうか、その周りに四名がしゃがみ、桶を持った一人だけがきりりと立つ。その足下の女は、膝をなかば開いて下腹部を見つめる。右手の女性がその様子を横目で覗きながら何か語っているかのようにも見える。

一方、画面中央部では、四名の男性と五名の女性が溝を境に入り交じっている。右端の男は桶を持って立ち上がり、画面の外へと出て行く様子である。床に桶を置きしゃがもうとする男、桶に手を入れて足を半ばのばしている男もいる。このグループの中で最も目立っているのが、最前列でしゃがむグラマーな女性。足を抱え込み、布状のものですねの辺りを拭っている。その背後には、背を向けてしゃがむ女や、正座する女、半ば立ち上がる女がいる。
 
しかし、この絵の不思議な点は誰ひとり異性の裸体を好奇の目で見ていないことにある。
そこに着目した西洋人こそ、まさに驚きの光景だったわけだ。
今から約160年程の昔、我等日本民族の風習は現在とは隔絶の感があったのだろうか。
私の世代から換算すると4世代ほど前になるが、西洋人の受けた衝撃は驚きなんていう容易いものではなかった。
 
「恐ろしい衝撃」
「胸が悪くなる」
「私の遠征の中でこれほど醜い光景を見たことがない」
「利口だが嫌悪すべき人間」
 
それもそのはず、当時のイギリスは社会規範の厳しいヴィクトリア朝時代。
当時のヨーロッパでは入浴は体力を低下させるという迷信から入浴は滅多に行われない風習だった。
それどころか生涯、一度も風呂に入ることなく死んでいく人もいたとか。
いろんな文献にも載っているが世界中、日本人ほど綺麗好きな民族はいないと当時の西洋人は思たようで、何しろ日本人は毎日風呂を欠かさない。
 
更に驚きは続く。
西洋人がたまげたのは風呂の温度で、約50度の高温の中、15分から30分浸かっていたというのである。
これは中世の聖人の殉教者のようなものだと書いている。
つまり拷問の類で、さしずめ石川五右衛門の釜茹でのようなものになる。
更に更に驚きは続く。
 
「絵画、彫刻で示される猥褻な品物が、玩具としてどこの店にも堂々と飾られている。それを父は娘に母は息子に兄は妹に買っていく」
 
つまり大人のオモチャを土産に買っていくと言うのである。
信じられない話しだが多くの外人が同じような光景を目にして日記に記している。
では、当時の日本人にとって裸体はダイレクトにセックスと結びつくものではなかったのか。
否、裸体は顔の延長だと考えていたという。
そんなことが考えられようか。
 
元来、幕府も混浴について見て見ぬふりをしていたわけではない。
松平定信寛政の改革の時は「男女入混湯禁止」
水野忠邦天保の改革の折りも「男女入混湯、決して致候間敷候」というお触れが出ているが守られることはなかった。
更に日記を拾って見る。
 
七面鳥のように赤く出てくると休憩室で男女、裸体のまま思い思いの格好で休んで話をしている」
「これらの人々は、人間が堕落する前にエデンの園にいた人間の最初の祖先と同じように純粋なのだろうか」
 
つまり現在の日本人は幕末の西欧人と同じ目で裸体を見ているから恥じらいというものが生まれるとも言える。
何しろ、昔は下着が無かった。
それ故、信じられないことだが湯屋から上がったら、そのまま素っ裸で町を歩いて家まで帰り、道行く人はそれら全裸の男女を見ても委細構わずだったとか。
それが自然な行為として日本人には受け入れられていたわけだ。
しかし、本当だろうか、俄かには信じられない。
 
更に、銭湯の作りかたはどうか。
建物が密閉されていたわけではなく外から丸見え状態で、それ故、外人はこの異様な光景が目に入り、瞬く間に西洋社会にこの謎が広まった。
住環境に目を向けると、各長屋は一日中扉や窓を開けっぱなし、プライバシーは丸見え、暑い時には外に盥を出し全裸で水浴びをしていても一向に道行く人は気にも留めないと。
しかし、そこまで裸体に興味がないのなら春画はなんの為に成り立っているのか。
著者はそれをこう分析する。
 
春画の特徴は、何と言っても性器が巨大化している点である。そして、そのあまりにもデフォルメされた性器が生々しく挿入されている様子を描く。しかも体位が極めてアクロバティックでもある。また、現代のヌードでは極めて重要なパーツになっている胸部があまりにも簡略化されている。つまり春画の主要テーマは、裸体そのものではなく性行為自体だと考えるのが自然だろう」
 
なるほどね!
私がまだ20代の頃、近くに住んでいたお婆さんが若い頃、伊勢で海女さんをしていたという話しを聞いたことがある。
昔の海女さんは上半身裸で素潜りしていたが、そのお婆さんの話しでは海から上がると「オメコ干し」と言ってみんなで裸になり石の上で甲羅干しのようにアソコを乾かしたとか。
いや~、価値観なり羞恥心などは時代と共に変遷していくものですね。
江戸時代、女性は大股であるく度に秘部が見えるのは当たり前だったらしい。
それでは性欲も削がれようというものだが。                                              

芥川龍之介―長篇小説 小島政二郎

嵐山光三郎「文士の伝記はまず、死がその前提にある」と言っているがまさにその通り。
または「小説家の死は事件であるとも」
これまで数多くの文士に関する伝記・評伝の類を読んできたが中でも一番多いのは太宰に関するもの。
太宰と関係した3人の女性が書き残したものも含め色んな角度から読んできたが、どうも太宰の生き様や情死については同情を持てない。
 
例えば自殺までしなくとも同情を禁じ得ない文士は沢山いる。
正岡子規はどうか。
脊椎カリエスとはどんな病気か知らないが晩年は悶絶、絶叫、号泣、罵倒と母と妹を煩わし下の世話から食事の用意まで言いつけ布団の上だけで暮した。
 
石川啄木はどうだろう。
確かに性格が祟って長く定職つ就くことが出来なかったが、結果、待っていたのは結核で、厄災は本人だけでは済まず、母、妻、娘と家族ぐるみ、結核に罹り全員死滅した。
 
島崎藤村の場合は、あまりの貧困から栄養失調で妻と三人の娘を亡くしている。
 
有島武郎の場合はどう考えたらいいのだろうか。
人妻である波多野秋子との不倫がバレ、姦通罪で告訴されるか慰謝料として1万円払うかと迫られ情死した。
幼い子供三人を残してである。
 
他にも西洋の音楽家や画家など書き出したらキリが無い。
とにかく、有島、芥川、太宰、三島、川端とそれぞれ晩年を読んでみて、やはりその悲惨さや悲しみに於いて芥川に最も同情の念を払う。
今回の本、作者は小島政二郎
1894年(明治27年)1月31日 - 1994年(平成6年)まで、何と満百歳の長寿で、芥川より二つ下、誰よりも芥川を敬愛し尊敬した人物が84歳の時に書いた本。
 
この本には難解さと面白さという二つの要素があるが、小島を含め近代史を彩った文豪たちは頗る勉強家でり読書量も半端じゃない。
特に芥川は速読術を極めていたのか、本を読むのが早かった。
まあ、それはともかく小島は当時の文豪の文章論などを芥川と比較、その解釈というか読解力が凄い。
 
紅葉、露伴、鴎外、白鳥、漱石、志賀、谷崎などを引用し、それぞれの優劣を長々と語り、一読して読みの深さに愕然とした。
面白さという面でも友人だけあって当人しか知らないエピソード満載で、芥川との会話でこんな場面を書いている。
 
新潮社版、豊島与志雄訳の『ジャン・クリストフ』を読み始めたがどうしても最初の部分が退屈していると芥川に訴えたら、
 
「ゴッドフリードと云う叔父さんが出てきたか」と問い返され「いいえ、まだ出て来ません」「それじゃ、五六十ぺージのところを探してみたまえ。ゴッドフリードと云う叔父さんが出てくるから、そこから読み始めたらトテモ止められないよ」
 
と言われその通り読み始めたらとても止められなかったと。
私だったらそんな風に言えるだろうか?
それはそうと小島は芥川の養子問題に付いてかなり拘っている。
 
「露骨に言えば、彼には小説家に必要な生活がなかった。何故か。養子だからである」
 
養母からとても可愛がられた芥川は終生、養母に頭が上がらなかった。
小説家に必要な生活がなかったとは白樺派自然主義派に見られる生活感が芥川作品には皆無だということを言っているのだろうか。
確かに芥川の王朝文学や中国の古典のような話しは解り難い。
小島は、
 
学問で補えないのが小説なのだと
 
言い切っているが私にはよく解らない。
さらにこうも!
 
漱石の『それから』『門』『彼岸過迄』『心』『行人』『明暗』どれにも生活がなく小説になっているのは『坊ちゃん』と『道草』だけだ
 
では芥川はどうかと言うと
 
つまらない作品はないが、どれも小説となっていないので心を打って来ない、「物語」の悲しさ、面白いだけで終わってしまう
 
と手厳しい。
しかし、こうなってくると私のような浅学の徒には全く解らない。
佐藤春夫んはそれを知っていて、芥川に忠告している。
つまり芥川は名文を書こうとして、もっと大事なものを取り逃がしていると。
 
「それを佐藤は、窮屈なチョッキと云っている」
 
更に広津和郎の弁を引く。
 
「小説には名文は不必要なのだ。川柳に『娑婆しゃばと仏は疎みたまえども』というのがあるが、小説家の住むところは娑婆だ。娑婆の外に小説家の住むところはないのだ。娑婆とは人生だ。人生のすぐ隣に呼吸しているのが散文である」
 
広津は難しいことを言っているが谷崎はどうか。
 
「嘘を書いた小説でなければ読む興味を引かないと公言している」
 
東京下町で生まれた芥川は、裸になるのが不得手だったと小島は言いたいがために他の作家と比較しているのだが結局、芥川は嘘も書かなければ私小説も書かず、人前で恥をかくようなものを一度も書いていない。
そして少しずつ衰弱していった芥川の前に立ちはだかったのが志賀直哉ということになり、志賀によって小説とはどういうものか初めて知る。
知恵や知識では誰にも負けないと豪語していた芥川だったが志賀の芸術には完敗したと。
 
ところで芥川の体調はいつから悪くなったのだろうか?
小島はこのように書いている。
 
「或夏、室生犀星に誘われて軽井沢に行ったのが始まりだった」
 
或夏とは大正15年のことではないかと思うが。
芥川、室生と萩原朔太郎堀辰雄が集まった夏だ。
芥川と室生はひと夏、つるやという旅館を借りて生活したが、それが悪かった。
室生は早起きで午前中に必ず原稿を12枚書く。
一方、芥川は徹夜して1枚か2枚しか書けない。
軽井沢の夜は気温が下がり芥川の健康を害した。
不眠症に陥り、冷えが胃腸に来て下痢になる。
以前にも書いたがこの時、芥川はこんな手紙を書いている。
 
「この間の下痢以来痔というものを知り、あたかも阿修羅百臂の刀刃 一時に便門を裂くが如き目に合い居り候」
 
古今東西、下痢に関してこれほどの名文があろうか!
そして以前は会えば小説、詩、美術の話しが専らだった芥川が病気の話しばかりするようになり、斉藤茂吉に注意されていたタバコも止めず「バット」を吸い、箱に「スイート・マイルド」と書いてあるのを「吸うと参るぞ」などと言って一向に止めようとしない。
結局、小穴隆一と毎日、自殺の話しばかりして楽しんでいた。
どうかしてる!
 
そんなある日、芥川の運命を左右する決定的な事件が起こる。
宇野浩二の発狂、芥川の生母は精神分裂病の長患いで死んでいるだけに、一番恐れていた遺伝の病が彼の頭によぎる。
ショックを受けた芥川は宇野を斉藤茂吉の病院へ連れて行き驚くほどの看病をするが、その衝撃が彼の死を早めてしまったのか、宇野のようになる前に死ななければ。
 
追い打ちをかけるように姉の夫が債務を抱えたままで自殺して刑事問題に発展。
それら全ての処理が精神を病んだ芥川の肩にのし懸かる。
神経衰弱、不眠、下痢、片頭痛、幻覚、睡眠薬の乱用、体重は半減。
そして迎えた運命の日。
内田百閒は「芥川君はあまりの暑さのために死んだんだよ」なんて言っていたが、
私は、芥川の死に顔に向かって言った奥さんの言葉が忘れられない。
 
「お父さん、よかったですね」
 
これで全ての苦痛から取り除かれたのか。
出張先から帰って来た菊池寛は芥川の枕許で、短い手の甲を目に当てて突然子供のように声を出して泣き始めた。
以前、菊池は文芸春秋から金を出すから一年ぐらい遊んで療養しないかと言ったのだが芥川はそれを断っていた。
 
芥川夫妻は結婚した当初、鎌倉の大町辻にある離れに二人だけで一年住んだことがあり、晩年、芥川は「鎌倉を引き上げたのは一生の誤りだった」と言っている。
 
 
ともかく気が弱く養母に頭が上がらない芥川は小島と旅行する度に途中下車して何処かで遊んで行かないかといつも誘われたと書いているが、家に早く帰りたくなかったのか誰にでも遠慮した生活を送っていた。
奥さんのために初めから養家を飛び出し、二人だけで生活していればこのような悲劇は起きなかったと返す返すも残念だと小島は嘆いている。
芥川ほどの人物を見すみす死なしてしまったのは文壇の大損失。
戦後に於ける志賀、谷崎、芥川の関係を是非見たかった。
 
ブログ村・参加しています。
ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟