愛に恋

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夢声戦争日記〈第7巻〉昭和20年

 
全くの偶然だが、以前、フォローしているTwitterの人のつぶやきを読んでいたら、古書市で『夢声自伝全三巻』を購入と書いてあった。
調べてみると昭和53年に講談社文庫から出ているらしいが、三巻で約1400頁ほどあるようで実に悩ましい。
私も何処かでこれを見つけたらやはり買うのだろうか。
うんざりだ(笑
 
その夢声だが、やっと戦争日記第七巻を読み終えた。
自伝の方はどのようなものか知らないが日記は文体に悩まされる日々だった。
理由はよく分からないが送り仮名が平仮名とカナに別れており統一されていない。
故に読み辛いことこの上なし。
 
政治家は政局を書き軍人は戦況を書くものだが、この時期の民間人が書いた日記というものをあまり読んで来なかっただけに、はて、内容はと気になるところだったが、これまで過去、六回に渡って書いてきたとおり、家庭菜園、慰問先の料理、または会場の客の入り具合から反応、そして空襲と夢声の目を通した当時の世相と家族の動向、敗戦後の日本を憂えた記事等々、文化人、執筆家として彼の日記と付き合って来た。
中でも取り分け私を悩ませたのは南瓜に纏わる記述の多きこと、これ如何に。
 
出張したらしたで、留守中に空襲で家が焼かれたら南瓜はどうなるのか、果ては終戦当日まで南瓜の育ち具合に拘っているが、ある面、冷静さを失っていないとも取れるが、果たして兵隊に行かなかった者の感慨はこのような落ち着いたものなのだろうか。
玉砕、神風、本土決戦と打ち続く緊迫感はどうも見えてこない。
ともあれ最終巻は20年7月から10月18日まで綴られている。
その7月3日の記述を見ると。
 
一体鈴木首相その他日本の主導者達は、如何なる見通しのもとに戦争を続けているのか。見通しなんてつかずにやっているのか?
 
高齢を理由に大命降下を固辞していた鈴木貫太郎大将だが、おそらく、一度、首班指名を受けるや否や固い信念があったものと信じるが、それは当時の一般庶民には分かり辛いものだったろう。
 
10日。
 
朝から17時まで12時間連続の空襲、午後になると子供達は平気で大通りで遊び大人は平常通り用を足す
 
熾烈を極めた玉砕の島では考えられないような平穏な時間が本土では流れるわけだ。
当たり前のことだが本土には米兵が一人もいないわけだから空襲さえ終われば普段の生活に戻るということか。
いくら戦時下と雖も喰うためには働かなければいけない。
しかし、7月ともなれば既に沖縄は落ち、連合艦隊は壊滅、制空権も制海権も失った日本では連日空襲に悩まされ、何百何千という敵機を前に成す術が無い。
それでも戦争が終わらないと言えば夢声ならずとも、今後の軍の方針が訊きたくなる。
藤沢、辻堂、平塚、小田原がやられたのは17日とある。
30日、我らが夢声先生はのたまう。
 
B29とP51に対する私の関心は、南瓜と胡瓜に対する関心と、同じ程度である。
 
と、空襲の最中でも南瓜のことは忘れない。
8月5日。
 
旅に出て、一か月以上も帰らず、最も気になる一事は南瓜の事也。
 
因みにこの頃の電車の移動は殺人列車といわれるギューギュー詰めで、更に敵の戦闘機の来襲で多数の死傷者を出し、その度に大幅の遅れを出す。
当然、車内には冷房はなく想像を絶する。
6日。
 
B29三機広島に来り、恐るべき新型爆弾を投下す。落下傘につけたる、原子爆弾の如きもの。死者15万とも20万とも言う。戦争の局面これにより一転す。
 
つまり、広島の惨禍は当日のうちに夢声の耳に入っていたわけだ。
7日。
豊川海軍工廠に向かう途中、その海軍工廠が爆撃を受けたことを知り命拾い。
 
9日。
 
午後三時の報道を聴き大いに驚く。
 
つまりソ連参戦を知ったわけだ。
 
ソ連宣戦蝉共頓に黙しけり
 
10日。
 
 
最後の一人となるまで戦う、という文字は勇ましい、私も日本人としてそこまで行きたい気もある、とは言え、ピカリと光ってそれで万事休すでは、戦いではない。
ただ、毛虫の如く焼き殺されるだけのものだ。
 
国体はそのままに
これが日本の唯一の条件だそうだが、敵がこれを容れなかったら何うするか。
その時こそ、全日本が硫黄島になる時であるか?
 
15日。
 
日本敗るる。これで好かったのである。日本民族は近世において、勝つことしか知らなかった。近代兵器による戦争で、日本人はハッキリ敗けたということを覚らされた。勝つこともある。敗けることもある。両方知らない民族はまだ青い青い。やっと一人前になったと考えよう。
 
蝉和尚精一杯に勤行かな
 
しかし、何か哀しい。
夢声はまだ知らなかったと思うが、この日、クーデターを目論む畑中少佐らは阿南惟幾陸軍大臣、森近衛師団長、田中静壱東部軍管区司令官に蹶起趣意書の同意を求めて血眼になっていた、結局、こと破れて阿南陸相、田中司令官は自決。
近衛師団長は惨殺され畑中少佐も自決した。
日本開闢以来の敗戦、予測の付かない今後を思うにつれ夢声の不安も随所に窺われる。
何しろ夢声には妻と年頃の娘が3人も居り、敗戦国家にありがちな婦女凌辱の問題が始終頭をよぎる。
 
20日。
 
丸山定夫君が死んだ。
 
丸山定夫は原爆投下当日、広島に居た。
 
22日。
 
教養低きヤンキーども、舌なめずりしつつ、日本ムスメをモノにせんと、張り切って来るのかと思うと、甚だ屈辱を感じる。
 
さもありなん。
 
9月13日。
 
小泉元厚相自決。
 
9月14日。
 
橋田元文相服毒自殺。
 
9月18日。
 
梅原龍三郎画伯の作品は、果たして何所が好いのか、本当は私には分かっていない。
 
9月21日の記述には考えさせられる。
 
地下鉄のギューギュー詰の中に、アメリカ兵たちも混じり、誰彼に何か訊ねながら、それぞれの目的地に向かって行く。
進駐後まだいくらも経っていないのに、彼等は日本人の中に巻き込まれて、少しの不安も感じていない風だ。大胆なのか、無邪気なのか?彼等の態度から診るに、日本人を憎悪していないことは明らかである。
 
戦争が終わって間もないのにどうして同じ地下鉄に乗って会話が出来るのであろうか。
あの死闘、激闘は何であったか。
一億玉砕ではなかったのか。
以前、私は沖縄を旅した折り、ホテルで旅装を解くや直ぐさまタクシーで海軍司令部壕に向かった時のこと、目的は今も残る太田海軍少将の自決現場を見ることであったが、壕内で数人のアメリカ人と出会い、そのまま自決の部屋も彼等と一緒に見ることになった。
実に奇妙なものだ。
 
敵味方として戦ったのが嘘のように。
太田少将は陸軍の牛島司令官に、米兵迫る、ここで自決する旨の伝聞を送った。
驚いた牛島司令官は米軍包囲網を突破し陸軍と合流するように返電す。
しかし、突破出来ないと悟った太田少将以下幕僚たちは全員、壕内で自決。
その現場をアメリカ人と一緒に見ようとは感慨深いものがあった。
 
10月18日。
 
旅先で見た幼稚園児の御遊戯。
痛く感動した夢声は、この子たちが大人になった時、果たして日本はどうなっているのかと思い巡らせているが、今現在、平成の御代となり来年あたり改元の話しも出て、斯く言う私は夢声が見た幼稚園児よりかなり年下。
昭和20年には、まだ生まれていないどころか両親も巡り合っていない。
 
敗戦、何処へ向かうとも知れなかった日本と日本人。
万歳に見送られて戦地へ向かった兵士たちの帰還。
この先、数十万の餓死者が出るとの噂の中、この時代を生きた人の苦節を佳きにつけ悪しきにつけ、夢声の日記の行間は語っているようだ。
 
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夢声戦争日記〈第6巻〉昭和20年 (後編)

ブロガーというのは決して仕事ではないが、こう毎日、記事を書いていると、疲れもするが、それはそれなりに楽しい。
しかしながら所詮は素人の域を出ないのであって文章の作成には苦労が絶えない。
そして今日も、まるで何かに憑りつかれたように書かねばならぬ。
 
さて、昨日の続き、今日は20年4月から6月までということになる。
終戦までは4か月半。
日本と日本国民とって、これからが本当の正念場ということになる。
史上嘗てない混迷深き月日と膨大な死者伴う戦い、将に雌雄を決する時が迫って来たこの時、我等が夢声は如何にこれからの動乱を捉えていたか、今日もつぶさに見ていきたい。
 
4月、この時期の夢声の関心は専ら自宅の蔵書にある。
戦局は既に硫黄島が落ち、栗林中将は残存兵を集め、最期の突撃命令を下し玉砕。
主戦場は沖縄へと移ったが、夢声は日々、電車の中で芥川全集と格闘していた。
1日の日記。
 
これだけのものを焼いて了うのは勿体無いと思う。書庫には、同様、勿体無い本が無数にある。いっそ全部焼けてしまえば、返ってなんでもないのかもしれないが、斯うして手にとって眺められる状態にあると、惜しくてならなくなる。
 
ところで夢声には1男3女の子供が居るが、娘たちの防空態度が4月4日の日記にある。
 
高子は無暗に悲鳴をあげる。敵機が近づいたり、爆弾音が聴こえたりする度に、泣き声を出し、救いを求め、大騒ぎである。
明子は始終防空壕の中に音なしく入ったまま、ウンともスンとも言わない。
徹頭徹尾グーグー鼾をかいて寝込んでいたというから呆れる。
富士子に到っては、母親からいくら注意されても、てんで防空壕に入らない。
ジャンジャンと退避の半鐘が鳴ると、不承不承に出てくるが、あとは何があろうと自分の部屋で布団にくるまっている。
 
つまりは何だ!
毎度毎度、警報と半鐘が鳴り、あちらこちらで大火災が発生しても、もう聞き慣れたし空襲も飽きたってか!
夢声はいろんのところで書いているがラジオで敵機の侵入を知り、まず、どの方面に向かっているかを聞く。
関東、または東京へ飛来した時は上空の編隊の位置を確かめる。
一概に東京と言っても広い。
自宅からかなり逸れている場合は悠然と書き物をしたり、物見遊山で火事見物に出かける。
ふん・・・、そんなものなんだろうか!
しかし、事態はそんな生易しいものではないのだが。
21日の日記を見てみよう。
 
木下君の町では、百五十人の人間の中百三十五人ぐらいが焼死んだそうだ。
一割が生き残った訳であるが、その十五人の生き残りの中に、目くらの按摩が四人もいたとは妙である。
 
それ見なさい、云わんこっちゃない。
ところで内閣はというと、4月8日に小磯内閣から鈴木貫太郎海軍大将へ大命降下となったが夢声の感想は。
 
聊か期待外れ。
 
ということらしい。
5月2日の日記。
 
ルーズベルトムッソリーニヒトラーの三人が、僅か半月の間にバタバタ死んだ。
 
それにしても可笑しいのは
 
ムッソリーニ氏は、妾と共に捕えられ、銃殺されて曝しものになった。
 
妾と共に捕えられという表現が如何にも日本人的で可笑しい。
一般的には愛人と共にと表現されるのが普通だが。
まあ、それはいいとして、3日の日記に突然こんなことが書かれている。
 
性交を恥ずべきこと、他人に見られてはならぬこと、場合によると一種の罪悪であるかの如く考えること、これは人間以外には見られぬ現象である。
一体これは、人類の始まりの、どの辺からそう思うようになったのであろうか?
人類が未だ純然たる動物の域にあった時は、無論大ピラの行為であって、しかも他の動物なみにサカリの時期があったものに違いない。
それが少しく進化して、いささか人間らしきモノの考え方をするようになって、これを隠れてやるようになった。
年中ノベタラに行うようになったころと、隠れてやるようになったのと、大体同じ時代であったろうと思われる。
だが、そもそも性交なるものに、恥ずべき点がある筈がない。
況んや、罪悪などはコッケイも甚だし。
 
う~ん、成程、みんなそうやって生まれてきたわけだから、恥ずべき点、況んや、罪悪などはあろうはずがないのである。
吾輩も同感じゃ!
しかし先生、焦眉の急は今や違う問題かと思いますが。
5日。
 
端午の鯉のぼりの代わりに、B29の大鯉やP51の小鯉が、空に泳ぐのもまた面白かろう。
 
何を暢気なことを仰っているんですか!
奥さんや娘さんたちはどうなるんですか?
 
世界みな敵となりけり柿若葉
 
そんな俳句は要りません。
滅亡が近づいているんですよ、滅亡が!
9日。
 
今朝の新聞、愈々日本一国だけで暴れぬかねばならぬという国民激励の文字で満ちている。今更ながらえらい事になったもんだと思う。
ソ連、米、英、仏に四分されたドイツの地図を見ると、厭な気分になってくる。
必勝不敗を呼号している、日本の指導者たち、果たして当人が、その信念を持っているのだろうか。
とにかく行くところまで行くより仕方がない。
 
沖縄では激戦が続いている。
この時点で日本人の誰1人として、この戦の終焉がどのように訪れ、その結果がどうなるのかを予想出来た者はあるまいに。
5月14日。
これまた妙な記述。
 
嘗て内田百閒氏が、今井慶松と宮城道雄の比較論をして曰く「琴はなんと言っても今井です、段が違います。宮城君の琴は演奏中でオナラをするものがあれば、調べが乱れる。然し慶松の方はオナラが鳴ろうと雷が鳴ろうと、ビクともしません」と。
 
生憎と当方は琴についてはさっぱり解りませんが宮城道雄は検校だが、百閒先生の言うとおりなのだろうか。
さてさて、戦の方の心配はどうなっていなさるかと言えば、あったあった。
5月20日
 
私など、一日交替ぐらいで一喜一憂している。
無論、日本が負けるなどとは思わないし、思ってはならないのだが、どうかすると負けた場合の想像などしていることがある。
今日は悲観の日である。
どうも沖縄は一時、敵に渡すのではないかという気がする。
 
確かに予想は当たっているが、沖縄戦はまだこの先、1か月は続く。
5月25日、また脱線だが、これは何と捉えたらいいのか?
 
富士山を目標にして敵機が来るという。
焼夷弾が夜の亭主のおつとめを免れさせるという。
 
これは一体、如何したか?
まあ、確かにそういうこともあろうが、これではまるで、亭主が「良かった、今夜は空襲があって」と言っているように聞こえるが、果てさて。
この日の大本営発表
B29、250機帝都来襲。
 
26日、横須賀線は横浜止り、桜木町線は鶴見止り、東横線は日吉止り、小田原線は新原町田止り。
29日、夢声は友人たちと大酒宴。
しかし、この時期、警報は日常的なもの。
大本営発表、B29、500機、P51、100機横浜来襲。
どうだろうか、こんなことが想像できるだろうか。
現在、私たちは上空に飛行機が同時に飛んでいるのを、せいぜい3機も見れば多い方だと思うが600機の飛行機が空を埋め尽くし、爆弾を投下する。
将に、この世の終わりではないか。
31日。
 
敵は「第三次東京空襲で残りを全部片づける」というビラを撒いたそうだ」
第三次をよく考えてみると、第一次が下町、第二次が山の手、第三次が新市内、即ち元郊外区域ということになるらしい。
 
6月2日。
 
東京駅は世にも他愛なくやられ、五反田渋谷ペロリとやられ、新宿駅は歩廊のみとなりいる。
旧東京は全滅である。
これを見てもさしたる驚きなきは如何?
 
6月9日。
 
「東京を坊主刈りにするつもりですが、目下の所、虎刈りで御気の毒さま」というようなビラを敵機が撒いた。
 
夢声は吾家が焼けても硝煙の中に踏み止まるつもりでいる。
6月10日。
 
二階に上がり新聞を読み、昨日の日記をつけていると、近所のラジオが関東地区警戒警報発令を知らせる。
敵機編隊は6時30分頃八丈島上空を通過し北上中なり、只今時刻は6時44分。
「来た来た」と階下で静枝が言う。
どれ、私も便所にでも入り、支度を致そう。
 
実際には徳川一家は防空壕に、それぞれありったけの荷物を入れて準備は怠りない。
無論、日本側も黙って見ていたわけではない。
敵機に体当たりするもの、高射砲も撃ちまくる。
しかし、この日の目的は霞ケ浦方面だったらしい。
 
16日。
夢声国民義勇隊の隊員になる。
愈々というときには参謀本部に属し、国民戦闘隊となり女も子供も武器を取って戦うことになるとか。
娘たちも各々、会社工場単位で、それぞれ義勇隊に入る。
夢声は言う。
 
放送している最中に爆死するなど、私としては最高の死にかたであろう。
 
19日。
 
聴いた話しに、米空軍は、徹底的に爆撃を慣行する、たった一軒残った家に大編隊でやって来て粉砕する、という。
支那あたりでは、敵の小型機は何でも動くものなら掃射する。
一頭の水牛を三機で追い回して、これを動かなくなるまで、浴びせかける、という。
 
6月20日
 
大森方面に敵機が撒いたビラ。
6月20日に、B29、700機、P51、300機東京の焼け残りを奇麗に片づける、と記してあったが、それは今日ではないか、と私たちは笑いながら言う。
 
しかし、激化する空襲の中でも夢声は毎日仕事に出かけている。
この日の空襲は豊橋、静岡。
ところで東京大空襲を指揮、考案したアメリカのカーチス・ルメイ少将。
日本人にとっては悪名高き人物である。
独創性のアイディアで如何に多くの日本人を殺傷できるか日々、考えていた。
その結果、3時間にも満たぬ間に、死者行方不明含め10万人以上、被災者100万人以上、約6平方マイル内で25万戸の家屋が焼失し、ルメイの部隊は325機中14機を損失しただけ。
勝者が逆転していれば真っ先に戦犯指名に名が上がっていただろう。
しかし、何故かこの人物の名は日本でも知られていたんですね。
ただ、夢声の記述ではルメーとなっているが。
 
さて、今回は記事作成には疲れました。
残るは第7巻だけ。
最終局面を夢声はどう迎えるのか。
更に夢声の家と蔵書はどうなるのか。
余すところ2か月半。
乞うご期待。
 
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夢声戦争日記〈第6巻〉昭和20年 (前編)

 
さてと、全く苦心惨憺、何とか第6巻を読了。
今回は昭和20年1月から6月まで。
しかし、この本、実に読み辛い。
何しろ夢声先生、どういう訳か文章の送り仮名を平仮名とカタカナの両刀使い。
さらには死語となっているような漢字にルビも振ってないという始末。
または無数に出てくる知らない地域名と友達、それに俳句。
因みに私は会員数、20万人を超えるある読書クラブみたいなものに所属しているのだが第6巻まで辿り着いた、または読んだ人は僅かに3人しかいない。
これでは絶版になるのも頷ける。
ともかくも感想文は書かなくては。
 
余談だが、日本には天下分け目の合戦というのが三つある。
壇ノ浦、関ケ原、鳥羽伏見だが、ある面、本能寺の変も歴史の大きな転換点だったが、その何れをも上回る激動の年というのが、この昭和20年だろう。
明治以来、先人達が営々と築いてきた大日本国を礎から全て瓦解せしめ、日本全国が焦土と化し、開闢以来、未曾有の大惨事を招いた結果を東條首相以下、指導者たちは、あの世で明治の元勲、元老、元帥たちに、どう釈明するのか全くの見ものだ。
 
まあ、それはともかく20年元旦から常識的に考えて空襲があるのは必然。
雑煮など食べて寛いでいる暇はないぞというわけだ。
戦争に休日はない。
危急存亡の幕開けである。
昔からこの時代の記録はかなり読んできたが、何れも政治家、または軍人の立場からのもので、民間人の側からの記録というのは、あまり読んでいないだけに貴重だ。
故に、今回は感想を全編、後編に分けたい。
全編は1月~3月、後編は4月~6月までと。
 
さて、元日こそ米軍にとっては打って付けの空襲日和。
新年早々、いきなりお見舞いする訳だ。
まだ、除夜の鐘が鳴り止まない零時五分に警報発令。
そして三時頃の高射砲と半鐘で起きる。
それが、夢声にとっての年明け。
しかし、11日にはこんな事が書かれていて面白い。
 
「坊やに九九を教える。何回やらしても駄目だ。四・五、二十の次はと言うともう分
 からない。四・九、三十などと言うからがっかりさせられる。私も斯んなに出来な
 かったかしらと省みる」
 
全体的に夢声という人は是が非でもこの戦、負けてはならんという固い信念はあるようだが、日々の暮らしに於いては楽観的に過ごしているようにも思える。
この時期、夢声の関心は専らフィリピン戦線。
山下将軍は米軍を市街の奥深くまで引きずり込んでおいて撃滅してくれるだろうと予測を立てていたが。
2月2日、友人たちとの話では。
 
「B29は丸の内の上等建築は残しておいて、米軍の役所として使うつもりだろう」
 
と、既に敗戦を予想しているような語らいだが。
2月16日。
 
坊やは庭で嬉しそう、富士子は廊下の日当たりで小説を読んでいる、高子、明子は部屋に籠っている、静枝は奥で寝ている。
私は二階で「不惜身命」を音読し始める。
そこへラジオ放送。
関東東部に敵の編隊、京阪南部で空中戦、伊豆方面から侵入。
高射砲がドンドン、バリバリやり出したので見る。
敵機らしいのが南方の空に落ちる。
 
いつもの事だが、夢声はどこか花火大会でも見ているような気持ちなのかと毎度思うのだが。
2月21日。
 
「思いもよらず山田耕筰氏から電話あり。来る28日夜、警保局長、藤田嗣治、実業家
 等々などと、一杯飲まないか、という誘い、喜んで承知す」
 
と、至って長閑だ。
その山田耕筰に対する印象が実に面白い。
 
山田耕筰氏は日本音楽界の大御所であり、作曲家として抜群の頭をもっている人で
 あり、軍の勅任嘱託となった人であり、日本文化人の最高指導者である訳だが、そ
 の人が大真面目みたいにお稲荷さんを信仰しているのは、なんだかヘンテコな心持 
 ちにさせられる」
 
いくら、戦況が不利と雖も、そこはやはり民間人の日記。
日々の感想を書かずにおられないのだろう。
そして運命の3月10日。
歴史に残る東京大空襲
その日。
 
「みな度を失っている顔つき。いろいろ語り合った結果、浅草観音が焼けてしまっ
 たこと、白木屋が焼けたこと、海軍病院が焼けたこと、汐留駅に山積してあった
 疎開の荷が焼けたこと、神田は全部キレイに無くなったこと、洲崎まで焼け抜けた
 こと、浅草もほとんど無くなったこと、巣鴨のあたりも、この前焼け残った所が皆
 焼けたこと、等々で大変だ。
 本所、深川、浅草などでは、夥しい焼死者を出したらしい。防空壕に入ったまま、
 蒸し焼きになったもの、子供を抱いたまま、母親が焼けて腕が骨だけになったもの
 惨憺たるものだという」
 
私はよく想像するのだが、飛行編隊の爆音、爆撃の凄まじさ、大火災、阿鼻叫喚
地獄絵図、そんなことは到底現代では体験出来ないので、どう考えても想像の域を出ない。
ましてや、一晩で10万人が死ぬなんて、一体、東京裁判で言う「人道に対する罪」とは何ぞ!
まあ、勝てば官軍なる故、勝者は何十万人殺そうが誰1人罪に問われることはないわけだ。
 
3月14日の日記。
アメリカ側はこんなことをしていたんですね。
ある面、アメリカ人らしいユーモアがある。
「十五日には新宿に参ります」と敵がビラを落としたという。
 
3月18日。
叔父夫婦が出雲に疎開するにあたって叔母が言った一言。
 
「思えば長い青山じゃった」
 
と、落涙した叔母。
叔父67歳、叔母64歳、青山に住んで40年。
切実ですね・・・!
この時点で夢声の自宅はまだ焼け残っている。
夢声は家の事を心配しながらも慰問旅行へ出かけ、何があっても日本の敗北だけは相ならんという考え。
それもまた良く解る。
しかし、戦局は逼迫しベルリンには赤軍が迫り、硫黄島はいよいよ最終局面を迎えようとしている。
後半は明日ということで悪しからず。
 
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夢声戦争日記 第5巻 昭和19年 (下)

 
 夢声戦争日記、第5巻は19年7月から12月までの記述ですが、どうなんでしょうか、
10月頃まではのんびり生活しているようにも思えてしまうのですが。
当然の如く、同時代に書かれた日記などでは政治家は政局や国際情勢を、軍人は戦況を書くわけですが、我等が夢声は専ら慰問旅行、漫談、家庭菜園、俳句、古本買いと、あまり危機感が無いような様子をだらだらと読まされるわけで。
 
それにしても夢声は読書家。
一体、どんな本を読んでいたのか、その一例を羅列すると。
 
「山と水」黒岩涙香
「良人の自白」木下尚江
「江木千之翁経歴談」
「自分を語る」小島百蔵
「大独逸国民史」アインハルト
「ゲシタルト心理学研究」
「車窓から見た自然界」(山陽道
 
この年、夢声は51歳。
いや、難しい本を読んでいるんですね。
だが、しかし夢声は戦争の帰趨について無頓着であったわけではない。
8月26日の日記にはこのように書いている。
 
アメリカの言いなりになっていたら、日本はジリ貧で二流国三流国になって了う。
だからこの戦争は絶対に回避できなかった、と指導者は言う。
然らばジリ貧と全土玉砕といずれがよろしき。
大和魂から言うと玉砕がよろしとなろう。
生物学的に言うとジリ貧をとれとなろう。
 
一方、趣味の俳句は膨大な数に上る。
例えばこんな。
 
我武者羅に南瓜のたうつ藪の中
秋の蠅忽ちおこる吾が殺意
庭に遊ぶ目白の群や大晦日
空襲を待ちつ飲みけり大晦日
 
 
とにかく、日記には南瓜がやたらと出てくる。
そして、いよいよ本格的な空襲が迫り来る中、夢声一行は11月17日から慰問旅行へと出かける。
これがまた長途の旅。
静岡・岡崎・名古屋・豊橋・金沢・小松・福井・高岡・新湊・富山・岐阜・関・
土岐津・岡山・倉敷・福山、そして12月9日から19日まで小倉。
道中、宿泊先の料理の良し悪しから酒、待遇と、事細かく書いている。
だが、一行が出張中の11月24日、小松駅で買った新聞を見るや。
 
「B29八十機帝都空襲!」
 
やっぱり来やがったな、と思う。大した感動もない。
杉並区の吾家は如何?、妻は如何?、などチラチラ考えてみるが、あまりピンと来ない。坊やの姿だけ一番はっきり浮ぶ。
なァに、私の家は大丈夫さ。
 
と、感想を述べているが、押しなべて国民の意識とはこのようなものだったのだろうか。
妻からも手紙で家の近くに爆弾が落ち、誰々が死んだの、あそこの家が焼けたのと言ってきているが、夢声はどうも「ピンと来ない」らしい。
あちらこちらで爆弾が落とされたという話しを聞いても実感が伴わない。
出先の本人は「風呂あり更に酒ありと聴いては、もう言うところなし」と平気の平太を装っているが。
あまり悲観的にならない証左としてこのように書いている。
 
人間の思想斯の如し。
平静なる時、興奮せる時、悄然たる時、同じ人間が同じ日の中に、幾度か変転する。
一椀の飯、一杯の酒、寒暖五度の差よく思想を左右する。
平静なる時の思想を当人の思想とすべきか、あらゆる場合の最大公約数をを当人の思想とすべきか?
 
なるほどね、置かれた状況によって人は態度を一変す、ということか。
また、こんなことも書いている。
俳優の滝沢修治安維持法だったかで逮捕されたことがあったが、滝沢は日記を付けていたため、これが証拠になって有罪になった。
しかるに、自分の日記も場合に拠っては災いになるやも知れぬと。
そして、いよいよ12月22日、小倉発東京行の帰京となるが。
 
門司駅で海軍の人たちが乗り込んで来たのをきっかけに、この列車は殺人列車となる」
とあり。
「やりきれなくなって吾等三人は広島で下車」
なんと、8時間立ったままであったとか。
トイレにも行けず、停車駅では窓から人が出入りする混雑さ、戦後のあの混乱期によく見る光景と同じ現象が早や始まっていたのだろうか。
子供の頃、父がよく私を列車の窓から中に投げ入れたのは、これの名残りか?
 
「藤沢で私のいる所の窓から、十人あまり人が飛び込んで来る。若い女二人、婆さん
 一人も転げ入る」
 
この時期、空襲により東海道線のあちこちで列車の遅れが相次いでおり、このような惨状となった模様だ。
そして帰宅後の12月27日。
 
「早い昼飯を喰ってると、空襲警報が出た。初めて出っくわす本格の空襲なり。
 ラジオの刻々と知らせるところを聞いてる中、うわッ、こいつ却々凄そうだぞと
 思う。なんだか交響曲の序曲を聞いているようだ」
 
と、他人事のようなことを言っているが、更にこんな独白もある。
 
「正直のところ、今日の空襲は面白かった。B29の編隊は美しい。味方機らしきもの
 三機落ちるのを見た。敵機らしきもの二機落ちるのを見た。敵機だと思って見て
 いる中に、落下傘で二人降りて友軍機と分かる。十五時半まで息もつけない面白
 さだ」
 
と、まるで映画でも見ているような塩梅だが。
家族はと言うと。
 
「この日の吾家で一番怖がったのは高子で、坊やは無闇に見学したがり、富士子は
 平気、静枝も平気である」
 
対岸の火事でも見ているような気持ちなのだろうか。
人間は破壊を見ると興奮するような習性があると聞いたことがあるが、その類か?
夢声は、空襲で家が焼ける可能性もあるのに、こつこつと古本を買うのは何のためかと自問自答しているが、帝都が空襲下に晒される事態をどう思っていたのか。
普通なら、いよいよ戦局が逼迫してきたと察するのは当然。
敗戦は絶対避けるべしという信念は持っていたが。
年明け、運命の昭和20年となるわけだが。
 
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夢声戦争日記〈第4巻〉昭和19年 上

 
夢声日記、第四巻は昭和19年元旦から6月までなのだが、長編日記を読むと言うの些か難儀なものである。
ではと、この時期、戦火はまだまだ本土からは遠く、夢声は日々仕事に追われ、各地を慰問旅行しているばかりで、戦況の様子は分かりにくい。
既に食料難の時期到来で、行く先々の旅館で食事が上手いか不味いか、又は珍しき物かなどと何度も書いているが、夢声はかなり酒好きと見える。
 
全体的に多く所見できるのは酒と俳句と古本である。
とにかく道中、何処に行っても句作を絶やさないが、どうも名句というものがない。
読書に関しては殆どジャンルを問わず読んでいるようで、この知識が各地での講演や漫談に役立ったものなのか。
古川ロッパの名がよく出てくるが、あのロッパの膨大な日記も同じ時期に書かれていたかと思うと興味深い。
 
確かに記述にはあまり戦争の事は書いていないが、日々、戦況がどうなているかは新聞で読んでいたようで、本人としてはこの戦争に絶対、負けるわけにはいかないという固い信念は感じる。
一方、女子供はというと、日々、防火訓練や隣組の仕事で忙しくしているが、戦争の行方をどう考えていたのかは判然としない。
ただ、早く戦争が終わってほしいと言うのみだ。
 
人間、誰しもそうだが経験したことのないことは容易く想像できない。
まして情報が発達していない当時にあっては猶更だ。
第一、日本が外国軍の侵攻にあったのは北条執権の時代まで溯らなければならないわけで、日清、日露、満州事変、日華事変と戦争はみな大陸で行われ、敵軍上陸や空襲などは、どうも実感が伴っていないように感じる。
家庭内はまったく何の変哲もない日々の生活に従事し、言ってみれば読むに値しない事柄ばかりが続く。
例えばこんな記述。
 
3月7日
 
それ鼻をかめ、それ姿勢をよくせよ、ひっきりなしに妻は坊やを注意する。
それを聞いていると、私は焦々してくる。
坊やにも腹が立つ。
しつけという事は必要であるが、妻のやりかたは、ガチャガチャと五月蠅い。
叱られているときの坊やは、甚だ愚かな児に見えて、それも情けない。
叱っている妻の声は実に情味のないガサガサ声で、なんだって、こんな声の女を妻にしたのかと思うくらいだ。
私が死の病床にある時、この声で何か言われるかと思うと甚だ憂鬱である。
 
と、一体、夫婦間の愛情はどうなっているのかと心配になるが戦争はどうなっているのかと、つい思ってしまう。
さらに5月29日にはこんなくだりもある。
 
私が横丁から現れるのと、運送屋の犬がやってくるのと、丁度ぶつかった。
犬はギョッとした様子で立止まり私を見つめる。
この犬の父親は人なつこい犬だったが、さきごろ死んで了った。
犬は頻りに私を観察しているようだ。
私は声をかけて、笑い顔して見せた。
犬はニコリともせず、私をマジマジと見ている。
私は陸橋工事のある方を眺め、そしてまた犬の方を見る。
 
犬は同じ表情で私を見つめている。
私は可笑しくなって、また笑った。
犬は何んデエ面白くねえやという顔をしていたが、何か結論を得たらしく風呂屋さんの方へ、さっさと歩いていった。
一度もふり返らず横丁を曲る。
 
と、なんだか長閑の朝を迎えている。
確かに空襲警報が発令されたり解除されたりで戦時下にあることは分かるのだが、悲壮感なり切迫感が足りない。
新聞等で戦局が思わしくないことは伝わってくるが、まさか今後、開闢以来、未曾有の大惨事が待ち受けようとは思っていないようだ。
が、いざという時には死の覚悟は出来ているようで日本人としての矜持は失っていない。
しかし、庭いじりや書斎の拡張、読書と読んでいるこちらが、注意を喚起したくなる。
 
ただ、2月22日の新聞にある、東條首相が参謀総長兼任、嶋田海相軍令部総長兼任にはかなり驚いている。
はてさて、次回はいよいよ、19年後半になる。
風雲急を告げるとはこの事だが、どうなることやら。
 
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夢声戦争日記〈第3巻〉昭和十八年

 
さて、第三巻である。
はっきり言って民間人の日記を読むというのは、あまり面白い作業とは言えない。
ひとつには知らない人が無数に出てくることにもある。
戦時中ということを考えれば軍人や政治家の日記の方が戦況や政争でこちらも一喜一憂するが、いくら高名な文化人、徳川夢声と雖も所詮は市井の人。
 
実は、何故、この本を読むことになったのかには理由がある。
以前、ブログにも書いたが、ある古本市で『夢声戦争日記』の全巻が単行本で売っていたのを見たのをきっかけに読書欲がわき、いつか、文庫化されたものを見つけたら読んでみようかと思っていたのだが、その前に一つの疑問を晴らしたく誰か徳川夢声か、この日記に興味を持っている人に質問してみようとかねがねネット検索していた。
で、ようやく見つけた人に早速、質問を投げかけてみた。
凡その答えは予想していたのだが、まったくその通りの答えが返ってきた。
 
質問 「昭和52年の発行以来、なぜ文庫版での復刊はないのか?」
返答 「出版元も商売ゆえ、読まれもしない本を再販することはない」
   「第一、現在では徳川夢声そのものを知らない人がいる」
   「故に今時、この日記全巻を読む人はよっぽどの物好きである
 
と、云われちゃ、読まずにいられめえ。
と言うのが私の結論だった。
ところで全七巻中でこの三巻目が一番長い。
昭和18年元旦から師走までを書いている。
まあ、しかしどうだろう。
前回も書いたが今回も戦争日記というよりは「花鳥風月日記」とでも言った方がお似合いかも知れない。
 
夢声漫談家にして俳優、そして文筆家。
故に各地への慰問や興行、ロケと全国を周り仕事には恵まれた生活を送っている。
しかしこの人、俳句好きと見えて列車での長い道中、句作に熱中し、その作品が全て載っている。
また、それぞれの土地で見た植物や食べ物。
そして大の酒好きでもあり貪欲な読書家。
今から思えば初めから夢声が古本屋で買った本を書きとめておけば良かったと思うほど、かなり難しい本も読む。
夢声、この年、50歳。
 
戦争に関する記述は新聞で読んだことなどちらほら書いている程度。
昭和18年では、まだ国民の中には敗戦という意識は薄いようだ。
人間、誰しも経験したことのない事は想像の範囲を出ない。
まして敗戦という経験を持たない日本人にはその実感がないのは当然とも言えるかも知れない。
何がなんでも勝たねばならぬとみんなが思っている。
 
18年の元旦はクアラルンプールで迎えた夢声は1月12日、帰国船の中での模様をこのように書いている。
 
「捕虜のオランダ兵たちは夜になるとコーラスをやる。それが実に見事なので、日本の帰還兵たちも、思わず喝采せずにいられない。大体、十数人でやるらしいが、ソプラノ、アルト、バリトン、バスと完全に揃っているのである。ギターの伴奏だけが入るのである。真っ暗闇の中で、私たちも朝鮮人の一行も、日本兵たちもシーンとなって聞きいる。私は、涙が出てこまったが、暗いので誰にも見られない」
 
呉越同舟の中にも感動はあるのですね。
しかし、この年、夢声を驚かせることがいくつかあった。
まずは連合艦隊長官の山本五十六の戦死である。
そして5月にはアッツ島の玉砕。
 
「山崎部隊長が、いかに苦しくなっても一兵の増援、一発の弾丸の補給も願わず突撃。傷病兵はみな自決」
 
ムソリーニの失脚にも驚いている。
10月27日の夕刊で「中野正剛氏自殺」の記事にもショックを受ける。
文面からすると、前日、中野が憲兵隊に拘束されたことを知らない様子だ。
だが10月30日にはこんな記述もある。
 
「往きも帰りも、京王電車の大した混みよう。競馬行きの客で息も止まりそう。
 競馬に夢中になっている人の顔を見ると非国民に見えて仕方ない。喰うか喰われるかという大戦争をやっているのに、この連中はまあ一体、如何なる所存なのか」
 
11月19日には。
 
「舞台から灰田勝彦が下りてくる。近頃若い女たちが大騒ぎをする。この男の顔をしみじみ眺めたが、どうも私には好さが分からない。顔色は悪いし、眼は細いし、痩せてはいるし何所がそんなに好いのか分からない」
 
昔も今も若い女性の気持ちは変わらないのですね。
そして問題の12月9日。
東京駅は学徒出陣の朝でごった返していた。
 
「間もなく到着する列車は、団体専用車ですから、一般の方は御乗りならないで下さい」
 
とアナウンスされ、列車が到着すると大学生たちは続々と乗り込む。
 
「見送りは、かたく禁じられております。見送りの方は即刻御帰り下さい」
 
無情のようにも聞こえるが、もし、見送りを許したらホームは大変な状態になる。
これが今生の別れになるやも知れぬと思ったら双方涙なくしてはおれまいに。
その一部始終を見ていた夢声は思わず感極まって万歳を叫んだ!
そして昭和18年は終わって行くが競馬だ灰田勝彦と騒いでいる間も南方戦線では死闘が繰り広げられているわけで、果たして翌年の国民意識はどう変わっていくのかはまたのお楽しみ。
 
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夢声戦争日記〈第2巻〉昭和17年 下

 
 
さて、夢声戦争日記第2巻は昭和17年7月1日から始まる。
しかしである、徳川家では一向に戦争の気配が感じられない。
前編はまるで「夢声菜園日記」と見紛うような書き出しで、花が咲いた、アオガエルが来た、子供がトンボを捕まえたと何の変哲もない。
 
事態が動きだしたのは10月頃からで、昭南、つまりシンガポールを中心に東南アジアへ男女合わせて14人ほどが、慰問団として派遣されることになった。
団員は軍属ではないので慣れない船旅とあって不満が横溢している。
風呂は湯水を替えないので小便、大便が浮いている始末。
寝台は二段ベッド、狭いスペースの中だけが自分のテリトリーとある。
 
仕方なく碁を打ち、句会を催し、読書に耽る。
それにしても夢声という人はかなりの読書家で尚且つ読むのが早い。
とにかく私なら到底無理な船旅だ。
寒暖の差もさることながら敵潜水艦の攻撃が全員の悩みの種だった。
当時の噂ではやられる確率は三割五分。
 
攻撃は専ら夜が多い。
更に危険水域というのがあり艦内に連絡が入ると全員、魚雷命中に備えてパジャマではなく普段着のままで寝る。
上手くいけば海中で救助を待つことも出来るが問題はサメである。
勿論、護衛として駆逐艦がいるが、こんな状況では生きた心地がしない。
 
更に敵に発見されず、何処かの港に着いてもなかなか上陸許可が下りないといつまでも艦内に缶詰となる。
やっと上陸許可が下りても次は出航許可が下りない。
敵潜水艦の攻撃を受けたという連絡が入るといつまでも港に係留されたままになる。
そして遂に夢声は体調を崩し入院、胃癌も疑われ慰問団とは別行動になる。
因みに当時の南方軍最高総司令官は元帥寺内寿一大将である。
 
しかしまあ、艦内の食糧事情は酷い。
毎日、似たような物ばかり出る。
中でも団員を悩ませたのは鯨肉だ。
10月27日の日記にはこのような記述がある。
 
船に乗り込んでから、二週間、一日として鯨肉の出ない日はなし。
一行大いに悩まされて右の如き替唄など作り、合掌して鬱憤を晴す。
その効き目にや、翌日から数日間、鯨が出なくなりたるは可笑しかりし。
 
夢二の宵待草の替え歌になる。
 
まてどくらせど出ぬ肉の
あのナマグサのやるせなさ
今宵もクジラが出るさうな
 
全く笑える!
ところで夢声は至る所で日本人の所業を怒っている。
ある日本人の女性タイピストが英人捕虜を呼んで自分の靴を脱がせている場面。
 
「何を偉そうに」
 
と憎々しく思っていれば女衒によって連れて来られた何も知らない若い日本女性を気の毒がっているし。
際たるものは山下将軍と敵将パーシバル中将との会見。
私もあの場面は何度も見たが山下大将がテーブルを叩いて恫喝しているような映像はこのような遣り取りから来ている。
 
山下「只今御使いを戴いたのでここに参ったが、我軍は無条件降伏にのみ応ずる。
それについて承知か不承知かの返事だけを聞きたい」
 
パーシバル「翌日返答する」
 
山下「翌日とは何か、日本軍は今夜、夜襲をしますぞ、YES OR NO!」
 
場所はフォード工場となっているが実際、夢声はこの場所を訪れ、頭から怒鳴りつけた山下将軍の態度は、甚だ嫌であったと回想している。
確かに左右の幕僚をかえりみるパーシバルの表情は途方にくれたようで同情する。
つまり、夢声は、あそこまで怒鳴らなくてもと言いたいのだろう。
ともあれ一行は12月29日、マレーシアのクアラルンプールに到着し旅の疲れを癒やす。
そして第3巻は18年元旦からということになるわけだ。
まだまだ旅は長い、暫く付き合わなければならない。
 
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