居眠り狂志郎の遅読の薦め

喰う寝る読むだけの素浪人です

二枚目の疵 長谷川一夫の春夏秋冬 矢野誠一


私には長谷川一夫に対して以前から三つの疑問があった。
 
時代劇の七剣聖と言われる大河内傳次郎 · 片岡千恵蔵 · 嵐寛寿郎 · 阪東妻三郎     市川右太衛門月形龍之介、そして長谷川一夫
後輩の大川橋蔵中村錦之助東千代之介市川雷蔵、大友柳太郎、近衛十四郎など全員が時代劇スターらしい芸名なのに長谷川一夫だけが何故に普通の名前なのか。
 
戦前、何かの諍いで長谷川一夫は頬を剃刀で斬られているが理由はなんだったのか。
 
名優揃いの時代劇スターの中にあって何故、長谷川一夫だけが国民栄誉賞に輝いたのか。
 
ただ、それを知りたいがために読んだような本だったが実情はそんな甘い内容のものではなかった。
確かに上の三つの疑問は解けた。
がしかし、元々、歌舞伎上がりの長谷川一夫は出世と共に会社、スタッフ、脚本家
共演者とずらり一流どころが出揃い、芸事百般、和芸、当代随一の人と仕事上の交流を紐解かれては門外漢の私には手も足も出ない有様で疲労困憊。
 
何しろ歌舞伎俳優は何代目尾上菊五郎なんて言われてもさっぱり解らず、無数の登場人物と無数の演目。
これでは素人の私はお手上げ状態だ。
それでも歯を食い縛って読むしかない。
尚且つ、今から本題の読書感想文を書かなければいけない。
何の因果でこんなことをやっているのやら・・・・(汗
 
さてと、長谷川一夫のデビューだが大正2年、北陸路をまわっていた中村鶴之助という一座から子役が逃げ出したことによる代役として白羽の矢が一夫に当たったというものらしい。
当時、一夫はまだ5歳。
時代は目玉の松ちゃんこと尾上松之助の全盛期。
 
以来、変転を経て大阪の成駒屋初代中村雁治郎の下に預けられたのが10歳の時。
入門先は雁治郎の長男、林長三郎。
芸名は林長丸となった。
ところで年配の方なら知っていると思うが人間国宝で、中村玉緒の父、中村雁治郎は初代の次男で二代目ということになるらしい。
 
林長丸となって歌舞伎の稽古に精進する中、飛び込んで来た話しが松竹社長からの
「キネマの話し」
師匠の雁治郎の話しでは「兵隊検査まで」というのが条件だった。
当時、映画俳優は歌舞伎役者に比べ格下と言われていただけに長丸のショックも大きかったようだが師匠の命令とあっては致し方ない。
名前も林長二郎と改めデビュー作は『稚児の剣法』、後に雁治郎の娘と結婚するだけあって雁治郎の期待の程が伺われるし、女形としての才能は抜群で将来を嘱望される歌舞伎役者になるはずだったが。
 
ところで私も知らなかったが林長二郎のクローズアップは全て左向きで、その謂れは斯くのごとき。
大正6年7月14日に「活動写真興行取締規則」なるものが発令された。
それによると、映画館の客席は男女別にされ夫人席はスクリーンに向かって左席。
であるからして天下の二枚目、林長二郎のクローズアップは左向きであらねばならぬというわけである。
左向きからの流し目に女性が見惚れたのだろうか。
 
林長二郎が松竹社長の媒酌で雁治郎の娘、たみ子と結婚したのは昭和5年
事態が動きだすのは昭和10年2月、雁治郎逝去の時からである。
殆ど財産を残さなかった雁治郎を見て林長二郎は松竹への不信感を抱くようになる。
今や松竹のドル箱スターになった長二郎をこのまま映画スターとして抱え、歌舞伎の世界には戻さないという会社側の考えに一層不満を募らせる長二郎。
囁かれていた中村雀右衛門、中村雁治郎襲名の話しもすべて夢と消える。
 
第一、給料の額からしてそぐわない。
阪東妻三郎の3000円は仕方ないにしても、片岡千恵蔵が1500円、大河内伝次郎
1000円、そして林長二郎は200円。
空前の大ヒットとなった『雪之丞変化』で潤った松竹だったのにである。
そこに目を付けた東宝は総帥の小林一三自らが出向き長二郎を落とす。
余談だが東宝とは東京宝塚劇場の略だったんですね。
知らなかった。
 
怒ったのは無論、松竹と中村一門である。
「芸名返還通告文」というのを送りつけて来た。
宛名は本名の長谷川一夫殿である。
 
今般、貴殿が、多年、貴殿の育成し今日あるを致し下されたる大恩ある松竹に対して何等言ふ可べき理由もなく離反し、東宝の傘下に走せ加はりたる行動に対して、深甚なる考慮を求める。
茲に劇界廓清浄化の為、又、亡父雁治郎門下、一同の面目のため、拙者は師匠として貴殿を破門すると共に、林長二郎の名の返上を求めるものである。
 
これで第一の疑問の謎が解けたわけだ。
長谷川一夫は本名だったんですね!
さてと、話しはまだ続く。
 
正式に東宝に移ったのは昭和12年10月13日で松竹の在籍期間は足掛け11年。
東宝第一回作品は『源九郎義経』と決まり、そして問題の11月12日、撮影を終え、化粧を落とした長谷川は護衛と付き人を連れての帰宅途中、時間は6時になろうとしていた頃、戸の鍵を開けようとしたその時、後ろから声を掛けられた。
 
「林さん」
 
と振り返る間もなく頬に激痛が走る。
左目の下から一文字に切りおろされた。
自慢の左頬を切られたのである。
凶器は安全剃刀を二枚重ねにしたもので一見して素人の犯行ではないことを伺わせていた。
傷口がざくろの様に開くことを想定しての犯行で場合によっては役者生命を絶たれる程の重症になった。
痛々しい当時の写真がある。
 
 
それを伝える京都日出新聞記事。
 
映画人風脱兎の怪漢
左頬をさっと一抉り
東宝京都撮影所前の兇行
 
そして11月25日、警察に召喚されたのは何と当時松竹系新興キネマ常務取締役の永田雅一だった。
戦後、大映社長として辣腕を振るい政財界にも顔を効かせたあの永田雅一である。
松竹から永田に1000円という金が渡り、この本に拠ると永田はその昔、千本組という裏社会との繋がりがあり、永田と一緒に逮捕された松竹の用心棒から、
 
「長二郎問題は私がなんとかしましょうか」
 
と持ち掛けられたとあるが。
下手人は中島こと金成漢なる人物。
つまり松竹、永田らが仕組んだ林を東宝へ引き抜かれたことへの意趣返しということになるわけだ。
これで第二の謎も理解出来た。
 
そしてだ、永田はその後の昭和17年大映を設立して社長になる。
長谷川は東宝で10年世話になった後、『新演技座』を自ら旗揚げして独立すし念願だった舞台に復活。
松竹歌舞伎ではなく、東宝歌舞伎で。
しかし、膨大な負債を抱えて昭和27年解散に追い込まれる。
その負債の肩代わりをし大映の看板スターとして迎え入れたのが何とまたしても永田雅一社長だったわけであると。
結局、この二人は先の恩讐を超え相携えて戦後映画の黄金期を支えたわけだが、奇妙なことに二人は死ぬまで事件のことは一切話し合わなかったらしい。
 
ところで、長谷川一夫が36年君臨した映画界から退いたのは昭和38年。
奇しくもこの年からNHK大河ドラマが始まっている。
第一回放映は舟橋聖一原作の『花の生涯』、そして翌年が『赤穂浪士』になる。
芥川也寸志作曲のテーマ曲もよかったが何と言っても長谷川一夫主演は素晴らしかった。
聞くところによるとNHKスタッフは是が非でも長谷川さんにと懇願したらしい。
何しろこの当時のテレビ産業はまだ電気紙芝居と演劇界では蔑まれていた頃だったので「長谷川さんに出てもらえば」というNHK側の思惑も分かる。
 
因みに私はこの大河ドラマによって初めて長谷川一夫赤穂浪士とは何かを知った次第で歴史ファンになる原点だったと言ってもいい作品だった。
原作は大佛次郎、憎まれ役の吉良上野介滝沢修
 
最後に第三の疑問。
芸道36年、常に一流を目指し精進してきた長谷川一夫
初演時の『ベルサイユのばら』の演出をしたのも長谷川一夫である。
並み居る芸人の頂点に立った長谷川一夫、私の知る長谷川一夫は、その最後に大輪の花を咲かせた大石内蔵助だったのかも知れない。
そして国民栄誉賞に。
 
追伸
先代、つまり17代目、中村勘三郎とは仲が良かったようだが八代目、松本幸四郎とは馬が合わなかったような。
今回も長文駄文失礼しました。
 
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