居眠り狂志郎の遅読の薦め

喰う寝る読むだけの素浪人です

流れる星は生きている 藤原てい

 
物語は、何の脈絡もなく突然、昭和20年8月9日夜10時半頃から始まる。
ドアを激しく叩く音で起きた藤原夫婦。
 
「藤原さん、藤原さん、観象台の者です」
 
夫と二人でドアを開けると。
 
「あ、藤原さんですか。すぐ役所へ来て下さい」
「一体何ですか」
「何だかわかりませんが、全員を非常召集しているのです。ではお願いします」
 
この日付を見れば、直ぐ読者には何が起きたのか解る。
ソ連軍が対日参戦したのである。
 
蒼白の顔を極度に緊張させ帰ってきた夫は別人のように言った。
 
「一時半までに新京駅に集合するのだ」
「えッ、新京駅にですって!」
「新京から逃げるのだ」
「どうして?」
 
映画的に言うなら、この日を境に、日本史に類例を見ない民族大移動が始まる。
満州国の崩壊、宣統帝の脱出。
虐殺、レイプ、略奪と辛酸を舐める事になる海外在留邦人660万余の大逃避行。
ソ連軍侵攻で脅える一般民間人婦女子。
規律の緩いソ連兵の毒牙に懸かって自決する夫人も出る中、居留民の恐怖は如何ばかりだっただろうか。
 
これは、自らが体験した逃避行の一部始終を書いて戦後、大ベストセラーになった
藤原ていのノンフィクションドラマ。
藤原てい、即ち、作家新田次郎の妻である。
これを一読するに、当時の鈴木内閣が、如何にポツダム宣言受諾に苦慮したかが伝わってくる。
作中には何ら政治向きな事は触れていないが、終戦秘史と言われる文献など読んでいると、内閣が憂いている問題がいくつかある。
 
・和平派内閣打倒のクーデター計画
・日本軍の武装解除
・海外在留邦人の無事帰還
・国体護持
 
そんな中での原爆投下とソ連参戦。
一刻の猶予もならんとはこのことだ。
軽装で落ち延びようとする避難民に襲い来るソ連軍、国民党軍、そして八路軍
各地で起こる虐殺事件。
 
運命の8月15日夜、女たちは極度の緊張を強いられる。
外地で敗戦を迎える恐怖。
何かが起きるという予感。
因みに藤原夫婦には二男一女の幼子が居る。
 
軍と違って一般在留邦人は職場単位で纏まり団という組織で行動したようだが、この非常時に、なかなか統率が取れない旨、事細かに、いろいろ事例を出して説明しているが、それらがまたドラマ仕立てで滅法面白いと言っては語弊があるか。
とにかく緊張感を孕んでいるのでこちらもつい惹き込まれる。
著者は書く。
 
「運命の8月24日、かくて38度線を境として交通は遮断され、私たちは茫然と旅支度
 のまま立ちすくんでしまった」
 
さらに、その夜。
18歳以上40歳までの日本人男子全員が汽車で平壌へ行くよう命令が下る。
男子は収容所送りと決まり、女たちは夫を取られ、幼子と共に泣き崩れるしかない。
どうだろうか、この場面、夫との今生の別れになるやも知れぬ、それどころか、今後、どうやって女子供だけで生きて行くのか。
夫、新田次郎は・・・!
 
「直接故郷へ帰るように、子供達のことを頼んだよ」と言って駅へ向かう。
 
中には!
 
「お父さん、お父さん」と叫ぶように泣いていた、14歳の美しい少女は母親が止めるのも聞かずに父の手にすがりながら丘を下っていった。
 
残された観象台疎開団のメンバーは男1人、女18人、子供20人。
まったく絶望的な状況でありながら、極寒の冬の到来、住居、飢え、薪集め、仕事、
更には恐ろしい発疹チフス、風邪、高熱、肺炎、虱。
さて、避難民の最大の関心事は当然、内地への帰還。
外地にあって「日本人会」を作り、団の代表者が連日のように会議に趣き、今後採るべき対策が練られていたようだが、団からの離反者、諍い、独断行動と帰還の目途が立たない、ある日の会議。
 
大きな朝鮮地図が拡げられ、38度線が地図を南北に両断している。
この地図の周囲に20名ぐらいの男女が真剣な顔で並んでいる。
本部の田中さんがマッチの軸を取って説明を始める。
「新幕まで汽車で行ったとして、それからもし鉄道線路に伝わって歩けば開城まで直線距離にして55㌔あるから、実際歩いて70㌔はあるでしょう。
新幕から西へ行くとすぐ山にぶつかって駄目。
東に廻ると新渓にまで25㌔、ここから山の中をさらに40㌔南下すれば開城につく。
 
意見がまとまらないまま、7月15日、突然15名の日本人が宣川を出発して南下。
この情報と共に、全ての日本人は仕事を投げ出し、南下することのみに狂奔するようになった。
 
以下、どういう状況だったのか、その後の事をところどころ引用する。
 
「老人、子供は途中で大概死んでしまう」という情報ある中での出発だった。
 
一団は汽車で新幕に到着。
その後、横殴りの雨の中、闇夜の中を強行軍。
 
「しぃッ」
「これから最も危険の場所を夜中歩きます、出来るだけ荷物を軽くして前の人を見失わないように急いで歩くのです。直ぐ出発します、直ぐ出発しますよ」
 
「逃げるんだ、逃げるんだ、逃げ遅れると私たちは殺される」
私は38線まで、こう心を𠮟咤しながら歩いた。
 
「正広(5歳)なにをぐずぐずしている!」
「正彦(3歳)泣いたら置いてくぞ!」
「馬鹿、そこで死んでしまいたいか」
 
そして背中には1歳(咲子)の娘。
 
1年間助けたり助けられたり苦労を共にして来た私たちの観象台疎開団は、眼の前で二つに分裂して涙もなく、挨拶もなく、出ていくものはことさらにつんとして、送るものは出来るだけ非難と侮蔑の眼をもって送ってやった。
汽車の走る音を聞きながら、私は後に残って立派にこの団をひきいて引き揚げて見せると、火のように思いつめた。
 
このような状況に置かれて、最良の選択などあるのだろうか。
自分勝手と言われようがどうしようが、それぞれ自己の選択に従うしかないのかとも思うが。
とにかく、邦人は一路、平壌を目指したようだ。
しかし、その先はというと誰にも分らない。
あとは運命に任せるしかないと言っている。
 
食料は大豆の豆ばかり。
一滴の乳も出ず、最後の時が来たら、紐で子供たちの首を絞め自分も死のうと思っていたと。
 
「あの山を、あの山を」
「母ちゃん、歩けない」
 
いつの間にか、ていと正彦は靴を失い裸足での逃避行。
足裏の肉は裂け、その中に砂利が入り悲鳴を上げながら、それでも逃げなければならない。
途中、脱落して死んでいく者。
発狂する者。
それを横目に尚、進まなければ。
 
「痛い、痛い」
と泣く、正彦を、蹴とばし、突き飛ばし、引っ叩き、皆に遅れないよう狂気のように山をの登る。
咲子は背中で引っ切り無しに下痢をする。
それを追ってハエが集る。
 
幾つもの川の渡河。
前の人を見ながら川の深さを目測する。
子供達を交互に抱いて3往復、胸まで浸かる水をかき分けながら裸足で踏ん張り、横抱きにし、子供は恐怖のあまり「ヒーヒー」と叫ぶ「泣くのじゃない」と言って叱る。
 
まったく、母は強しだ。
そして!
 
「あっ、38度線が見えた」
 
日本人が呼び合う。
 
「ここまで来て、死んじゃだめだぞ」
 
38度線を超えたところでアメリカ兵に救出され、トラックに乗せられるが、みな栄養失調、そして怪我と病気でやせ細り、衣服も着の身着のまま。
昭和21年8月11日。
 
「もういいんだ、助かったんだ、生きて来たんだ」
 
しかし、釜山まで4日間の汽車で食べたのは4人家族でリンゴ12個。
あとは水ばかり。
引揚げ港、釜山に着いたのは8月26日夕方。
 
多くの貴重な場面は当然割愛したが、この本は引揚げ者のバイブル的な本ではないだろうか。
体験者本人が書いているのだから。
中にはこんな場面も出てくる。
不衛生な水などを飲んできたため子供たちは鮨詰めの列車の中で下痢をする。
すると換気が悪い車内は悪臭が蔓延する。
当然、あちこちから苦情がでる。
洗うわけのもいかず、替えの下着もない。
 
雨の中で眠り、足は化膿し、物乞いのような生活を余儀され、泥塗れになった衣服だけが全財産。
作者は言っている。
なぜ、こうまでして生きて行かなければいけないのか。
いっそ、子供達を全員殺し、自分も死んだほうがましだと。
 
いつか、何かで読んだ、川の中に子供を沈め殺したというのは、この38度線を前にした光景だったんですね!
一体、どれだけの人が命を落としたのか。
これほどまでに日本人の運命を変えた8月15日。
 
終戦内閣としては一刻も早く宣言受諾をしたい。
しかし、苦渋の決断だったことも良く解る。
敗戦に伴って起こり得る悲劇を考えれば、将に断腸の思いだっただろうに。
更に鈴木内閣を苦しめたのは、宣言受諾後にクーデターが起き、更にそれが成功した場合、一体、国内はどうなってしまうのか。
抗戦派が政権を奪取すれば、もう後、残された道は一つしかない。
そうなっては滅亡ではないか。
 
いやしかし、死も間近と言われた咲子さんも助かり、夫、新田次郎は妻帰国の3か月後に帰還し、家族全員が生きて帰れた奇跡。
戦後、新田次郎は、妻の出したこの本に刺激を受けて作家生活に入ったそうな。
ところで、こんな記述もあるのだが。
 
真冬の1月頃、正彦のおしっこをさせようとすると、寒さのために萎縮しきっているのでお小用が真っ直ぐ前に行かないで困ったことがあった。
「ほんとに困ったは、こんなにちっちゃくしなびちゃって」
私がこんなことを言うと、すぐ傍にいた成田さんが、
「大丈夫ですよ、奥さん。僕がね、町の銭湯に行ったとき、アレがとてもちっちゃい 
 人がね、立派な子供さんをね三人も引き連れて入って来ましたよ。心配しないでも
 大丈夫ですよ」
これを聞いて、女たちは爆笑した。
おかしさが後から後から込み上げて来て、どうしても止まらないで困った。
 
避難生活の中でも面白いことがあれば人間笑います。
掃き溜めに鶴のような話しでしょうか。
最後にタイトルになっている『流れる星は生きている』とは。
終戦間際に亡くなった二人の兵士が作ったものだとか。
それを何度も聴いているうちに覚え帰った記念の歌らしい。
三小節からなる歌の三番。
 
私の胸に生きている
あなたの行った北の空
ご覧なさいね 今晩も
泣いて送ったあの空に
 
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