愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

塞王の楯 今村翔吾

その昔、滋賀県の大津に2度行ったことがある。一度目は27歳ぐらいだったが、何気なく狭い通りを歩いていると、明治24年5月に起きた「露国皇太子遭難之地」の石碑に出くわした。この事件に関してはそれ以前から知ってはいたが、あまりの偶然にビックリした。想像していたより遥かに狭い道幅で、当時、ここを人力車で走るには一車線の広さしかない。両側には巡査が整列して警護に当たっていたが、その中の一人、津田三蔵が皇太子を切りつけ、明治天皇がお見舞いに行くほどの大事件になった。その現場から東に琵琶湖まで突き抜ける辺りに大津城跡がある。迂闊なことに本作を知るまで関ヶ原の合戦が起こるその日まで、大津城の籠城戦があったことを知らなかった。琵琶湖東の城といえば光秀の坂本城が有名だが、大津城は石垣を積む職人集団・穴太衆(あのうしゅう)の塞王といわれる名人匡介と、それを攻める西軍側は毛利元康を大将とし、それに立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら九州方面の諸大名を中心とした総勢1万5000人の軍勢に、国友彦九郎が頭となる鉄砲職人の集団・国友衆。慶長5年9月7日より大津城に対して包囲攻撃を開始。最強の矛といわれた国友衆と最強の楯といわれる穴太衆の戦い。ここに矛盾が生じるわけで、そのドラマチックで関ケ原の運命を分けた籠城戦。あと二日ほど前に落城させていれば毛利元康ら西軍は関が原に向かっていただろうに、地団駄を踏む結果に終わってしまった。それを彩る双方の駆け引きがまた面白かった。