この平成の御世にこんな本を読んでいる人が居るのかという代物ですね。
本来、販売目的で書かれたわけではない志賀直哉(26)木下利玄(23)山内英夫(21)の道中日記で出發は明治四十一年三月廿六日。
因みに山内英夫とは里見弴のことです。
帰京後、参集して思い出話しに花を咲かせ面白がっているが、近代文学史の文献として価値ある物とは思うが、読み手としては特段、面白いという場面もない。
この時代、まだ活動写真がないので庶民にとっては歌舞伎が娯楽の主流だったこともあり、大阪で歌舞伎を見たはいいが、やたらと芝居に詳しい。
勿論、私は役者の話しには着いていけず、文章をなぞっていても一向に面白みが伝わらない。
ただ、名古屋で熱田神宮、大須観音、誓願寺(頼朝生誕地)、京都では宇治の平等院、方広寺の鐘、三十三間堂、清水寺、八坂神社、南禅寺、そして奈良の法隆寺、大阪では難波、道頓堀、梅田と私も行ったとこばかりで興味深い。
道頓堀沿いには、その昔、三層楼閣のような建物が軒を連ねて並んでいたが、古写真などで見るとそれはそれは豪勢なものだった。
しかし、惜しむらくはこの一帯は戦災に遭い観音様もろとも灰燼に帰した。
だが彼等の見た明治の名古屋は「汚い町だね」だった。
「キシメンといふ、サナダ虫のやうなウドンを食ふ」
と、よほど悪い印象を持ったのだろう。
出版の経緯は61年後の昭和45年「中央公論社の需めに應じて」、つまり里見のところへ出版してみないかという話があり、志賀に許可を取った上で里見が注釈を入れて上梓することになった。
ただし、
「出來るだけ忠實な寫本の刊行」
に務める、ということで全て舊漢字で書かれ、里見はこのような「ことわり」も入れている。
「六十一年後の當今の讀者には全然チンプンカンプンだらうし、それではつまらないにきまった話」
享年39歳。