愛に恋

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五足の靴 与謝野鉄幹 北原白秋 平野萬里 木下杢太郎 吉井勇

 
『五足の靴』とは、明治40年7月から8月にかけて雑誌『明星』に集う若き詩人の北原白秋、平野萬里、木下杢太郎、吉井勇の4人を与謝野鉄幹が伴って、九州一円を旅したときの紀行文で、当時、鉄幹は数えで35歳だが、あとの4人は22~23歳の学生だった。
 
しかし紀行文と言ってもなんせ明治40年のこと。
汽車はそれなりに開通しているが、他の乗り物と言えば人力車と馬車以外は徒歩。
それにしても昔の人は健脚、三里や四里ぐらいはあたりまえに歩く。
 
各地で見聞する風俗や風景など、今日の日本とは懸け離れているので、明治時代を散策した体験がない私には実感が乏しい。
また、標準語が話せない古老など言葉が通じない。
しかし、茶屋のお婆さんとの会話は面白い。
 
「婆(ばばあ)に婆さんの言葉はちっとも分からぬと言うと、ああ方のいわっしゃる事も分かいまっせんと言った。婆さん子供があるかい。ありますとも。幾つだい。幾つだって大勢居るさあ。爺さんは居るのか。爺さんかね、爺さんは居らっさんば。一寸(ちょっと)ん楽しみもなかとで御座いますたい、とやったので皆吹き出してしまった」
 
吹き出したほどだから、やはり理由は、アレがなかたい、ということに結実するのか。
変わったところでは、島原の風俗に付いてこんなことが書かれている。
 
「風俗の淫靡なことは有名なものだ。良家の処女といえども他国から来た旅客が所望すれば欣々として枕席に侍する、両親が進んでこれを奨励する。他国人と一度関係を結ばぬ女は縁附が遅いというほどだ」
 
徳川時代の名残か、領国が違えば風土風俗もが違う日本、100年余の昔、アスファルトも車もなく、長閑で木造建築ばかりの九州がそこにはあった、思い描いても想像できない。
 
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生きて行く私 宇野千代

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人生此の方、いろいろな女性に出会って来たが、宇野千代のような豪快な女に巡り合ったことはない。
4回の結婚歴、生涯で家を13軒も建てた細腕繁盛記とでもいうような自叙伝的な本。
思い立ったが吉日とは将に彼女のためにあるような言葉だ。
 
例えばこんな場面。
当時、北海道に住んでいた彼女は新聞に投稿した懸賞小説が第一位に選ばれたことを知り大金が入る。
それを期に新たに書いた小説を中央公論社に送りつけ、当時の名編集長、滝田樗陰からの返事を待つ。
自信を持って書いた作品なのに、待てど暮らせど返事の来ないことに苛立った彼女は夫に断り単身上京。
中央公論社に乗込み滝田樗陰に迫った。
 
「あの、あの、私のお送りした原稿は、着いてますでしょうか。もう、お読みになって下すったでしょうか」
 
すると樗陰は、
 
「ここに出てますよ。原稿料も持っていきますか」
 
その時の感情を彼女はこう書いている。
 
「忘れもしない、それは大正11年の四月十二日であった。「中央公論」の五月号に、私の小説「墓を発(あば)く」が載っている。私はぶるぶると足が慄えた。目の前に投げ出された、この夥しい札束は何であろう。あとで正気に返ったとき、その札束が私の書いた原稿百二十二枚の報酬である三百六十六円だと知ったとき、私は腰も抜けるほどに驚いたのであった。私は樗陰に礼を言うのを忘れて、表へ飛び出した。「そこいらを通っているみなさん、あなた方は何も知らないでしょうけど、私はいま、その先の中央公論社から、もの凄い原稿料を貰ってきたばかりの、偉い女流作家なのですよ」と、大声で叫び出したいのを堪えて、走って行った」
 
さもありなん。
その感動が伝わってきそうだ。
苦労を重ねた末のこの報酬。
しかし問題はその後だ。
この時、紹介されたのが第2位の尾崎士郎で勿論二人は初対面。
 
「ぼ、ぼくが、二等賞の尾崎士郎です」と言ったときの、そのおどけたような吃りの癖まで、思いもかけない感情の陥し穴に、私を誘い込んだのであった。いや、その吃りの癖が誘い込んだのではない。私はその瞬間に、ながい間、意識することもなしに過ごして来た渇望のようなものが、ふいに、堰を切って、溢れ出すような錯覚に襲われたのであった。
 
こともあろうに千代は、そのまま北海道に残してきた夫の元へは帰らず、尾崎と同居することを決めてしまった。
モンロー、バーグマン、ヴィヴィアン・リーも驚くような離れ業ではないか。
後の東郷青児との馴れ初めも信じられないような話で、当時、東郷は愛人と心中未遂事件を起こし世間を騒がせていた。
男女がガス自殺する場面を書いていた千代は、その後の展開をどう描いたものか悩みぬいた末、未遂経験のある東郷に電話して事情を話し、
 
「そういう差し迫った場合に男はどういう行動をとるのか」
 
と助力を願った。
東郷からの返事は、今から仲間内で飲み会があるから来ないかと誘われ、出かけて行ったはいいが、この時も、その日の内から東郷と同居することになったというからビックリではないか!
 
またある時などは、小林秀雄から聞いた岐阜の根尾村の薄墨桜の話しに興味を持ち、翌日にはその桜を見に、村まで出かけて行ってしまう行動力。
何かにつけ、思い立ったら直ぐ行動に移さないと気がすまない性格で、男でも家でも旅でも猪突猛進。
そんな彼女の男性遍歴を評して黒柳徹子は、
 
「あたし、あんなに、寝た寝たと、まるで昼寝でもしたように、お話しになる方と、初めてお会いしましたわ」
 
と大笑いしていたとか。
文壇交遊録の話しも面白いが、まだ女性の断髪が流行る前に髪を短く切って世間を驚かし、それを真似て萩原朔太郎夫人もショートヘアーに、そしてダンス仲間の若い男と駆け落ちしてしまった。
してみると朔太郎のあの名作『帰郷』はこの後に書かれたということか。
しかし朔太郎に対する千代の評価は言い得て妙。
 
「高い格調を持った哀切極まりない叫びは、何に喩えたら好いのか。こんな詩魂を持った詩人が、日本にまたと一人あるものか」
 
全く持ってその通りだと思う。
最後に文庫化にあたって一筆書いているが、その中に、
 
「私はこのごろなんだか死なないような気がしている」
 
平成八年新春とあるが、宇野千代はこの年の6月10日に肺炎で亡くなり98歳だった。
明治、大正、昭和、平成と生き、多くの知人友人に先立たれ、逸話には事欠かなかった彼女。
 如何な気持ちで一世紀近くの生涯を送ったか。
芸術家の人生はドラマチックであればあるほど面白いが、彼女のような破天荒な一生も終わってみれば愉快極まりないというところだろうか。

ジーナ・ロロブリジーダ 1927年7月4日-

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ジーナさん、もう何と言うか、貴女のそのギリシャ彫刻のような完璧なボディーを見ているとテキーラを3杯ぐらい飲んで鼻血を勢いよく垂れ流してしまうほど、私は重篤になるんですよ。

 

子供の頃、貴女を見たんです!

そう『ノートルダムのせむし男』をね。

そして成人してから『空中ブランコ』を見たのが病の始まりでした。

とにかくですね、もう能書き無しでジーナなんですよ。

目まいのジーナ、鼻血のジーナ、ビーナス・ジーナ、何とでも言いましょう!

 

ジーナさん、貴女なしでは眠れません。

全国の、いや、世界のEDの為に、ここは人肌脱いで下さいと言いたいところですが、それはダメです。

脱ぐのは私の前だけにして下さい。

どうかジーナ、私の願いを聞いてもらえないでしょうか。

 

今ならロキソニン3袋プレゼント!

いえいえ、そんな安いもんではダメですよね、何にしよう。

とにかくプレゼントはクリスマスまでには考えますから貴女もイブまでにお返事下さい。

クリスマスの夜、楽しみにしていいですか?

狭山事件の真実 鎌田 彗

3か月ほど前、所要で大阪環状線京橋に行った時のこと、駅前広場で道行く人に向かってやおら演説している中年男性を見て、非常な違和感を持った。

男性の横には看板を持つ人、さらに横断幕を掲げる人など、いつもこの場所には何かと社会に向かって異を唱える人が現れる。
 
駅改札を出て右方向に向かうとイオン、その間の空間地帯に献血車が止まり、こちらも献血のお願いを毎度声高に叫んでいる。
この辺りは相当な人出で確かに演説するには持って来いの場所だが、例えば以前、こんな人も居た!
大きな袋から手書きの用紙を何枚も取り出して、今日は何を宣伝するかと思案の挙句取り出したのがこれ!
 

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雇われているのか慈善事業か分からぬが、こうして日がな一日立っているのだろうか。
一向に解せぬおばちゃんだが、世には実に変わった人もいる。
 
さて、問題の演説だが、「狭山事件は冤罪」だと訴えていた。
これには驚ろくだろう!
今時、狭山事件などと言ってもどれだけの人が知っているのだ。
私ですら朧月夜みたいなもので、思えば遠い昭和38年5月1日に埼玉県の狭山市で起こった誘拐殺人事件で、当時、親戚の家で大人たちに交じってこのニュースを見た記憶が僅かにあるばかり。
 
当時、世間の耳目を集めていた、吉展ちゃん誘拐殺人事件が3月31日に起り、周囲の反応から両事件の大きさは分ったが、いつかしら歴史の間(はざま)に消えて、余程興味ある人でなければ有罪も無罪も分かったものではない。
それを、道行く人に向かって「冤罪だ、冤罪だ」と叫ぶばかりでは能がないではないか。
現在、高齢者以上の人でもない限り、はっきりとした認識もなく、案の定、暫く見ていた私の前を誰ひとり耳を貸す人とてなく、事件以来、55年の歳月は虚しく風化の時を刻み、毎度、変わり種のおじさんの演説とでも捉えているのか、流れる人並みに逆らわず、過ぎ行く無関心の顔を見て虚しくなりはしないのか。
 
若者の視点から捉えれば、私にとっての大逆事件のようなもので、さすがにそれを広場で咆哮するには無理があろうし、こんなやり方では誰も興味を持つまい。
まして司法の決定が覆るわけでもない。
では、私はどう思っているのかと言えば、下山事件松川事件帝銀事件名張毒ぶどう酒殺人事件、狭山事件と一応は読んでみたが、下山事件轢死体は自殺ではなく他殺が濃厚。
 
帝銀事件の平沢貞道に関しては無罪を主張、名張毒ぶどう酒殺人事件の奥西勝に対しても無罪を主張する。
狭山事件石川一雄はどうか、やはり無罪ではないかと思う。
リンドバーグ愛児誘拐事件の犯人リチャード・ハウプトマンにしたところで冤罪のまま処刑されたのではないかと、これは取り返しのつかないことだ。
 
しかし、有罪無罪、どちらの側に立っても確かに疑問は残ると言えなくもない。
もし、自分が犯人で逮捕され、尋問、拘留、裁判と続けば、真犯人でありながら虚偽報告をして無罪を主張、何十年も司法と闘うエネルギーは通常の人間ならあり得ないだろう。
 
逆に、どの裁判長にしろ冤罪かもと疑いつつ処刑場送りにするはずはない。
ここに矛盾が生じる。
正義を追求する場にあって、検察、弁護人はあくまでも真っ向勝負。
 
犯人とされる石川一雄昭和14年1月14日生まれで、事件は昭和38年5月1日に起き5月23日逮捕される。
罪名は高校1年生中田善枝さんを被害者とする強盗強姦殺人事件。
石川氏は被差別部落出身で事件当時、ほとんど読み書きが出来なかった。
小学校もろくに出ていない貧困家庭に生まれため、弁護士と検事の役割も良く解っておらず、当初は検事の言うがままに同意し余罪もあることから懲役10年くらいは覚悟していたらしい。
 
故に死刑判決を受けても刑務官に、その日行われた読売ジャイアンツ国鉄スワローズのオープン戦の結果を聞いていたようだ。
または、一家の稼ぎ頭の兄が疑われたことで自ら進んで偽証したとも書かれている。
つまりは、
 
文字を読み書きできなかったことが、自分の運命を人に任せっきりにした。供述調書をつくらせ、それを自分で読むこともなく、投げやりにして、ろくに確認しなかった。その口惜しい想いがあった。
 
また、
 
誘導というよりは、取調官のほうから口述するようにして自供調書がつくられた。
その記録された内容を、一雄が確認することはなかった。
 
更に、脅迫状を運ぶのに、脅迫する相手の家を知らないかった等々、著者は疑問点をいくつも並べているが、裁判所の原則「疑わしきは罰せず」のはずが「疑わしきは罰する」という極端な事例になってしまった。
ともかく、帝銀事件名張毒ぶどう酒殺人事件、狭山事件と量刑を巡って争っているわけではなく真犯人かどうかの問題、検察はあくまでも死刑、弁護側は無罪、一見、不毛の論争にも見えるが、真実はひとつ、どこまで行ってもキリがないでは済まされない、実に悩ましい問題だ。

YALLA BINA-♬ISHTAR ALABINA

先日、半年ぶりになる美術の講義を受けてきた。

お題は『源流としての古代ギリシア』、その中で年間SEXの消費量、つまり年間何回するかというデーターを聞いたが、1位はギリシャ人の164回だったか、先進国では日本が最下位で46回(?)で特別驚く話ではなく容易に想像出来る順位だと思う。

 

セックスレスに陥るというのは今や日本のお家芸のようにも思うがどうだろう。

とてもラテン系には適うまい。

エロスは男女間においては大切なものだと実感しているが、どうも考え方を異にする人が存在するのか統計が如実にそれを物語っている。

46回でも多いという人も居るやも知れず、泡や、いやいや、セカンドバージンに陥ってしまう場合はどうすればいいのか、悩ましい問題だ。

 

まあ、それはともかく人生、欲情は大切な男女間の潤滑油だと思う私だが!

では、今日の1曲、YALLA BINAで『ISHTAR ALABINA』

 

ISHTAR ALABINA - YALLA BINA - Live dans les années bonheur

 

小津安二郎と文壇交遊録 貴田 庄

 
小津安二郎が日記を付けるきっかけになったのは、映画監督山中貞雄が中国の野戦病院で亡くなったことに由来するらしい。
急性腸炎を発症した山中はまだ28歳という若さだった。
徴兵で従軍していた小津が、南京の東約40㌔の街で山中と会ったのは昭和13年1月12日、それが今生の別れとなり9月17日、山中は他界した。
 
本書は巨匠小津安二郎が書き残した日記から、生前、愛読した本や作家との交流などを丹念に掘り起こしたものだが、残念なことに残された日記は完全なものではなく、映画制作所の火災や戦災などで一部焼失した部分もあるらしい。
 
登場する作家は主に文豪と呼ばれる五人。
中でも小津は志賀直哉に対して強い崇拝の念を抱いていたようで、『暗夜行路』を絶賛している。
同じく白樺派の里見 弴も尊敬しており公私共に深い親交があった。
 
戦後は荷風の『断腸亭日乗』を取り憑かれたよう読むなど、名だたる文豪の愛読者だった小津は里見 弴の『鶴亀』という本に対しこんな感想を述べている。
 
「会話のうまみにはほとほと頭が下る」
 
現在では忘れ去られた作家になってしまった里見 弴は、岩波や講談社文芸文庫などで辛うじて散見する程度だが、小津の言うとおり、里見の小説は会話の妙にあり、まず、どの本を読んでも面白い。
何故、絶版の憂き目に遭っているのかよく分からないほどだ。
 
それ以上の存在が志賀直哉で、小津にとっては雲上人、まさに小説の神様だった。
偶然、エレベーターの中で会った時には最敬礼をしたり、撮影所に志賀が来ると直立不動で「はい、はい」と返事をしていたとか。
小津60年の生涯で『暗夜行路』以上に感動した小説はなかったらしい。
 
にも拘らず小津は、志賀作品を映画化することはなかった。
だが、『東京物語』では両親が住んでいる場所を尾道に設定するなど志賀ゆかりの場所を選んでいる。
また、子供たちが住む浅草周辺は『断腸亭日乗』の影響かと思われる。
しかし、小津はかなりの読書家だったようだ。
 
余談だが谷崎、志賀、永井、里見、武者小路、川端、梅原龍三郎と、みな文化勲章受章者で、中でも長寿を誇った白樺派は全員受賞。
他に柳宗悦白樺派だが、この人は文化功労者
仲間の岸田劉生が早世したのは残念だ。
 
ともあれ小津の交流は素晴らしい、私みたいな凡夫には縁遠い話だが、里見はこんなエピソードを披露している。
昭和31年6月、志賀、里見、小津の三人で旅行した時のこと。
愛知県蒲郡のホテルに宿泊した翌朝、志賀にこんなことを言われた。
 
「小津君、きみは朝から酒を飲むんだろう?」
 
と言って、志賀自らビールを持ってきて、小津のコップに注ごうとした時の恐縮した顔を是非見せたかったと書いたいる。
私も見たかった(笑
 
勿論、私の友人知人に文化勲章受賞者などいないが、このような大家と交遊するということがどういうことなのか興味がある。 
小津は昭和38年12月12日に亡くなっているが、まだ私が子供の頃、彼等が全員存命だったとことを思うと感慨深い。
 
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1945年7月30日 フィリピン海

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映画『ジョーズ』を見た人も多いと思うが、あの中で漁師を演じるロバート・ショーが大戦中、インディアナポリスに乗っていた話をする場面がある。

原爆の部品を極秘で運び、無事任務を終え、レイテ島を目指しグアムを出港した重巡洋艦インディアナポリスは、日本海軍潜水艦伊58に発見され、計6本全門発射した魚雷のうち3本が右舷に命中、乗員1,199中、生存者は316名。
映画の中で語られているように、サメの襲撃に脅えながら5日間も海に浮かんで救助を待っている、そんな信じられないことが戦争では起こる。