愛に恋

    読んだり・見たり・聴いたり!

村山槐多 草野心平

 
伝記本や歴史ノンフィクションなどを読んでいると、故人の交流関係の中に、突然興味を引く人物が現れることがある。
作家、画家、音楽家など、とにかく生き様に興味を持つと、その人物を尋ねたくなるのもこれまた人情。
今回の訪問者は村山槐多、最近まで全く知らなかった人で、画家で詩人でもある彼の人生は、22歳と5ヶ月という短い生涯で燃焼してしまった。
 
画壇史に名を残す才能なので、知らぬはひとえに浅学菲才の私の責任、お恥ずかしい。
短か過ぎる生涯はハイテンションでデカダンスな一生だったのか、才能の開花は早熟で、少年時代から好きな本として『古事記』を挙げているが、太古の昔の精神を芸術として表すのが自分が授かった役割だと豪語している。
 
芸術家というと繊細で心優しき人かと思いきや槐多の場合は違う。
犬に対しては凶暴で、その残忍性は少し変質的な恐怖さえ覚える。
日記などにも普通の人はあまり書かない内容が多く、天才としての自負と自意識過剰とも思えるような条で、ウサギを斃した獅子が、その後すぐ反省の弁を述べるような記述で何か違和感がある。
 
血染めのラッパを吹き鳴らせ
耽美の風は濃く薄く
われらが胸にせまるなり
五月末日日は赤く
焦げてめぐれりなつかしく
 
ああされば
血染めのラッパ吹き鳴らせ
われらは武装を終へたれば
 
中学2年頃の詩だがどうだろう、成熟したものがあるだろうか?
ところで、槐多には同性愛的嗜好があったと書かれているが、草野心平はこの問題をこう解いている。
 
「噂に聞く薩摩っ子的リアリズムの同性愛ではなく、槐多の場合ひどくパルナシアンプラトニックな同性愛だった為に、全く独自な浪漫の短歌が生まれたのである」
 
パルナシアン上田敏の言う高踏派ということか。
リアリズムにならずに客観的に洞察した高踏的なプラトニックということになるのか。 
まあいい、後に槐多はタバコ、酒と嗜好の度が過ぎるようになるが、中学の頃はタバコ代わりに蝋燭を噛みながら話すのが癖だったとあるが、どういうことだ。
そんな息子を画家にするのを酷く嫌う両親、それに対し、血縁関係にある山本鼎という人が、槐多への愛情と並々ならぬ才能を惜しみ両親を説得。
結局、槐多は鼎の友人で東京在住の画家、小杉未醒の元で勉強することになるが、成長と同時にデカダンスの性格も萌芽する。
 
日記には侮辱的な言辞「豚共」などという荒っぽい悪罵が羅列され始め、友人の家に押しかけ留守だと分かると、質草物はないかと勝手に持ち出し酒代にしてしまう。
日本美術院の忘年会では、酔って押入れをトイレと間違え、大事な日本画に小便を掛けるという大失態、呑んでは血反吐を吐き少し治るとまた呑む。
 
日記には「もう死にたくなった」の記述が多くなり、ドストエフスキーの『虐げられた人々』を読んで、友人に「もう俺は死んでもいいよ」と感動の言葉を述べる。
才能の比重に対し、比例する肉体を持ち合わせていないのだろうか。
 
酒好きだからといって早死にとは限らない。
何故、天才はこうも突っ走り、自己抑制が効かないのか。
槐多の友人も薄々気づいていたはず。
危険の差し迫っていることを、肝心の本人も気が付かないはずはなかろうに。
生き急ぎする意味は何か、天才と信ずるならば何故、才能を惜しまないのだろうか。
作品は狂気の沙汰の副産物か、夭折の天才は世界中に多い。
 
 
一代の風雲児や天才芸術家として名を残すのもいい、天寿を全うし、孫らに囲まれ静かに畳の上で息を引き取る凡人もいい。
天才に生まれなかった事を悔やむ凡人、凡人に生まれなかったことを残念がる天才、人間ほど不可思議なものはない。
 
荒唐無稽な小説は好かぬが、伝記文学の読後感は何か荒んだ気持ちになりこともある。
これも勉強の一環か!
 
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