居眠り狂志郎の遅読の薦め

喰う寝る読むだけの素浪人です

松井石根と南京事件の真実 早坂隆

 
う~ん、実に重いテーマの感想文を書くということは一介のブロガーとしては気が重く疲れる。
 
「歴史は繰り返さない。ただ、韻を踏むだけである」
 
という言葉があるそうだが私には解ったような解らないような。
まず単純に思うことはアメリカが行った大都市における無差別爆撃。
無辜の民を焼き殺す焼夷弾投下は大虐殺とは言わないのだろうか。
米軍の戦法はこうだ。
街の四方ををまず爆撃し、巨大な焔の壁を作り、民衆の逃げ道を塞いで確実に焼き殺す。
 
3月10日の東京大空襲では一夜にして10万もの命が失われている。
広島、長崎を除いて古来、これほどの惨劇があったであろうか。
指揮官カーチス・ルメイはこんなことを言っている。
 
「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い私は勝者の方に属していた」
 
つまり勝てば官軍で何をしても不問に付されるわけだ。
南京事件の責を負って処刑された松井石根大将の思想信条をブログ記事として、ここに書くのはあまり適さないし、私はその任でもない。
ただ、松井大将は大の親中派だということはどの本を読んでも書かれている。
大将が書き残したものには亜細亜復興」という言葉が多く出てくるらしい。
 
その松井大将、昭和12年7月、盧溝橋事変が起こった時、既に予備役に編入されていたが急遽、現役に服され支那派遣軍の総司令官に抜擢された。
当初、近衛内閣は不拡大方針を発表していたが何ゆえ全面戦争になったか。
誰がそれを望んでいたのか。
参謀本部でも意見が割れ石原参謀などは不拡大方針を唱えていた。
 
そもそも松井大将と蒋介石は個人的に面識があり、その二人が対峙することになったが東京裁判史観ではないが、どうもこの南京問題には多くの誤解や歪曲があるような気がしてならない。
この時期、頻りに言われていた言葉に膺懲という単語がある。
「膺懲」とは「ようちょう」と読み、懲らしめるという意味だが日本側は事あるごとにこれを使った。
 
その上、上海上陸戦では約1万もの戦死者を出し日本軍は弔い合戦のような色合いも次第に強くなっていき、結果、上海を突破した日本軍は南京に迫る。
一度は蒋介石に対し降伏勧告を出しているが、結局、中国軍はそれには応じず日本軍は南京城を包囲。
そして今後を予想して松井軍司令官は「南京城攻略要領」を出し軍紀を厳しく遵守するよう命じていた。
 
不法行為等絶対ニ無カラシムルヲ要ス」
「名誉ヲ毀損スルガ如キ行為ノ絶無ヲ期スルヲ要ス」
「略奪行為ヲナシ又不注意ト雖、火ヲ失スルモノは厳罰ニ処ス」
「軍隊ト同時ニ多数ノ憲兵、補助憲兵ヲ入城セシメ不法行為ヲ摘発セシム」
 
大将は戦時国際法を意識しながら攻略戦の臨んだ。
しかし事態を混乱させたのは中国軍の督戦隊という組織。
要約すれば敵前逃亡を防ぐため部隊内で同士討ちなってしまった。
更に日本兵を悩ませたのが「便衣兵」なるもの。
兵士が軍服を脱ぎ平服に着替えてゲリラ戦を展開する戦法で、これら「便衣兵戦術」は戦時国際法で禁止されていたがゆえに日本軍は厳しくこれに対処した。
 
結論から言えば確かに婦女に対する凌辱や非武装員の殺害、暴行はあったと思う。
行為を是認するわけでは勿論ないが古来、首都陥落に於いて、このような行為は必ず起こりえると思う。
実際、ベルリン陥落や満州国崩壊の時も同一の事が起きている。
問題は軍紀の乱れは誰の責任になるのか。
軍司令官は繰り返し軍紀の粛清を厳しく訓示している。
それに厳密に言えば南京陥落の12月13日、松井軍司令官は南京に不在だった。
高熱、悪寒が続き遠く離れた蘇州で療養していたのだ。
 
私はかなり微妙なことを書いているのだろうか。
大虐殺はあったのか無かったのか。
今日、言われている30万という数。
一説によると当時、南京城内にいた市民は約20万と言う人もいるが。
ただ、混乱を極めた13日の南京城内では何が起きても不自然ではない情況が生まれていた。
問題は通説になっているその数だ!
 
結局、松井大将は最高司令官であったがために刑場の露と消えたが、あれほど口喧しく言ってきた軍紀粛清の咎で処刑されようとは、本人、如何様に思っていたであろうか。
 

ブログ村・参加しています。

ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟
                                                     

ヴァレンヌ逃亡 マリー・アントワネット 運命の24時間 中野京子

 
フランス革命勃発というのは1789年7月14日、バスティーユ監獄の襲撃を持って起こり、その後、ルイ16世マリー・アントワネットは断頭台の露と直ぐに消えたわけではないんですね。
幕末維新には詳しい私ですがフランス革命からナポレオンの登場という混乱期に関しては殆ど無知。
 
この本のサブタイトルにある『運命の24時間』というのは1791年6月20日から21日までのことで、国王はこの日、僅かな共の者と宝石、金貨、衣装などを詰めた馬車でパリを脱出、一路、モンメディという所を目指し、そこで王党派の国民へ向かって呼びかけ、新たな憲法発布と共に巻き返しを企図。
 
それに対しアントワネットの戦略は一端、母国のオーストリアへ亡命しオーストリア軍の力を借りてパリを逆占領しようという企て。
しかし国王は外国軍に国民を攻撃させることに反対。
あくまでも王党派を信じ、事の成り行きを楽観視していたようだ。
 
結果的には6月20日23時、モンメディ手前のヴァレンヌで地元の民衆に行く手を阻まれ翌日、パリからの指令で全員逮捕。
部下が作成し綿密を極めた逃避行案であったが。
それをみすみす失敗に追い込んだのは国王の優柔不断さ。
一刻も早くという部下に対しああでもない、こうでもないと遅延を要求する国王。
 
街道筋には宿駅ごとに竜騎兵を配置していたにも関わらず5時間の遅刻が命取りに。
それはひとえに信じがたいルイの独断専行。
実戦経験のない国王は油断をそれほど気にかけていなかったようで途中で身分を明かし少しも急ぐ様子がない、まずありえない行動が目立った。
 
ところで当時のフランス財政だが国庫収入の9倍の赤字を抱えながら、馬車の所有数217台、馬1500頭、趣味の狩猟用猟犬1万頭を国王は手放そうとはしなかった。
また、ヴェルサイユで使う蝋燭代だけでも膨大な出費。
しかし作者はこのように書く。
 
「技巧を凝らして美を創造・表現しようとする人間活動は、生きるための労働に追われれば難しく、極限の貧困の中では息の根を止められてしまう。貧富の差が縮まった現代社会からは想像しにくいが、身分社会にあっては、暇と金がふんだんにあり、尚且つその上に優れたセンスのある者しか美を牽引することはできなかった」
 
つまり「美」は庶民のものではなく、王侯貴族の占有だったと。
生きるために四苦八苦していては優れた芸術は生まれにくく貧富の差があったればこそ絢爛豪華な建造物も造れたというわけか。
なるほどね・・・!
 
ところで佐藤賢一氏の『小説 フランス革命』という作品が最近文庫で完結したが読んでみたいものの実に18巻という長編。
悩ましい限りだ。
 

ブログ村・参加しています。

ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟
                                                     

永訣の朝 樺太に散った九人の逓信乙女 川嶋康男

 
そう言えばこの本を読んでいて長く忘れていた『氷雪の門』という映画のことを思い出した。
調べてみると1974年というからもう40年以上も前の映画になる。
即ち、昭和20年8月20日、実際に起きた事件の映画化というわけで、本書はその日、何が起きたのかを詳細に調べ上げた作品ということになる。
 
玉音放送から5日も経った20日にソ連軍は南樺太を軍事占領するという暴挙に出る。
この時、真岡郵便局に勤務する20歳前後の9人の乙女が、ソ連軍による凌辱を警戒し、艦砲射撃が初まって以後、上陸してきたソ連兵を目前に次々、青酸カリで服毒自殺を遂げた。
その数時間前に真岡郵便局より北にある幌泊(ほろとまり)監視哨から緊急連絡が入る。
 
ソ連軍艦四、五隻、幌泊沖で進路を変え真岡方面に向かった」
 
という知らせに真岡郵便局内は一挙に緊迫。
まだ、夜が明けきらないうちの連絡だったために、ただちに総員起こし。
彼女たちは電話交換手。
 
実際のソ連軍艦隊の規模は総勢3500名、護衛艦一隻、機雷敷設艦一隻、大型駆逐艦二隻、哨戒艇五隻、掃海艇四隻、輸送船六隻、高速魚雷艇四隻という大部隊。
ここのきて交換手たちは腹を括くり各自、青酸カリを所持。
 
しかし、仔細に本を読んでいくと、彼女たちの自決はやや早まった感が否めない。
逃げるという選択肢を選ばず、ソ連兵が局内に乱入もしていないうちに服毒している。
あくまでも純潔を守ろうという意気込みは分らぬではないが。
 
それにしても怪しからんのはソ連軍である。
20日の戦闘開始から終結までの2週間で日本人の死者は4200人。
8月15日の無条件降伏で全ての戦闘は終了したはずではなかったのか。
自決直前、一人の女性が他の郵便局に最後の電話した。
 
「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」
 
全員が殆ど躊躇いもなく青酸カリを飲んだようだが、しかし大和撫子、あまりにも痛ましい最期だった。
昔、畠山みどりが『氷雪の門』なる歌を唄っているようだが全く知らない。
 

ブログ村・参加しています。

ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟
                                                     

ベルニーニ

 
ベルニーニは17世紀に活躍したバロック芸術の巨匠。
まあ、驚くべき天才児で「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛された程で古代遺跡が残る古き都ローマは彼の手によって、壮大なスケール、絢爛豪華な装飾にあふれる美の都に変貌させていった。
それにしてもだ!
今は死語になっているが、その昔、天誅という言葉が流行った時代があった。
天に代わって成敗するという意味だが、神に代わって創作するという言葉はないのか。
そんな言葉があったら彼にこそ相応しい。
例えば下の作品。
 
 
信じられない。
彫刻でこんなことが出来るなんて。
更に!
 
 
この指で押さえる肉感。
いや・・・、恐れ入りました!

 

ゴッホとロートレック 嘉門安雄

 
ロック界には昔から「27クラブ」というのがあるが、画壇には「37クラブ」というのがあるのだろうか。
ラファエルロ、カラヴァジョ、ヴァトー、ゴッホロートレックモディリアーニ、そして日本では菱田春草今村紫紅
モディリアーニ今村紫紅の36歳を除いてみんな37歳で亡くなっているらしい。
岸田劉生も37歳だったと思うが。
因みに作曲家ではビゼーの36歳、ショパン39歳が近い、モンローも37歳で亡くなっている。
 
天才の夭折は常のことだが、10年とは言わない、後5年の命を与えて上げればどれだけの名作をこの世に残せたことか、人類の損失と言っても過言ではない。
 
ところで明治以降、芸術家の交遊録というのは常に私の興味の対象。
犬猿の仲だの竹馬の友などを読むのが大の好物。
しかし、これが西欧となると勉強不足でまだまだ知らないことだらけ。
今回、初めて知ったのがロートレックが描いたゴッホの自画像。
そんなものがあったのかというより、ロートレックゴッホが友人だったということに驚いたのが本書購入のきっかけ。
その絵がこれ!
 
 
確かにゴッホ自らが描いた自画像に似ている。
時に1886年ロートレック23歳、ゴッホ34歳の出会いだったらしい。
以前、岩波文庫の『ゴッホの手紙』3巻をよんだが、はて、その中にロートレックの事が書かれていたか記憶にない。
何しろゴッホが弟テオに送った手紙は約700通。
 
ともあれ、ゴッホに南仏アルル行きを進めたのはロートレックだとあるから、それほどまでに二人の交流があったと言えるのだろう。
二人はどのようにして知り合ったのだろうか?
ロートレックがパリに遣って来たのは1883年。
画商タンギー爺さんとベルナールの紹介で出会ったのも同年。
翌年から日本の浮世絵版画を集め出したとある。
 
遅れてパリに遣って来たゴッホ1886年6月、テオと共に新しい住居に移り、その頃から日本の版画類を集め出す。
ゴッホタンギー爺さんを知ったのは86年の夏頃、そして秋にはテオを通じてゴーギャンと知り合う。
セザンヌと出会ったのもタンギー爺さんの店で当時ゴッホは店に入り浸っていた。
 
ゴッホロートレックの出会いが何月何日とはっきりは分からぬが共に浮世絵熱が高まり同店でよく会っていたのだろう。
ゴッホは広重、ロートレック北斎漫画に興味を持つ、タンギー爺さんを挟んだそんな場面を想像したくなる。
しかし、二人の画風は正反対。
ロートレックは背景には殆ど無頓着で主に人物画がメイン。
戸外であることを示すだけで充分、風俗画家に徹し、一方のゴッホは素晴らしい人物画を残すも基本的には風景画家。
この点、ロートレック北斎漫画を選び、ゴッホが広重の風景画を好んだ要因かも知れない。
 
知ってのとおり、生前、ゴッホの絵は全く売れず、唯一の例外が『赤い葡萄園』。
確か、400フランだったと思うがこれも風景画。
 
 
ロートレックの芸術はモンマルトルという囲いの中で室内情景を描くことで開花しゴッホはアルルという自然の中に美を求める。
ゴッホは人物を描いても、ある特定の女は描かない。
逆にロートレックは特定の女を何枚も画く。
 
ゴッホがパリでロートレックと再会したのは1890年7月の始め。
『二十人会展』という展覧会へロートレック5点、ゴッホ6点の絵が展示されるがメンバーの1人がゴッホの絵を非難したためロートレックは猛然と怒りを爆発させ決闘寸前のところまで行ったというから、この事件を見ても分かるように両者の親密度が伺える。
 
その日、ロートレックゴッホをアトリエに招待して見せた『ピアノを弾くディオ嬢』ゴッホは絶賛。
偶然に同じ頃ゴッホも『ピアノを弾くマルグリット・ガシェ』という絵を描いたばかりで肝胆相照らすということだろうか。
 
ゴッホの最期は知ってのとおりだがロートレックは飲酒の悪癖から抜け切れず幻覚と共に衰弱はいよいよ進み、1899年、精神病院へ入所、翌年、脚の麻痺が酷くなり食事も採れずやせ細るばかり、それでも酒だけは止めなかった。
以後、何度も発作を繰り返し1901年9月9日、波乱の生涯を閉じる。
 
宿命と言えばそれまでだが、いったい二人の人生は、どうしたら軌道修正が出来たのだろうか。
世界が、いや世間がもう少しゴッホの才能に気付くのが早ければテオの精神的経済的圧迫を防ぐことが出来た。
多くの知人友人、娼婦に囲まれながら誰も過度な飲酒を止められなかったロートレック
共に37歳という若さで逝った破滅型天才芸術家の典型的な類例を見るようだ。
そんなことを考えても詮無きことか。

 

ブログ村・参加しています。

ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟
                                                     

湯河原襲撃 河野司

 
何につけ軍人に関するノンフィクションや伝記は時に気が重い。
この本も以前古本屋で買ったはいいが中々読む気にならず暫く放っておいた。
実に50年以上も前に発売されたもので初めて見た本だった。
私の所蔵本に、ニ・ニ六事件に関係した全青年将校らの手記や遺書を纏めた本があるが、本書のタイトル『湯河原襲撃』とは事件当日、湯河原の伊東屋別館に宿泊していた前内大臣牧野伸顕伯を襲った陸軍航空大尉河野寿の蹶起から自決までの詳細が書かれている。
 
著者の河野司とは当事者の実兄にあたる。
著者は事件以降、遺された家族や関係者の聞き取りに後半生を費やし膨大なニ・ニ六事件関係の本を残した。
実際、弟に頼まれて自決用の果物ナイフを与えたのも司氏だ。
 
河野大尉以下8名は自動車二台に分乗し湯河原に向かったのだが牧野伯の部屋を直前にして護衛の警官に胸を撃たれ重傷を負った。
別巻に火を放って退却したが撃った護衛警官も逆に河野大尉から撃たれて死亡。
河野大尉は熱海の陸軍衛戍病院に搬送、以前から気になっているのだが、この病院は現在どうなっているのだろうか。
 
伊東屋別館の跡地といい陸軍衛戍病院といい機会があったら一度行ってみたい。
その河野大尉が院内の敷地で自決したのは3月5日。
果物ナイフで喉を5回ほど刺している。
強い覚悟が伺われるが急を聞いて駆け付けた院長の手当てに「やめて下さい。死なせて下さい」とまで言った。
 
尚、それより先の29日、陸軍省で蹶起部隊の先任将校だった野中大尉がピストル自殺している。
勿論、私自身、皇道派がいいとか統制派が間違っていたとか語る資格などないが「陸軍大臣告知」に翻弄された彼等、青年将校の気持ちを慮ると何をか況やである。
 
しかしそれにしても、斉藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監を殺害し鈴木侍従武官長に重傷を負わせ岡田首相、牧野伯までを殺害しようと企んだ罪は確かに重かろう。
元老、重臣、財閥、軍閥と当時、頻りに言われた君側の奸を斃すことが本当に革命の成就になるのか私には解らない。
 
どちらに転んでも後味の悪い結果となったが果たして皇道派の勝利だった場合、後の大東亜戦はどうなったのか興味は尽きない。
まずは真崎大将に大命降下ということになったのか。
 

ブログ村・参加しています。

ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟
                                                     

バーボン・ストリート・ブルース 高田渡

 
私が記憶する限り子供時代の音楽番組といえばクレージーキャッツザ・ピーナッツ
主演の『シャボン玉ホリディ』か、坂本九弘田三枝子坂本スミ子黒柳徹子らが出演していた『夢で逢いましょう』ぐらいしか知らない。
『シャボン玉ホリディ』の音楽監督は宮川泰、『夢で逢いましょう』は中村八大が担当していたが、どちらも昭和に燦然と輝く大作曲家だった。
外国の曲をカバーすることもあったが両作曲家が目指すは和製ポップス。
自然、私の感性も洋楽に傾いていった。
 
しかし、片や美空ひばりの『柔』村田英雄の『王将』が大ヒットし、アニメソング以外子供が歌う曲とてない当時、あちらこちらで幼いガキが柔、王将を歌っていた。
そんな昭和40年だったか、突如、一人の好青年がエレキなる楽器で、それまで聴いたことのなかったサウンドを奏で瞬く間に一大ブームを巻き起こした。
時、恰もベンチャーズ・サウンド、またはビートルズ来日前夜で言い換えれば三橋美智也人気の終焉を物語っているような時代の変革期だった。
 
生意気にも私は一早くエレキ・サウンドに魅了され、歌謡界はGSとカレッジ・フォークの時代に突入。
水を得た魚のように私は彼らの曲を聴きまくっていた。
しかし、ここに独り取り残されたように存在したのが(あくまでも私にとって)反戦フォークと言われる、団塊の世代を中心とするメッセージ性の強いフォークソング
 
60年代後半、学生運動の指示の高まりと共に高石ともや岡林信康らの曲は熱狂的に支持されたようだが、私の関心は専らポップス。
不思議なのはフォーク世代もGS世代も同じような年齢なのに両者の音楽的隔たりは大きく簡単に言えばボブ・ディランの影響かビートルズの虜の違いなのだろうか。
岡林の曲で知っているのは『山谷ブルース』と『チューリップのアップリケ』だけ。
高石ともやは『受験生ブルース』のみ。
同時代人としては中川五郎細野晴臣大瀧詠一松本隆鈴木茂早川義夫六文銭遠藤賢司加川良、西岡たかし、下田逸郎あがた森魚など日本フォークの草分け的存在の顔ぶれがいるが、当時、私が聴いていたフォークと言えばフォーク・クルセイダースぐらいのもので他の人には殆ど関心を示さなかった。
 
こんな本を買っておきながら何だが、実は私、高田渡の曲を知らない。
というか聴いてこなかった。
高田渡が世に出るきっかけとなった曲は『自衛隊に入ろう』だが、何だか聞いたようなタイトル、しかし歌えない。
昭和42年、高田渡18歳、定時制に通っていた頃の話しだとか。
初めてフォークに触れたのは兄の持っていたブラザーズ・フォーのレコードを聴いた時、バンジョーの音色に心惹かれたと書いているがビートルズボブ・ディランにはまったく興味を示さず、何と、影響を受けた人物はウディ・ガスリーピート・シーガービートルズ教の私とは感性が合わないはずだ。
しかし、読み進めていくうちに三つの接点を見つけた。
 
サザンオールスターズを聴いていた。
ジーナ・ロロブリジータのファン。
イタリア映画『イル・ポスティーノ』を観た。
因みに奥さんは長谷川一夫とリノ・バンチェラのファン。
 
ところで高田渡団塊の世代、昭和24年の元旦生まれ、母の乳を受け付けずヤギの乳で育った変わり者で、名前の渡も「三途の川を渡る・・・」から取ったと父が言っていたと書かれているが嘘のような本当の話しなのだろうか。
幼少時代から貧困生活は続いていたようで京都に移っり住んだ頃は三条界隈の喫茶店をハシゴして一日10件ぐらいの店でコーヒーを飲んでいたというから、これでは胃が持つまい。
 
「貧乏を知っているのはいいが、慣れしたしむな」
「贅沢は知ってもいいが、慣れしたしんではいけない」
 
これが実父の口癖で、高田渡の生涯は酒とツアーの連続、殆ど全国くまなく渡り歩き、その結果、裕福になったのかどうか知らないが妻子には逃げられた。
酒席で嫌う話しとして、こんなことが書かれている。
 
「俺も昔は学生運動をやっててさあ」
フォークソングか、懐かしいな。俺もやってたよ」
 
余談だが採血をすると肝臓の健康度を表す数値、γ‐GTPというのがある。
平均値は12~87だが、高田渡の場合、1000ぐらいあったというから、如何に日々のアルコール量が多かったかを物語っている。
入退院を繰り返す、それにしても寿命を縮めるのを知っていながら酒を止められなかったというしかないだろうに。
それでも一度だけ病院から抜け出したいと思ったことがあるそうだ。
阪神の大震災があった時、同じ入院患者の老人に尋ねたらしい。
 
「震災で大勢の方が亡くなったみたいですね」
「ああ、そうですか。そのとき私は尋常小学校の三年生でした。あなたはいくつでしたか?」
「・・・・・」
 
関東大震災と間違えているのである。
 
その最期は平成17年4月16日、ツアー中の北海道で逝去、56歳と意外に若かったと聞いて驚いた。
あの風貌から想像するに既に60は越えていたとばかり思っていたので。
浅川マキも平成22年、ライブ公演で名古屋滞在中に亡くなったが、歌と酒に生き、ライブ中の旅先で淋しく死んでいく。
いつかこんな時が来るだろうと本人たちは予想していたと思う。
旅から旅への旅鴉。
裏淋しいと言っては失礼か。
好きな酒を呑み、好きな歌を唄って死ぬなら本望だと返ってきそうな気がする生涯だったか。
 

ブログ村・参加しています。

ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟