志士の肖像(上・下) 早乙女貢

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歴史小説作家だった故早乙女貢氏は生前『その時歴史が動いた』などで何度か拝見したが、いつも和服姿で、どこか古武士然とした風貌は少し近寄り難いタイプの人だった。

司馬遼太郎ファンの私は司馬さんが書かなかった穴埋めと言っては失礼だが、他の作家で多くの志士を読むようになった。
早乙女貢氏は曽祖父が会津藩士だったため会津贔屓の作品が多いようだが、それでも仇敵の長州藩山田顕義を書いているのを知って早速読んでみたが、本書は既に絶版となっていいる。
 
幼名山田市之丞は、一年ほど松下村塾で松陰の教えを受けた、維新後は顕義と改名して近代法の制定に全力を尽くし、第一次伊藤内閣の司法大臣を拝命、明治22年には日本法律学校を設立している。
大学設立は松陰の宿願でもあった。
司法大臣として約9年勤めたが明治25年、47歳の若さで歿した。
山田は陸軍中将で伯爵を賜っているが早くに死去したためか元老にはなっていない。
しかし、働き盛りの47歳とは如何にも若い、せめてあと10年、日露の役ぐらいまでは生きていてほしかった。
 
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訃報 ピーター・トーク

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若い人にはまったく馴染みのない人だと思うが、元ザ・モンキーズのメンバーといえば少しは分ってもらえるだろうか。

そのピーター・トークが昨日、77歳で亡くなったというニュースがあった。

ご冥福を祈りたい。

私の子供時代、ビートルズアメリカ版ということで日本でも『ザ・モンキーズ・ショー』なる番組が流行り、毎週のように見ていた記憶がある。

常にミッキー・ドレンツの『モンキーズのテーマ』がオープニングでかかり、少しお笑いの入った30分番組だったが、彼らの最大のヒット曲はデイビー・ジョーンズが歌った『Daydream Believer』で、後年、忌野清志郎がカヴァーして今でも何かのCMでよく聴くあれである。

因みにデイビー・ジョーンズは2012年2月29日、66歳で亡くなっている。

 

折しも最近、日本でも話題となっている舌癌だが、ピーターの場合も腺様嚢胞癌(せんようのうほうがん)という舌癌の一種で悪性腫瘍に罹っていたらしい。

これは2016年の写真らしいが嘗ての面影は全くない。 

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  では、彼を偲んで1968年のヒット曲『すてきなバレリ』でお送りしたい。      
 
すてきなヴァレリ [日本語訳付き] ザ・モンキーズ       

 

 

 

美と破壊の女優 京マチ子 北村匡平

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最近、こんな本が出たので読みたいと思っている。

京マチ子といえば若尾文子山本富士子と共に大映の看板女優で、当時としては珍しい160㎝という長身で官能的な肉体美を武器に数々の名作に出演したらしいが、彼女が主演する映画はおそらく3本しか観ていないと思うが。

羅生門

『地獄門』

男はつらいよ寅次郎純情詩集』

本書の内容紹介には以下のように書かれている。

 

美と破壊性をあわせ持つ無二の女優、京マチ子。映画デビュー後、瞬く間にスターの座に上り詰め、日本映画の黄金期を駆け抜けた。出演作は一〇〇本に上り、強烈な肉体美で旧弊な道徳を破壊したかと思えば、古典的で淑やかな日本女性を演じてみせた。彼女の主演作が海外の名だたる映画祭で高く評価されたのはなぜか?戦後、多くの日本人に熱烈に支持されたのはなぜか?ヴァンプから醜女、喜劇からシリアスな役まで、多彩な役を変幻自在に演じた女優・京マチ子の魅力を語り尽くす。

 

しかし、京マチ子はこんなようなドスの効いた怖い目付きをすることもあるんですね。

 

 

1945年4月30日 ドイツ総統官邸地下壕

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             二人が自殺したとされるソファー

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今更、説明書きはいらないと思う。

ただ一度だけヒトラーの頭蓋骨をテレビで見たことがある。

ソヴィエトが持ち帰っていたもので、薬物を飲んだあと拳銃で頭を撃ったようだ。

 

開国―愚直の宰相・堀田正睦 佐藤雅美

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江戸時代、老中というのは一人ではなく、常に四人ぐらい存在し、そのメンバーの合議制で物事を決めていたらしい。

幕末、ペリー来航時の筆頭老中は阿部伊勢守正弘で、この難局を乗り切るため担ぎ出されたのが堀田備中守正睦で、大老井伊直弼が登場するまでは彼が老中首座として幕政を担った。

この本は、堀田備中守を主人公に据え、かなり長編だが結構面白い。

 

だがしかし、今日は阿部伊勢守正弘について少し触れたい。

幕臣で明治の大ジャーナリストに福地桜痴という人がいる。
この人が維新後、幕末のことをいろいろ書いているが、それによると、桜痴の主張は公武合体論だが、薩長による合体ではなく、徳川家主体の公武合体で、充分、それが可能だったと解く。
しかし、その前に十三代将軍家定からの批判も忘れない。
 
「この方は暗弱とは言わないけれど難局に当って快刀乱麻を斬る器ではなかった。いはばまあ、太平の世の中君である」
 
「青年時代から癇癪持ちで、進退動作すこぶる異様。顔形ははなはだ閑雅でなく、将軍家に必要な威厳がまるで欠けてゐた」
 
「この怒りっぽさは、お若いころ、ふとしたことから男女の仲のことができなくなったせいで、いよいよひどくなり、時として狂人と見える挙動もあった」
 
つまり将軍家定には子が出来ないかも知れないという噂が当時からあり、そこで一計を案じたのが阿部伊勢守。
薩摩の島津斉彬の養女篤姫を家定の御台所に迎えた。
老中と外様藩の大名という関係にありならが二人は仲が良かった。
伊勢守としては時期将軍は一橋慶喜、家定に子が出来たならその次という案だった。
 
普通、老中職は平均五年の在職で、伊勢守は若干25歳で老中首座に就き、39歳で病死するまでその職に在ったというから、よほど有能だったのだろう。
がしかし歴史は皮肉なものである。
福地桜痴はこのように書く。
 
「惜(おしい)かな将軍家には、男女の道も叶はせられざるを以って、御台所の御苦心もその甲斐なく伊勢守はその翌安政四年を以て卒去せられ、将軍家も薩摩守もまたともにその翌安政五年を以て薨ぜられたりければ、この政略婚姻はその効を見るに至らざりき。もし薩摩守・伊勢守にしてともにその生存を永からしめば、あるいは幕府の命脈もこれに繋ぎ条約の議論も円滑に行なわれたらんかと思わるるなり」
 
つまり伊勢守が存命なら、大老井伊直弼の登場もなかったということになるのか。
確かに伊勢守と島津斉彬が今少し存命であれば歴史は変わっていたかも知れない、歴史にもしは無いが、この歴史のイフは実に面白い。
更に江戸文化・風俗の研究家である三田村鳶魚が、水戸家の当主徳川慶篤から聞いた話しとしてこんな逸話がある。
 
「昨日、中納言慶篤)から聞いた話しだが、勢州(伊勢守)も実に痩せ衰へ、夜中なら向ひ合って話をするのも厭なくらゐ。絵に描いた幽霊のやうで、立居ふるまひもむづかしそうである。中納言の話しでは、お城の茶坊主などは、十五歳の新しい妾が出来たせいと言ってゐるとやら。たとへ妾が三千人ゐたとても、交合の回数をきちんと決めて置けば、体に障るはずはないのに」
 
伊勢守は交合を頑張り過ぎたため、寿命を縮めたような書かれかただが、果たして真相や如何に。
時に伊勢守39歳、妾15歳。
 
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マグダラのマリア Godfried Schalcken  1643年-1706年11月16日

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谷崎の言う陰翳礼讃とはこういうことだろうか?

陰があるから光が見える、光の繁栄は陰があってこそ成り立つ。

陰翳の中でこそ映える芸術を作り上げる。

この人の絵はどれもこれも陰翳の中に浮かび上がるように書かれている。

全てが蝋燭であった時代は私たちが思っている以上に暗い。

しかしこれは何をしているところなのか、よく分からぬ。

写楽殺人事 高橋克彦

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 少し小説とは話が違うが、昔から諸説紛々言われてきた写楽とはいったい誰なのか、という例の話、生前、池田満寿夫さんがその正体を追っていたが、いろんな説があってよく分からない。

写楽とはやはり阿波藩の能役者、斎藤十郎兵衛が浮世絵師という別の顔を見せるときに使った名前なのか。
従来写楽の正体を巡っては、有名な画家説のほかに、版元の蔦屋十三郎説と能役者斎藤十郎兵衛説があったが、近年ではやはり斎藤十郎兵衛ではないかという説が有力。
ともあれ斎藤十郎兵衛とはどんな人物なのか。
斎藤家の菩提寺過去帳には以下のように記載されている。

八町堀地蔵橋
阿州殿御内
藤十郎兵衛
行年五十八歳
千住ニテ火葬

阿州とは阿波藩のことで死去は文政三年(1820)。

一方、写楽のデビューは寛政六年(1794年)。
逆算すると十郎兵衛は三十二歳。

つまりは能役者は武士に位置づけられていたため身分を隠したと。
寛政年間の触書にこうある。

文武之道相励み風儀を改めるべし

武士が浮世絵を書くなんざ以ての外、という訳である。
そして十ヶ月後、写楽は忽然と姿を消しその行方杳として知れず。
歴史はロマンの宝庫。
 
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