居眠り狂志郎の遅読の薦め

喰う寝る読むだけの素浪人です

石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人 早瀬利之

かれこれ20年ぐらい昔になるだろうか。
NHKスペシャルで張学良を特集し、何と本人が登場したから驚いた。
まるで浦島太郎に遭遇したような気持ちだったが、キャスターのインタビューに満100歳を迎えた学良は矍鑠とした風貌で記憶も正しく受け応え。
この歴史上の人物は、もう遠の昔に亡くなっていたとばかり思っていたので、未だ台湾に健在と知って私にとっては驚きもひとしおだったのである。
 
何しろ昭和6年当時、関東軍の敵将だった人物の登場とあっては無理からぬこと。
対する関東軍の責任者だった本庄繁司令官は終戦の年に自決。
板垣高級参謀は戦犯として昭和23年に処刑され石原作戦参謀も翌24年に病死しているので一人、学良のみが長命を保ったわけだ。
さて、今回の本だが、そもそも私が如き浅学の徒が石原莞爾について書くということが間違いとは承知しながら一応、読書感想文としては書かざるを得ない。
 
石原莞爾、この特殊な人物を私がいつ、何で知ったかはよく覚えていない。
20代の頃に杉森久英氏の『夕陽将軍』なる本を読んだことがあるが、昭和陸軍の中枢にあって、取り分け題材として採り上げられる人物だ。
永久平和の使徒、天才軍略家など今日にわたっていろいろ言われているが、当時、アメリカ側にも非常な知名度で知られていたらしい。
何しろ、兵力22万という関東軍を上回る装備を持つ張学良軍をたった1万の兵で打ち破った、その作戦立案者というから各国から注視されるのも解るが、はて、対する張学良にはどのような思惑があったのだろうか。
関東軍としては「彼此武力衝突はもはや必至の情勢にあり」と見ていたらしいが。
満州事変の勃発は昭和6年9月18日だが軍中央からはこのような電文が届いている。
 
「今回の日支衝突事件に関して帝国政府は、支那兵が満鉄線路を破壊するに基因するものにして非は固より彼に存するも、事態を拡大せざるように極力努むることに方針を確定せり。右御含みの上行動ありたし」
 
つまり近衛内閣は不拡大方針を採っているわけだが、事態はそうならなかった。
まあ、とにかくここで満州事変の是非を論じても仕方がない。
この本の追及するところは本のタイトル通り『マッカーサーが一番恐れた日本人』と言うことに尽きる。
石原が予備役に編入されたのは昭和16年の3月。
東條や武藤章と衝突した結果である。
事ある毎に東條を無能呼ばわりし、上官に対して無遠慮に自らの見解を述べる態度に不快感を持たれていたためだと言われている。
 
昭和12年参謀本部作戦部長という要職にありながら、その後は東條によって左遷続き。
戦後、石原はこのように言っている。
 
「作戦施策よろしきを得ば今日の敗戦もなからん」
 
直接には太平洋戦争に関わらなかった石原だが、彼の立案ではこうなる。
 
「補給線を確保するために、ソロモン、ビスマーク、ニューギニア諸島を早急に放棄し、資源地帯防衛に転じ、西はビルマの国境からシンガポールスマトラ中心の防衛線を構築、中部は比島の線に後退、他方本土周辺、およびサイパンテニアン、グアムの内南洋諸島を一切難攻不落の要塞化し、何年でも頑張り得る態勢をとると共に、外交的には支那事変解決に努力傾注する(略)」
 
著者は言う。
もし、この時点で石原が参謀総長だったならば。
面白い案だが、結果は私にも判らない。
ともあれ、石原本人は「何故、自分を戦犯にしない」と息巻き満州事変まで溯るならペルリを呼んで来い」とも言っている。
石原は講演の先々でトルーマンは第一級の戦犯なり」と声高に方言し、GHQ「石原を法廷に出すとやっかいである」という結論だった。
 
その結果、戦犯としてではなく証人として山形県酒田に臨時法廷が設けられ、二日間の尋問が行われている。
既に石原は膀胱がんを患っており、リヤカーに乗せられての出廷だった。
今回、初めて『石原莞爾選集』から引用された岡本弁護人とダニガン検事からの聴収の全文を読んだが、これが結構面白い。
ここに全文を掲載出来ないのが残念だが、中にこんなやりとりがあり場内が笑いに包まれた。
 
検事 
「敵に対し断固たる鉄槌を下すべきであると言っておられるが、それは実行されましたか」
石原 
「余り大鉄槌でもありません。中鉄槌をも加えません。鉄でありますが槌が小さかったのです」
 
この「槌が小さかった」を通訳官が「スモールハンマー」と訳したことで判事も口を押さえて笑ったとある。
ともあれ、石原の印象は全てを堂々と開陳しアメリが側にも好印象だった。
私個人としては、一度、石原に東京裁判に出廷してもらい、居並ぶ被告達を前に石原の弁舌を聞きたかった。
死期の迫った石原最後の晴れ舞台になったやも知れるのに惜しいことをした。
 
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カレーライスの唄 阿川弘之

 
ポツダム大尉という言葉があるが、ポツダム宣言受諾後に階級を一つ進級させることで、阿川弘之支那方面艦隊司令部附として終戦を迎え、この、ポツダム大尉として焼野原となった郷里広島に帰った。
その後、志賀直哉に師事して作家になるのだが、本題を前に娘佐和子の近著『強父論』なる面白そうな本が出ているが、何でもこんな暴言を厳父から吐かれたとか。
 
「子供に人権はないと思え。文句があるなら出ていけ。のたれ死のうが女郎屋に行こうが、俺の知ったこっちゃない」
 
佐和子はテレビでもよく父に怒鳴られたことなど語っているが、確かに今や絶滅危惧種となってしまった軍人上がりの父を持つ私も将に地震・雷・火事・親父で、どれだけ叩かれたことやら。
 
まあ、それはともかく、今回もまた筑摩文庫の復刊である。
毎回、書いていることだが獅子文六源氏鶏太、そして阿川弘之と復刊本にはとことん付き合うつもりでいるが、はて、この先、どこまで続くやら。
さて、本作は昭和36年2月から新聞連載されたものらしいが手に取るまではまったく知らない小説だった。
 
念のため調べてみるとやはり37年に映画化されており主役は江原真二郎大空真弓
ストーリーは単純なもので、出版会社、百合書房の編集員である桜田六助と鶴見千鶴子のお色気なしの出世物語。
赤字続きの会社は倒産、夢破れた六助は故郷の広島へ帰るが、男まさりの千鶴子は家などに引込んでいられず、たまたま知り合った青年がカレー会社の御曹司。
そこにヒントを得た千鶴子は株で儲けた金でカレーライス店を始めることを思い付く。
郷里に帰っていた六助を呼び寄せ二人で店をオープンする顛末を書いているのだが、どうも30年代の大衆小説は、この手のお手軽ものが流行ったような印象を持つ。
 
森繁の『社長シリーズ』や『駅前旅館』などに代表されるように軽妙とコミカルが売りで『伊豆の踊子』のような文藝ものとは違い初めから映画化を予想して書かれたような感もあるがどうだろう。
しかし、阿川氏は決して大衆小説家だけの作家ではなく、後年、海軍提督の伝記や志賀直哉の評伝も著している。
 
おそらく今後も筑摩文庫は昭和30年代の大衆小説の復刊を計画しているだろう。
当時の風俗や社会性を知る上でも貴重なので、この先、末永くお付き合いしていきたいと思っている。
 
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夢二日記〈1(明治40年~大正4年)〉

 
幕末以降、多くの人の日記が刊行されているが、大別すると二種類に分かれる。
死後、公開されることを想定して書かれている場合と、そうでない場合。
例えば啄木のローマ字日記の中には、他人に読まれてはまずいという記述がある。
女郎相手の話しなので、ここでは書けないが、焼却されずに残ったことで啄木の死後、妻に読まれたようだ。
 
一方、政治家や軍人の日記には歴史的文献として後世、人に読まれることを想定して書かれている場合が多い。
で、今回、古書市で見つけた夢二日記の第一巻を読んでみた。
可もなく不可もなしと言う感想で、とにかく解り辛い。
文藝の面では荷風の日記が夙に有名でコラムなどにも引用されるが、その所以は時事ネタの多さではないかと思う。
勿論、女好きゆえ、自慢話しのような記述もあるが、軍部嫌いの荷風は敏感に時局を捉え、適格に書き残している。
だが、夢二日記には時事が一切ない。
 
画業の記述もあるにはあるが、専ら女のこと、妻他万喜と愛人彦乃に関することが多い。
荷風と違い、政治や軍事にはあまり関心がなかったのだろうか。
他方、才能ある詩人としての書き込みも随所にあるが登場人物が解り難い。
例えば他万喜の呼び名が変転目まぐるしい。
 
姫様、先生、たまき、家刀自、M、Tさんと、これが全部他万喜の別称で、他の人物に対しても同じく統一名がない。
自身の事も英語でIと印している。
更には脈絡に乏しく連続性もなく散漫的文脈。
公開、非公開、どちらを想定していたのかよく判らないが、ともあれ夢二日記が初めて公になったのは、その死後、友人の有島生馬が藤村のところに持ち込み、昭和9年11月号の雑誌『改造』に掲載されたことに始まる。
藤村は書く。
 
「有島生馬がこの日記をわたしのもとに携えて来て、これを公にしたいと言はるるままに、いささかの言葉をここにしるしそへて、竹久君が数奇な生涯をしのぼうとするものである」
 
だがどうだろう!
併しと言うかやはりと言うか、夢二日記はファン、または研究者には必須必要なものかと思うが内容を理解精査するには一般読書人には少し無理がある。
勿論、夢二が何を書こうが彼の勝手。
微細に知りたければ研究せよということだが、やはりそこまでは出来ない。
しかし、以前から気になっていた事柄を大正3年の記述から発見した。
 
男は愛する児の口から「かあやちゃんと東さんとパパさんのゐないときにねたよ」
と聞いて「さうかえ」とばかり言ってだまったしまった。
 
東さんとは東郷青児のことで当時19歳の学生。
つまり妻他万喜と東郷の浮気現場を子供が見たと言っているのだが、他の本によると、その場に夢二が踏み込んだと書かれているものもあるが実際はどうなんだろう。
終わりに文才ある夢二を少し紹介したい。
 
「今日も、アンマがたよりない笛を吹きならして長崎の方からやって来た。別荘の下へ来ると、そこへ暫く立ってピューピューっとはりあげて吹いておいて、海の音を傘でよけて耳をかたぶけて聞いてゐる、何の答へもないと、またピューとやる」
 
確かに目に浮かぶような情景描写で上手い。
 
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幕末維新懐古談 高村光雲

 
永井荷風はこんなことを言っている。
 
余裕のない現代人にはけっして承継する事の出来ないそういふ昔からなるつまらぬ職業は、手慣れた其の老人の死と共に永劫この世からはなくなって仕舞ふのである。
 
江戸情緒をこよなく愛した荷風散人らしい言葉だ。
おそらく高村光雲も似たような気持ちの中で過ぎし日の思い出を語ったのだろう。
この本は聞き語り的なもので、息子光太郎と田村松魚なる人物を相手に大正11年11月19日から12月末に至る毎週日曜日に光雲翁が語ったものを田村松魚が書き留め、後に出版されたものらしい。
時に光雲翁70歳、光太郎39歳。
因みに田村松魚とは田村俊子の夫である。
 
光雲の本名は中島幸吉、嘉永五年二月十八日生まれというからペリー来航の前年ということになる。
師は高村東雲、幸吉は徴兵逃れのため東雲の姉、悦の養子になり高村幸吉となり、その後、師匠の末妹おきせの養女、若と所帯を持つ。
 
ところで、江戸の昔は世間体などもあり十一、二歳は奉公盛りと言って十年の年季奉公に出されるのが当たり前の世の中だったらしい。
更に年季が開けると一年の礼奉公があり計十一年師匠の下で修業に励まなければならない。
当初、父親の光蔵から勧められた奉公先は大工だったが、棟梁から高村東雲が弟子を一人探しているということを聞き及び彫刻の道に入ったらしい。
文久三年三月十日、十二歳の春で、奉公勤めをするにあたって父が言い放った言葉が現代とは大違い。
 
一度師の許へ行ったら、二度と帰ることは出来ぬ。もし帰れば足の骨をぶち折るからそう思うておれ。家に来るは師匠から許された、盆と正月、一年に二度しかない。
また、この近所に使いに来ても、決して家に寄ることならぬ。
 
家に帰るのは十一年後という厳しいお達し。
その十一年後、年季が開けた幸吉は師匠から名前を貰う。
幸吉の幼名は光蔵、その光を取って東雲の雲の字を下に附け、晴れて光雲と名乗る。
世に出るきっかけになったのは明治十七年、日本美術協会に白檀で蝦蟇仙人を掘って出品したことが始まりとあるが、どんな作品か写真がないので分らない。
とにかく作品は三等賞を受賞、それまで光雲は陰の仕事ばかりしてきたので日本美術協会の何たるかも知らなかったとあるが、後年、光雲はこの日本美術協会に深く関わることになるので、ここで日本に於ける美術協会の成り立ちを少し書かねばならぬ。
 
事の起こりは維新後、日本の美術工芸品は衰退の一途を辿り、在来の日本美術は海外に流出する一方、それに危機感を持った人たちが集い、明治十三年、竜池会なる集団が出来たのが事始めで、当初は会員が所蔵している美術品を持ち寄り鑑賞し合って研究することから始まったが、次第に鑑賞側と工人側が一座になって、一緒に話し合えば尚愉しいということから会員数も増え、絵画、彫刻、蒔絵など、諸家を勧誘し、更には宮様を総裁に戴き列記とした会を成立、ここに日本美術協会の誕生がなる。
 
だが、この時代の彫刻師は全て牙彫(がちょう)と言って象牙彫職人主流で伝統の木彫りは衰退。
その後、紆余曲折を経て明治二十二年三月十二日、東京美術学校お雇いという辞令を受け、四月、美術協会の展覧会に光雲は木彫りの矮鶏(チャボ)を出品。
その作品が聖上の御還御に相成り、御嘉納あらせられる。
つまり明治天皇の目に留まり宮内省が購入するということになった。
五月、本官の辞令を貰い教授となり、奉任官五等を拝命。
因みに横山大観は第一期の普通科の生徒として入学。
 
明治二十三年十月十一日、帝室技芸員を拝命、その後、有名な楠公像の制作に関わるのだが、不思議なことに上野の西郷像制作の話しは全く出て来なかった。
如何なる経緯で制作担当になったか、また、像の評価など聞きたかったのだが聞き手、語りて双方がこの事に触れていないのはやや合点がいかない。
 
ところで、光雲という人は華美なことの嫌いな地味なタイプなのか世の時流に逆らって廃りつつあった木彫に飽く迄も拘り、師の教えを生涯忠実に守った彫刻師だったように捉えたが、年季の明けた明治七年頃は多くの仏師が廃業を余儀なくされ、翌八年には神仏混淆の廃止、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる時代に突入する中に於いても光雲の信念は変わらず、幕末、明治、大正、昭和と生きて八十二歳で亡くなった。
 
この間、世の変転凄まじく田村松魚ならずとも世相の移り変わりなど時間をかけて訊きたいものである。
後年、光太郎は父との思い出をいろいろ綴っているが、よく言われる高村親子の確執とは何だったのか、いずれ勉強してみるのも一考。
 
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戦前の昭和を探して! 大阪中崎町

 
すっかり変わってしまった世の中
いつの時代も見続けて来ました
二度と戻って来ない昭和や
帰り来ることのなかったあの人も
 
築年数は忘れましたが
みんなが生きていたあの頃を私は知っています
郷愁を探し求めるアナタ
さあ、この扉の中で新しい思い出作りを
 
 
お化け屋敷ではありません
奥、左手にレストランみたいのものが
 
 
喫茶店みたいですね
戦災を免れて異彩を放っています
古い物を取り壊すのではなく再生利用
戦前の昭和を探して来ました
 
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血盟団事件―井上日召の生涯 岡村青

 
自分で選んどいて何だが、まったくストレスの溜まる本だった。
昭和初期の歴史書には必ずと言っていいほど登場する血盟団事件井上日召
とにかく、この人物を紐解くには少なくとも大正期の米騒動から五・一五事件までの世相を知る必要がある。
私にとっては少し手に余る内容だが興味のある題材なので仕方なく購入した次第。
第一次大戦後の好景気から一転、昭和の大恐慌に至るまで日本と日本人にとって何が起きたのか掘り下げていかなければならない難題だ。
 
例えば大正から昭和に改元した頃の首相と言えば民政党の第一次若槻内閣時代。
しかし、全国各地の銀行で取り付け騒ぎが起こった事により総辞職。
原因は片岡直温(かたおか なおはる)大蔵大臣のこの一言。
 
「現に今日正午ごろにおいて渡辺銀行がとうとう破綻しました」
 
昭和恐慌の始まりである。
これが昭和2年3月14日の衆議院予算委員会でのこと。 
代わって登場したのが「オラが大将」こと長州閥の軍人田中義一
政友会総裁として首相の座に就いたが、対する民政党との政争は絶えることがなく、翌昭和3年関東軍による張作霖爆殺事件の責めを負って田中内閣は退陣に追い込まれ、代わって民政党浜口雄幸首班指名を受ける。
これが昭和4年7月2日。
 
浜口内閣は国際協調、軍備縮小、財政の緊縮、金解禁の断行、そしてロンドン軍縮会議など、難しい舵取りを抱えての船出。
蔵相は井上準之助、外相は幣原喜重郎という布陣。
しかし、対中国不干渉を唱える幣原外交は軍部から軟弱外交と謗られ、軍縮会議での多少の譲歩が致命的となり、軍部から統帥権干犯と追及され国内は大揺れに揺れ、結局、そのツケは東京駅ホームで払わされることに。
浜口首相が凶弾に斃れ、政界では疑獄事件が頻発、農村部は飢饉、もっとも急がれるべき国民の救済がそっちのけで党利党略で議会は与野党入り乱れての乱闘騒ぎ。
 
誰もが世の中を憂い、何とか世直しをしなければならないと蠢く中、井上日召率いる血盟団が動き出すというわけである。
一人一殺を掲げ、政財界の大物を誅殺するというシナリオ。
この当時の世相を知るに、政界、財閥、軍閥、民間右翼、社会主義者、一般世論とそれぞれがそれぞれの立場で世直しを考えていた。
 
軍部では3月事件、10月事件とクーデターの陰謀が露見し、世の中は混沌としている、そんな中、事件は起きる。
昭和7年2月9日前蔵相井上準之助が暗殺され、次いで3月5日に三井財閥の総帥、團琢磨も暗殺される。
内閣は第2次若槻内閣となり総選挙に討って出るが惨敗し替わって登場したのが政友会の犬養毅
が、その犬養も暗殺されるという異常事態に。
結局、田中内閣から近衛内閣まで僅か8年間に9回も内閣が代わり、その度に軍国主義の台頭を許していった。
 
だが、歴史に名を残した井上日召らの世直し運動には警鐘こそ鳴らしめたが未来図がなかった。
破壊のみあって建設がない。
国を憂うる気持ちがあればテロルは許されるのか。
些か狂信的なような気もするが、結局は政友会で犬養毅高橋是清が殺され、民政党浜口雄幸井上準之助を失った。
井上準之助は将来の首相候補と目されてもいた。
日本史は暗殺の歴史でもあるが、果たしてこれらの人々を葬り去って、さて、井上日召の目的はこれで達成されたのだろうか?
当時を知らないまでも同じ昭和に生まれた者として感慨深い。
 
因みに井上日召の本名は井上昭。
昭和の昭の字を二つに分けた名前である。
 
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黙って行かせて ヘルガ・シュナイダー

 
ナチ戦犯の中でも取り分け悪名高い人物として有名な医師、ヨーゼフ・メンゲレ
アウシュビッツ収容者から「死の天使」と言われ恐れられていたが戦後、忽然と姿を消す。
イスラエル諜報機関は必要にメンゲレを追うが、メンゲレは追跡を逃れ1979年、海水浴中に心臓発作で亡くなるまで南米を逃げ回っていた。
問題は、このような人物を父親に持つ子は当然の如く事実を質したくなる。
 
「お父さん、貴方は本当に人体実験をしたのか?」
 
さて、今回の本、一見、恋愛ドラマかと思わせるようなタイトルだが、本書はオーストリア出身、ヘルガー・シュナイダーという女性作家の自伝的小説で2001年、世界的なベストセラーになった作品だとか。
大戦中、まだドイツが優勢だった1941年、作者の母は夫と幼い二人の子供を残してヒムラー率いる武装親衛隊に自ら志願して入隊。
アウシュビッツ、第二収容所、ビルケナウで女性看守として従事し容赦なくユダヤ人をガス室に送る手助けをしてたという。
 
その母親と離別してから57年後、老人ホームを尋ねて真実を追求する娘。
つまり、メンゲレ親子の女性版のような展開になる。
90歳にもなろうとする母親を問い質し、残忍な親の血が自分にも流れているのだろうかと疑念を抱く。
生殺与奪の権限を持ち、幼子を抱いた母親をガス室送りにすることへの罪悪感はなかったのか。
 
憎しみの代わりに愛を、冷酷の代わりに慈悲を目覚めさせることは出来なかったのだろうかと煩悶する娘。
しかし、親衛隊の隊員だったことを今でも誇りに思い、ヨーロッパ全土のユダヤ人を絶滅させるという固い信念は今以って変わらずナチ政権を崇拝する母。
故に冷酷であらねばならぬと。
 
このような親を持ったことの戸惑いと哀しみ。
最後まで解り合えなかった母娘。
戦時に於ける人間の心理状態は平時では解り難い。
 
あれは何処だったか忘れたが、アイゼンハワー将軍が収容所を視察した時のこと。
悲惨極まりない状況に激怒した将軍は周辺に住むドイツ住民を駆り集め、この惨状を見せろと命令、現存している映像に逮捕されたナチの女性看守たちが映っている。
そう言えば彼女らがその後、どうなったのかあまり知られていない。
無論、ニュルンベルク裁判に女性被告はいないし処刑された女性看守というのも聞いたことがない。
一体、どのぐらいの女性がナチ党員になっていたんだろうか。
 
因みに表紙の写真は4歳の時の作者だとか。
ちょうど、母親と生き別れになった頃のもの。
 
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