天の夕顔 中川与一

 
まず、この本の解説を書いているのは文芸評論家の保田與重郎で、これが何ともややこしく難しい。
私は哲学が大の苦手、そのような論法で書かれてもよく解らない。
 
中河与一という人は川端や横光利一と同じ新感覚派の作家だが、しかし新感覚派とはこのような小説を書くものなんだ。
昭和13年の作品で、現在では6ヶ国語に翻訳されアルベルト・カミューや与謝野晶子永井荷風からも絶賛されたらしい。
そればかりかゲーテの『ウェルテル』にも比較されるほどの作品とある。
 
ことの馴れ初めは、主人公が七歳年上の「あの人(人妻)」のお母さん営む京都の下宿屋で学生生活を送るうち、そのお母さんが亡くなる。
通夜に出席すると、四十九日の観音講にも来てほしいと「あの人」に言われ、その後「あの人」の蔵書を借りるうちに恋情は高まり、再会、拒絶、別離を繰り返すが、あくまでもプラトニックのまま物語は推移していく。
作者は主人公にこう言わせている。
 
「わたしたちは熱愛という言葉を知っています。だが考えてみると、実際にはまだそれを知らぬような気がして来たのです。わたしたちはこの地上に生まれて来て、愛についての空虚な言葉の幾つかを覚えてしまいます。
しかし実際はそんなことは何も知らないのだと思います。わたくしたちは愛しました。しかし二人で疲れはてるほど抱き合ったことも愛しあったことも決してなかったのです。そしてわたくしたちはたったあの人が七つ歳上であったことのために、こんな運命の状態におかれているのだと思いました」
 
この間、二人が出会って23年の月日が流れ逢瀬もほんの数回。
あの人が転居の度に新居を見つけ手紙を渡す主人公だが、人妻の家に上がり込むことに関しては殆ど世間体というものは何も書かれていない。
与謝野晶子の感想。
 
「心と心とで堅く抱き合った二人の恋人が、いつも一歩手前で辛くも踏み止る痛々しい姿が忘れられぬ」
 
「それは恋人らの聡明のゆえである」
 
 
「作中人物の運命や思想や態度に思いをいたし、これを想像して、批評することは、ロマンスや小説の読者の一つの積極的な読み方である」
 
23年間、肉欲を満たすことなく人妻を心底愛し続ける。
崇高な男女間の愛は斯くありき、果たして可能だろうか。
今のように携帯もなければメールもない、会えない時間が愛育てるのさ目をつぶれば君がいるということか。
募る気持ちも今以上だということは想像に難くない。
 
しかし、いくら恋愛の形態が変わったとはいえ23年!
ストイックな恋は少し耐え難い。
私なら三日と持つまい(汗)
小説だからといえばそれまでだが、高潔な気持ちで人を思うことは尊ばれるものだろうか。
世俗的な色恋というよりは、宗教的な神秘性を帯びている。
或はもっと若い時に読んでいれば違う感想を持ったかも知れない。
だがしかし、流麗、巧みな表現で終局に導き、ようやく事は成就しそうになった矢先の「あの人」の死と言うのは切ない。
 
天の恋人に届けと打ち上げた花火が夜空に消える時、あの人が摘み取った夕顔と思う心情が心を揺さぶる。
 

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後列左から、保田与重郎萩原朔太郎中河与一福田清人十返肇
前列、枇杷田圭子、岡本かの子佐藤春夫与謝野晶子戸川秋骨、中河幹子


昭和13年9月 

 

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1918年4月21日 ヴォー=シュル=ソンム北側飼料ビート畑

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リヒトホーフェン機の残骸とオーストラリア兵。

第一次大戦中、レッド・バロンとして有名なフォン・リヒトホーフェン

敵味方から最高のエースとして賞賛された彼の戦死は1918年4月21日。

乗機を敢えて鮮紅色に塗装していたからかなり目立つ飛行機だった。

撃墜は80機、まさに英雄だった。

祖父東條英機「一切語るなかれ」 東條由布子

 
著者、 東條由布子とは東條英樹の孫になるわけだが、その孫が「一切語るなかれ」と言われ続けてきた禁を破ったことになるのだろうか。
これは勇気のいったことだろう。
もちろん外に向かってよりは東條家に対しての問題で、その点、心の葛藤など気になるところだ。
正確を記せば著者は結婚後、東條を離れた立場で本名は別にある。
 
まあ、そんなことはいい、問題は祖父だが、この問題を語り出したら切りがない。
思うに政治でも野球でも同じだが、現在の政策、方針が嫌だから首相、監督を交代させろ、確かに民主主義だから何を言おうと勝手だ。
しかし、現実的にはただ辞めろというだけでは意味がない。
これを会社に置き換えて考えれば分かる。
 
社長のやり方には着いて行けない。
戦略がまったくおかしい、このままでは会社はダメになる。
だから結束して退陣を迫る。
だが、現経営陣の方針こそ正しいと思う社員も相当数いる。
反対勢力としては社長を椅子の座から引きずり降ろせば事が成就するという単純なものではない。
次期社長も擁立しなければならず「安〇政治反対!」だけでは事足りない。
 
常に対案あってこその反対が現実味を帯び、単なる感情論で何でも反対ではダメなのだ。
じゃどうする、そこが大問題だ。
 
「無謀な戦争だった!」
「戦争は二度としてはいけない」
「先の戦争で310万の尊い犠牲者を出した」
 
確かにそうだ、戦争はいけない、しかし、1941年当時の世界情勢、日米交渉、国内政治などよく勉強すると事はそう簡単ではない。
戦争に踏み切った当事者の中にも反対派はいた。
戦争回避に向け努力した人たちもいるのである。
 
では、あの時点で誰がどんな方針で事に臨んだなら戦争は回避出来たのか、それを明確に答えることの出来る人がどれだけいるだろうか。
もちろん空論などは論外。
人心を纏め軍を掌握することのできる強いリーダーシップ。
東條を推薦した木戸内府の人選が正しいかどうかは別として、あの段階では文官には無理があろう。
軍、官、民と感情が沸騰点にあり、それを一戦なくして平和裏に事を運ぶ、これは余程の芸当を要すると思うがどうだろう。
軟弱外交を許せる状況ではなく、場合によってはクーデターさえ起きかねない、日本はそういう国だったのだ。
 
第四次近衛内閣はどうか、松岡に大命降下は如何、思い切って石原莞爾起用がいい、一体、誰の旗の下なら外交、政局、軍部と平和裏に事は治まったのか。
肝心なのはハルノートが提出される前でなければならない。
ハルノートを見てしまっては万事休すなのだ。
例えば、近衛総理とルーズベルト大統領の直接交渉という案も確かにあった。
結果的には水泡に帰したが、仮に実現したとしても日米開戦が回避となったかどうか分からない。
なにしろ頭痛の種は陸軍なのだ。
軍の賛成なければ事は進まない。
 
それにしても南部仏印進駐とは無謀な。
大本営政府連絡会議で進駐の方針が決定され、この目的のためには対米英戦も辞せずって、これこそが日本の命運を分けた分岐点だった。
誰もがアメリカの神経をああまで逆なでするとは思っていなかったのだろうか。
東條は遺書の中で、
 
「国内的の自らの責任は死を以って償えるものではない。、しかし、国際的の犯罪としては無罪を主張した」
 
と書いている。
また、
 
終戦直後には、東條家の大人たちには、それぞれの子供の分まで含めて一家分の青酸カリがカプセルに入れられて渡された。
 
とあるが、これはゲッペルスに倣うということになるが。
戦後、東條家に対する批判は相当なもので、筆者の5歳年下の弟は担任の女教師にこんなことを言われて泣いて帰ってきたと期している。
 
「東條君のお祖父さんは、泥棒よりももっと悪いことをした人です」
 
東條家の人は身の縮む思いで世間から隠れるように暮らしてきたが、ここに至って孫の由布子氏は敢然と立ち上がったということか。
解説で保坂正康氏は書く。
 
東條個人については、むしろ同情的であり、近代日本の矛盾が東條の背に負わされたとの感をもっている。
 
昨今、お隣の国からいろんなニュースが飛び込んでくる。
賛否両論渦巻く中、東京裁判史観に対する意見も今日様々。
どの問題にしろ、論争は絶えまなく起こり決着を見ることがない、結論は次世代に持ち越されて行くのだろう。
しかし、この問題に結論なんてあるのだろうか。
思うに、一番ほくそ笑んでいるのは誰か、常々思うところは、役者が一枚上手なルーズベルトにしてやられた感が強いのだが。
 
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タクシードライバー


タクシードライバー40 周年アニバーサリー・エディション 12/7発売!

1976年公開のアメリカ映画、今日に至っても名作のように言われているが、そんなに良かったかな。

私がデ・ニーロのファンになるのはこの2年後で『タクシードライバー』を見てもさほど感動はなかった。

しかし、制作40周年を記念して久しぶりに集合した皆さん、本当に元気でなにより。

おめでとうございます!

2016年、『タクシードライバー』40周年を記念しての集合写真。

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左より、

シビル・シェパード(68)

マーティン・スコセッシ(76)

ロバート・デ・ニーロ(75)

ジョディ・フォスター(56)

ハーヴェイ・カイテル(79)

年齢は現在の時点で。

みなさん、いつまでもお元気でいてくださいね。

 

 

 

 

ロッパの悲食記 古川緑波

 
古川緑波昭和36年の1月16日に亡くなっている。
もう大変な美食家でこの本を読む限り、仕事の話しや家庭のことなどは殆ど出てこない。
とにかく食べて呑んで、呑んで食べての食道楽。
 
人気絶頂の頃で、あまり金銭的に困った様子もなく戦時中、食糧難の時代でも食べること以外余念がない。
内容的には昭和十九年の日記を「悲食記」、エッセイの「食談あれこれ」、そして昭和三十三年の「食日記」と三章にわかれている。
 
私が同じような事柄を書いたとしたら、せいぜい昭和30年代からの話になるが、緑波の場合は明治の40年代ぐらいまで遡り、震災前の浅草十二階、戦前の街並みや食べ物、とにかく食い意地が張っている。
 
名古屋、大阪、神戸と緑波は食べ歩いているが、知らない時代の話は興味深く、出来ることならその場所に行ってみたい。
岡田嘉子水の江瀧子菊池寛、谷崎と連れ立つ相手も美食家だが、卓を囲む場面などは想像を掻き立てる。
 
緑波には膨大な日記が残されている。
全4冊からなる重厚な本で「戦前編」「戦中編」「戦後編」「晩年編」と出ているが、先ずもってこのような本を読む人は少なかろう。
ある小汚い古本屋に、その全四巻が置いてあるのを知っているが、何せ整頓の行き届かない店で、陳列場所は棚の最上段であるばかりか、其の前には山と書籍が積まれ、もう何とも感ともどうにかならないのか。
価格は高額で34,000円と貼り紙があるが、ともかく中身が見たいのだ中身が。
 
しかし緑波は自分が糖尿病であることを知っていながら、酒など軽く一升は呑み干し、比較的脂っこいものが好きで晩年は御多分に洩れず病との闘い。
それも覚悟の上の食道楽だったのだろうか。
 
昭和33年8月18日
 
「野中氏の招待で、昼、赤坂の南風荘。長崎料理。胡麻豆腐から、はじまる1コース。角煮はお代わり。飯のあと、冷しるこが出る。長崎料理の演出の面白さ。此の南風荘は、もと山田耕筰先生のお邸だった家で、庭など、むかしの山の手の家庭を思わせる。蝉の鳴き声も、山の手だ。ここの蝉は、標準語で鳴いている」
 
してみると関西のクマゼミは関西弁で鳴いているのか。
現在、この南風荘はどうなっているのだろうか。
没後半世紀余、緑波の知っている町並みの殆どが消滅したろうに。
 
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ジャン=レオン・ジェローム 1824年5月11日-1904年1月10日

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《人類に恥を知らせるため井戸から出てくる〈真実〉》(1896年)

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《ピッフェロ吹き》

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《Phryne》という名のローマ時代のヘタイラ。ヘタイラとは女性の奴隷という意味らしい。

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カエサルの死》(1867年)

 

素人が考えるに、まだ写生なら分かる。

今、そこにある物を描く。

しかし、見たことのない場面を写実的に描くなんていうことがどうして出来るのか、才能が天から降りて来る基準は何だ!

店から、というのは聞いたことがあるが、まったく、何の才能も無いからこんなブログを書いている。

 

 

地獄の花 永井荷風

 
岩波文庫には定期的に「リクエスト復刊」というシリーズがあり、これが実に楽しみだが、現代人にはやや問題もある。
まず、文字が小さく旧漢字で埋め尽くされ何とも読み辛い。
明治時代の文学ともなれば尚更のこと。
まあしかし、そこが岩波の岩波たる所以、現在では滅多に手に入らない絶版本なのでファンも少なからず存在する。
 
本書は古本屋で購入したものだが、第1刷発行が1954年6月5日となっている。
パラパラとめくるうち、果たして読み切れるかどうか、しかし裏には「品切れ」と走り書きがありやはり買うしかない。
 
帰宅後、調べて見るに、なんと初版は明治35年荷風24歳の作品とある。
どうりで、それを知って、いやはや、本当に読み切れるのか。
感想としては『地獄の花』というタイトルは少し大仰のような気がする。
解説に拠ると、
 
明治35年荷風がゾライズムの影響を受けた時期の作品で、これによって新進作家として認められた。理想の人生の実現のためには人間の動物的側面を明らかにせねばならぬという立場から、教育家の醜悪な裏面生活や、富豪の妻の不倫などを暴露して、敢然と社会悪への挑戦を試みた青年荷風の激しい意気込みが感じられる」
 
下手をすると通俗小説のようにも読み取れるが、若い荷風の気負いみたいなものが感じられ、当時の小説にありがちな、やや不自然、または、ここはもう少し緻密になど注文したきところは無きにしも非ずだが、まあそれは私みたいな素人の言うべきことではない。
性的な描写を扱う場面もあるが、その肝心な部分は全て省略されており、まあ、時代背景もあることだから致し方ないか。
 
序に猛暑に関して荷風はこんな風に書いている。
 
「残酷な日光は、至極落着いて、而も猶、無限の熱度を隱して居ると云ふ風で、動ず迫らず照り付けて居るので、此の眞夏の眞晝は、若し單調な滿庭の蝉の歌を除いたなら、全く活きたる人生の面影を見出す事は出來なかったのである」
 
24歳か!
こんな風に書けるだろうか?
明治文学の難しさは漢字にもある。
 
「凉亭」
 
これで“あづまや”と読む。
現在では四阿と書くが、これは難しかろうに。
 
「生硬蕪雜」
 
生硬とは、せいこうと読み未熟でかたい感じがすること。
蕪雜は、ぶざつ、雑然としていて整っていないという意。
まあ、何とか読み終えたから安心。
 
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