愛に恋

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父 岸田劉生 岸田麗子

 
子供の頃に親と死別するということは、死に行く親にとっても残されし子にとっても断腸の思いだろう。
子供は幾つになっても親への思慕の念断ち難く、最後の対面など忘れることが出来ない。
長い闘病生活の末のことなら覚悟も出来ていようが、突然の訃報では大海に漕ぎ出した小船からいきなり船頭を失うようなもので、ただ泣くより他ない。
そんな経験が私にもある。 
 
昭和4年8月29日、岸田劉生は神戸からウラル丸で一路、満州へ旅立った。
10月3日、無事に大連到着。
当地で個展を開き、大金片手に帰国して家族を安心させたい一心での旅だった。
近況報告も度々来てはいたが、10月28日の手紙には疲れ、睡魔、発熱の記述も見られ体調が思わしくない旨、書いてきた。
 
しかし幸いなことに、現地の白樺派ファン永原医師と知り合い、風邪かと思われた病も癒えて精力的に仕事をこなし、11月27日無事、帰国の途に着く。
内地に到着後、直ぐ鎌倉の自宅に帰ればよかったものを、友人の進めもあって山口県徳山でもう少し懐を暖めてから帰宅しようと考えたらしい。
 
個展の収入が思ったほどよくなかったのが一因だが、12月19日、そろそろ帰って来る頃だと思われていた矢先、鎌倉の家に突然電報が舞い込んだ。
 
「お父様のご病気がお悪いのよ」
「早く帰っていらっしゃればよかったんだよ・・・温泉に行ってゆっくりお休みになれば、じきお元気におなりになるよ・・・」
 
と、呟くきながら母蓁(しげるは旅仕度を整え、銀座の本家へ相談に行った。
すると今度は「危篤」の知らせが届き、夕方、蓁から麗子に電話が入る。
 
「お父様がひどくお悪いので一緒に徳山に行きますから仕度して藤沢の駅で待っているように」
 
慌てて身支度を整えて麗子は書生さんと一緒に藤沢駅に急ぐ。
到着した汽車には叔父も乗っており、一路徳山へと向かうが気はせくばかり。
翌日の午後3時頃、列車ボーイから一通の電報を渡される。
 
「劉生死す」
 
悲報に接し、蓁は人目も憚らず泣き崩れ、38歳という若さで、これから天下にその名を轟かせようという矢先の思いもかけない急逝。
 
全ては関東大震災が人生を狂わせたのか、鵠沼で被災した劉生一家は名古屋へ移り住んだが、その後、京都に居を移したが、これが間違いの元だった。
遊びを覚え、酒を浴びるように飲み借金も膨らみ仕事が疎かになった。
 
毎日、欠かさず付けていた日記も途絶え、放蕩三昧な日々を送り体は自然蝕まれる。
以来、年始には必ず、今年こそは遊びを止め仕事に精進すると誓いながらも抜け出せない。
迎えた大正15年2月末、やっと関東に戻り鍋島男爵から譲り受けた鎌倉の家に落ち着く。
精力的に仕事に没頭する以前の劉生が戻って来たかのようであった。
 
京都時代の借財もあり、何とか家族に楽な生活をと一念発起しての満州行きだったが。
萩原葉子、大田治子、岸田麗子などに限らず、娘が父を追慕して、家族にしか分からない実像を本にすることが多いが、生きているうちは、いつまでも脳裏で再生動画のように思い出すことが多い。
 
しかしそれにしても11月27日から12月19日の間に何が起ったのか?
白樺派同人たちはさぞ驚いたことだろうに。
 
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