愛に恋

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林芙美子 巴里の恋

 
 
書籍名はあくまで『林芙美子 巴里の恋』であって「巴里の恋」林芙美子ではない。
まあ大したことではないが、これまで幾人かの日記を読んできたが著名人の日記は凡そ二種類に分類される。
後世、公になることを前提として書いている。
例えば政治家の日記などはそのいい例で、大久保日記や木戸日記、または『西園寺公と政局』もそうか。
 
しかし、作家の日記はごくプライベートな記述が多く、将来、書籍化されるとは思っていなかっただろう。
本来、秘密にしておきたい日記がこうして刊行されるのも、関係者が全て鬼籍に入ったからだと推察する。
 
本書は「巴里の小遣ひ帳」「一九三二年の日記」「夫への手紙」と三部構成で「巴里の恋」というぐらいだから、彼女が外遊先で誰かとアバンチュールを楽しんだものかと単純に考えていた。
芙美子が『放浪記』の印税を旅費にして、東京を出発したのは昭和6年11月4日。
シベリア鉄道経由でパリに到着したのが23日。
 
当初、「日記」と付く限り、パリ滞在中に書かれたものが、そのまま上梓されたものかと思っていたが、どうも事情が違うらしい。
 
「芙美子がパリでの生活を日記形式で雑誌などに断片的に掲載していた稿を、まとまった形で公刊したのは昭和11年12月、改造社から出版された滞欧記が最初」
 
その後、昭和16年に日記体で著したものが「日記 第一巻」として発売され、これが本書「巴里の日記」の元になった。
 
しかし、解説を熟読するに以下のような記述がある。
 
「『巴里日記』が事実そのままではなく、あくまでも事実に基づいたフィクションである」
 
どういうこと?
そこで著者は芙美子の遺族の了解を元に本人直筆の日記を証左、これまで推測や憶測でしかなかった事柄を明らかにしようと本格的に取り組み始め、その研究の成果がこの本というわけだ。
例えば『原本』や『滞欧記』では、毎日のように誰かに会っているように書かれているが『巴里日記』では、「訪れる人もなく」と書かれている。
 
一番の問題は、昭和7年元旦から4月24日までは毎日書いているが、4月18日のみ空白となっている。
それに4月25日から6月30日までの記述が明らかに破り取られている。
これは何を意味しているのか。
 
恋人出現は昭和7年4月1日、大宅という人に紹介された白井晟一(せいいち)という建築家らしい。
これ以降4月24日まで毎日のように白井の名は日記に登場する。
そして25日の日記からは破り取られる。
著者は以下のように推理する。
 
空白の18日、二人の間に何かがあった。
おそらく男女間の何かが。
19日の日記には「顔をそむけたし」とあり、
20日には「胸いたむおもい」となる。
21日は「心つめたし、心空し、心痛し」
22日は「何もかけず国では皆々困っているだろう、何としても何としても私が悪いのです。全く何としてもだ」と続く。
 
確かにこう読んでくると著者の推理通り、18日に二人の間に一線を越えるような何かがあったと考えるほうが理に適っているように思う。
しかしこの後、白井は日付こそ分からないベルリンへ帰るとある。
 
芙美子は29歳。
既に画家の手塚緑敏(りょくびん)と結婚しており、経済的に裕福とは言えず帰りを待つ夫に対して、自責の念に駆られたような記述になっている。
 
因みに芙美子がパリへ出発した年の9月は満州事変勃発の影響で円は暴落。
12月には犬養内閣の金輸出再禁止で更に円は大暴落。
翌7年1月、上海事変が起こり、2月には前大蔵大臣の井上準之助が暗殺され、続く3月には三井財閥の総帥團琢磨も暗殺された。
そして5月15日には犬養首相も暗殺されるという事態に、芙美子日記にも内外情勢のことを憂いているような箇所も散見できる。
 
しかし、写真で見る林芙美子は美人とは言い難いが、男運には恵まれていたのか、はたまたその才能が男性を惹きつけたのか、何れにしても才能のある作家だったことは間違いない。
 
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