最近、三浦友和や山口百恵を知らない20代の女の子と話をしたが、なら、古川ロッパなんて誰が知ってるねんってなもんだろうか。
どうだろう、80代以上ならよく知っているだろうか。
戦前、戦中には大変な人気者だったらしいが、私が生まれ育った頃には、その余燼があったかどうか分からない。
ロッパと同時代人で知っている人といえば、まず、トニー・谷だ。
昭和の30年代末、「アナタのお名前、なんてぇの」なんて言いながらソロバンをジャラジャラ弾きながら、確か夫婦をステージに上げて歌い、踊り、これがお茶の間で大ヒット。
次に柳家金語楼、当時、NHKのバラエティーで「ジェスチャー」という番組があり、水の江瀧子と一緒に出てた記憶がある。
そして人気爆発だったエノケンこと榎本健一だが、殆ど戦前の話で知らないが、確か、昼過ぎのラジオ、
♪ ビ~キタンタらギッチョッチョンでパイノパイノパイ
なんて歌う陽気な番組があり、それを毎日聴いたような気がする。
映画はレンタルで1本ぐらい見たはず。
他にエンタツ・アチャコなど有名だが、これまた全盛時は知らない。
然し、これまたレンタルで2・3本借りたことがある。
ところで『古川ロッパ昭和日記』というのを見たことがあるだろうか。
昭和9年~15年『戦前編』、20年7月まで『戦中編』、27年までの『戦後編』、35年までの『晩年編』と4分冊で、各巻二段組900ページ前後と膨大なもので、それでも行方不明の部分があるという。
更に昭和9年以前のものは、どういうわけか本人が焼却したというから、それがあれば日記文学としては世界に類例を見ないほどのものだったろう。
本人も言っているように、完全な日記魔で、当用日記九冊、自由日記一冊、五か年日記一冊、大学ノート九十七冊で、早稲田大学演劇博物館に所蔵されているとか。
然し、これを活字化するのはさぞかし大変だったろうに、なにしろ4百字詰原稿用紙で3万枚というから驚く。
仕事に関しては映画、芝居、ラジオと忙しく、座長として団員を食わせていかなければならない苦労もあり、稼いだ割には金は残らなかった。
著者は、軍事、政治、経済とロッパが生きた時代を活写し、ロッパ自信もそれらのことを日記に書いているわけだが、盧溝橋事件が起きると友人知人が徴兵され戦地に赴く事柄が多くなる。
噺は前後するが、声帯模写というのはロッパの造語なのかよく知らないが、とにかくロッパは子供の頃からその道に関しては天才だったと多くの人が語っている。
本人の特徴を捉え話すのが得意で、みなを笑わせたとあるから、よっぽどだったんだろう。
こんな記述がある。
大正14年、西宮香櫨園にあったキネマ旬報社を訪れていたロッパは、神戸福原の遊郭へ繰り出し初体験を済ませると、深夜に宿舎に戻って寝入っていた同人たちを起こし、顛末を語りはじめた。
登楼すると、お銚子と突き出しが運ばれ、秋田生まれの女が姿を見せる。
「アンチャ、東京ダベ、学校ドコ、カクスタッテ、チャーントワカッテルヨ」
得意のズーズー弁を語り出すと、同人たちの眠気は吹っ飛び、爆笑がとってかわる。
弁士の話を聞き慣れていたこともあり、ロッパの表現力は豊かで、よくその場の雰囲気を出していた。
初体験の段も語ったというが、観客である同人たちは、いったいどのような反応をしたのだろうか。
話を戻すが、昭和20年、空襲が激しくなると人間ばかりか私財なども疎開の対象となり、田舎に大事な荷物など送る人も増えたと思うが、蔵書家のロッパは膨大な本を疎開させるかどうか悩んでいたが結局決断がつかず、そして!
「うわ、やられたのか。うーん、家がなくなったか。然し、何だか本当のような気がしない。あの玄関、あの廊下、茶の間、二階机辺、本が惜しかった、一冊も疎開させなかったのが悔しい。情けないぞ、家なしだ」(5月27日)
まったく情ない話だ。
大切な本もあったろうに、何故、もっと早く疎開させないんだ。
こっちまで嫌になってくる、こうなることは分っていたではないか、まったく。
更には7月28日以後の日記は散逸して、肝心な原爆、ソ連参戦、玉音放送などの部分はなくなっている。
誰か持っているなら、この際返してほしいと思う。
ところで、レンタルで見たロッパの映画は『東京五人男』ではないかと思う。
古川緑波 花菱アチャコ 横山エンタツ主演 斉藤寅次郎監督作、昭和20年とあるので、戦後間もない焼け野原の東京で撮ったことになる。
もはや落ち目になったロッパで、エンタツ・アチャコばかりが目立ち印象が薄く、面白味に欠けていた。
戦後のロッパは税金の滞納、貯金も無く、働かなければ家族がおまんまの食い上げで、
「静養などしてゝは、皆が食へないのなり。倒れる迄、つまり駄目になる迄働いてやる。無茶とは分かってゐるが、くだらなく生きるのは嫌、もはやすべて未練なし、貯金さへあれば、今日死んでもいゝんだよ。やれまァ貧乏したくないもの、税が仇、恨みはらさでおくべきや、今死んだら税務署へ化けて出る」
繰り返し、繰り返し体力の衰えを訴え、血反吐を吐きながら、それを隠し痩せてもなお、仕事に励むロッパの悲痛さに胸が締め付けられる。
昭和30年、ロッパ初の監督作品『陽気な天国』が日活から封切られる。
現在、この作品を見ることは可能なのだろうか、先ずTSUTAYAには無いと思うが。
ロッパの死は昭和36年1月16日だが、34年7月27日にはこのように書いている。
「日記。これを書きつゝ思ふ。もう何冊この日記をつけることになるか。兎に角、日記している時は幸福なり。我、日記と心中せん」
「嬉しくてたまらないんだ、日記を書くのが。こんなもの、まるで無駄じゃないか。俺の死後は、誰も読むわけでなし、この時間も労力も、無駄だと思ふが、やめられない。この日記病」10月15日。
若し、彼の時代にワープロでもあったら、もっと簡単に、或いは膨大に彼は打ち込んだのではあるまいか。
誰も読むわけでなしとロッパは言うが、おっとどっこい、ここに私が少しながら読んでおりますぞ。