居眠り狂志郎の遅読の薦め

未だ休読日に至らず

母の恋文 谷川徹三・多喜子の手紙 谷川俊太郎編

 
大正版、西野カナと言っては失礼だが、まあしかし、会いたい、切ない、夢にも会いに来てと乙女心炸裂の手紙と言えばいいだろうか。
現代でも純愛という言葉が生きているかどうか知らないが、大正の昔、意志の伝達が殆ど手紙という手段しかないとなると、それこそ、郷ひろみではないが「会えない時間が愛育てるのさ」という言葉がピッタリで私もその点、よく理解できる。
 
まず、谷川徹三・多喜子とは誰か、息子が詩人の谷川俊太郎と言えば分かるだろうか。
二人の往復書簡は大正10年6月から12年7月まで延べ537通!
もう、気が狂うわんばかりに慕い、逢瀬が待ち遠しいと縷々、クドイほどに書かれている。
今、別れたばかりなのに、もう会いたい。
後を追っかけるように手紙を書く。
そんな二人が初めて出会ったのは大正10年6月3日、ある音楽会の夜のこと。
翌年の2月17日、多喜子はこう書いている。
 
あの晩、あなたにお目にかゝったと云ふ事実は、本当に偶然なのです。けれど、私が生まれてからさがし求めてゐた人は、あなただったのです。他の誰でもありません。
 
紆余曲折はあったが二人はその後、大正12年9月に結婚。
ところで谷川徹三といえば哲学者として多くの著書を残しているが、私は哲学が何と言っても大の苦手。
その彼の思想が手紙の随所に表われ、まあ一通の分量の長いの何のって。
疎い私は何を言いたいのかさっぱり解らず。
愛を表現するにしても例えばこんな文章。
 
愛が一つの生きた力として私の生活にまではたらき、喜びに於て、悩みに於て、私を支え、高める不思議な根源的な力として意識せられたことは、いままでになかったことですから。
 
私はこんな文章を嘗て恋人に、手紙、メール、ライン等で送ったことがない。
それに対し多喜子も答える。
 
私は、ほんとうに、あなたに心をすっかり奪われてゐます。二晩もつゝけて、あなたの夢をみました。、そして目をさましてゐる時でも、いつも心の中であなたのお名をよんだり、あなたの名前を書いたり消したりしてゐました。
 
若い服の男を見る度に、あなたを思ひだしてゐました。ほんとうに私は、幸福です。私の心には、いつもあなたが入来(いらっしゃ)るのです。
 
夕べもあなたの夢をみた。此間殆んど毎晩の様に、あなたの夢をみます。今晩もきっとみる。
 
早く逢いたい、逢いたい、逢いたい。私逢いたくて死にそうです。
 
徹三は詩の返礼を書く。
 
忘れて来たその花、いま私はあなたと共に、なつかしく思ってゐます。
恋人よ、静かな午後の裏庭で、今日もあなたの跫音を聞けたなら、どんなに私はうれしいでせう。
 
恋人よ
かくも深く愛する二人が
未だ互いの唇を知らないことを
私たちは誇っていゝのか、恥ぢていゝのか
私は知らない。
 
大正11年6月25日、徹三は多喜子の父、長田桃蔵に手紙を書いて結婚の許しを願っているが、その中に、こんな文面がある。
 
高等学校以来、私の生活は漂泊のうちにあり、ある時期に於いて遊蕩をさへしてゐます。そして私はもはや純潔ではないのです。
 
つまり、童貞ではない私ですが、純潔なお嬢さんを是非、私に下さいと言っている。
そして。
 
私は、かなり前から、あなたと一緒にゐると、時にあなたの唇に対する欲望を感じるようになりました。
 
当時、多喜子は胸の病で毎日、微熱がある状態。
それを労わって、徹三は優しく自分の胸の裡の欲望をこんな遠回しな手紙で書き口説いているのだろう。
しかし、ガラスの玉を大事に大事に壊れないように掌に包みながら育てていくような愛の状態は、全く涙ぐましい努力がいるようで現代の私たちの感覚では、とてもこんなゆっくりしたペースでは進行できない。
 
 
先にも書いたが私が哲学者を苦手とするのは、例えばこんな文章。
徹三の手紙の記述だが。
 
理性、況や皮肉な吾性は或場合には情熱の前に謙遜であるべきである。
 
こんなことを言われて多喜子の方は文脈を理解していたのだろうか。
私には何を言っているのかさっぱり解らない。
更に話しが逸れるが大正10年11月24日の徹三の手紙に「ドロシー・ギッシュの絵葉書を見つけた」という記述がある。
調べてみるとドロシー・ギッシュとはリリアン・ギッシュの妹らしい。
リリアン・ギッシュ無声映画時代からの大スターだということは知っているが、妹も女優だとは知らなかった。
 
また、12月13日にはカリガリ博士を見たとあるが1919年作のこの映画を私も以前見たが、さっぱり理解出来なかった。
 
さてと、本の末尾には「三十年後の手紙  多喜子から徹三へ」と題して手紙が掲載されているが、これほど愛し合った二人だが一粒種の長男、俊太郎が生まれたのは結婚後、8年もしてからだった。
共に病気を患ったためもあるだろうが、その後、徹三はどうも何人かと浮気をして家に帰らない日もあったようだ。
それでも夫一筋、愛を貫いた多喜子の手紙は30年前と何ら変わることなく、読んでいて未だに可憐な少女のようで胸が痛い。
 
本には結婚当時の写真と昭和50年8月の仲睦ましい二人、その風貌はすっかり面変わりして、品のいい老夫婦になっているが、解説で俊太郎はこう締めくくる。
 
呆けとそれに続く長い植物状態のあと昭和59年に母は死んだ。
1年後、90歳になった徹三は「鎮魂歌」として長い詩を書いているが、「有難う、多喜子」なんて言われると、こちらまで泣けてくる。
長い歳月を経て先立つ者、見送る者、どちらも哀しいですね。
 
ブログ村・参加しています。
ポチッ!していただければ嬉しいです♡ ☟