夭折の画家 佐伯祐三と妻・米子 稲葉 有

 
佐伯祐三が画家の道に進もうと思った動機は武者小路実篤の『その妹』を読んで感動したからとある。
戦地で失明し、画家になれなかった主人公に代わり自分が絵の道に進みたいと思い、武者小路にファンレター送ったと。
その手紙を武者小路家に出入りしていた吉薗周蔵なる人物が武者小路に断って返信を書いたことから二人の交友が始まり、後に佐伯のスポンサーのような存在になる。
 
上京した19歳の佐伯は東京美術学校の受験に備えるべく川端画学校に学び、吉薗を訪ね、牧野天心堂医院「救命院」最初の患者となるとあるが吉薗は当病院カウンセラーの手伝いで、その関係で救命院神経科医師牧野三伊の診断結果が吉薗の日誌に残されている。
それを見ると。
 
佐伯の性格分析
◎非社交的、静かな様子、控え目、堅固、変人に見える。
◎臆病、引っ込み思案、繊細、敏感、神経質、興奮しやすい。
◎従順。善良。正直。無頓着。鈍感。
◎生真面目さと自閉症
◎敏感ー鈍感とつながる。
◎分裂症気質、こういうものを合わせ持っている点が特徴。
分裂病人格障害者は他者との関係、情緒的な関わりをもつ能力と動機づけに欠陥はもっているものの、思考、知覚、行動に奇妙さは見られない人が多い。
 
疑い深い点。
一旦疑ってしまうと解疑できず、心の底で疑いを氷のようにとどめている。
よって、心の底は冷たく、自らは、親しい友人をほとんど作れないことになる。
◎所見
やはり分裂病予備軍と考えるのが妥当と思われる。
 
米子の分析
 
◎言葉の丁寧な婦人だ。商人の出だとは思えない。
◎体温と脈拍は婦人がとる。
◎体温37・1度 脈拍88。
◎今日は熱があるようだなと私が言うと
「そりゃそーや、ヴィーナス熱や」と祐三が言う。婦人はよく笑い、よく喋る。仲々弁が立つ。
 
牧野先生の所見では、
ああいう患者には、あの形の目から鼻に抜けたような女房殿は良くないのではないかね。
 
以上だが、本書は単なる伝記本だと思っていたが、どうも杏子なる女性が佐伯夫婦の足跡を追うルポを小説化したような本で、その結末がこれまで聞いたことのなかった結果になる!
つまり、小説なので調べた結果は全て杏子の調査に拠るもの。
吉薗の職業だが、カウンセラーの傍ら、各地のケシを纏めて製薬会社に納入、又は上原勇作元帥の要請で海外邦人の動静も探っていた。
当時、パリにいた薩摩治郎八が在仏画家のパトロンで、有り余る財力を国際主義運動に注ぎ込み、それが日本の国益を損なうおそれありと危惧した吉薗は、その動静を探っていたが、治郎八の夫人千代子に強く惹かれていたのが佐伯だったというのだ。
 
なるほど、少し入り組んでいるが、そういうこともあったのか。
その佐伯だが渡仏後は美校の先輩洋画家の里見勝蔵に兄事し、何かと世話になっていたらしいが、ある日、里見が教えを受けるフォービズムの御大モーリス・ヴラマンクに祐三は絵を見てもらうことになった。
ヴラマンクは絵を見るなり、
 
「このアカデミック!」
 
と皆が驚くほどの大声で怒鳴り!
 
「サトミ、こんな画を見たいと僕は君に云ったか?」
 
と叱責され、以来、佐伯の苦悩は計り知れないものだったらしい。
その後の佐伯の変転は省くが、身体に異常を来たし、吉薗に出した手紙には。
 
命運つきたり
右手が死んだ
我の国にもどるべきや
妻此巴里に染むれば我一人にてもどるべき
これも修行の内か
なれば今日も写生に赴く、これ惰性ゆえ
来られたし
来られたし
 
(原文はカナ)
昭和3年3月18日
 
このあたりから佐伯と米子の関係が破局へと向かって行き、絵心がある米子は、佐伯の友人荻須高徳と不倫しているというのである。
因みに米子は川合玉堂に南画、共立美術館で北画を習い二科展にも5点入選しているところを見るとかなりな腕前だったのだろう。
佐伯は「今頃はいつもひとりなので」と吉薗に書簡を送り、米子が荻須のアパートに行ったっきり帰って来ないと言っているので浮気は佐伯自身も認めていることになるのか。
その後、昭和3年5月の絵ハガキ「俺はもうだめです」とあり、日時不明のメモには「米子はんと荻須のこと、許してやってください、全部、ワシが悪いんやから」とある。
体調芳しくない佐伯にたびたび離婚を迫っていた米子の浮気はやはり事実ということか。
話がややこしいが米子は佐伯の絵に北画的な筆を加え、佐伯はそれを見て自分の絵らしくないと言っている。
 
ヴラマンクに面罵された後も冷静な米子の指導によりヴラマンクを脱却、独自の画風を立てたのも米子の存在の大きさ故、しかし、佐伯の画風と米子の加筆が両立しなくなると、米子は荒れ始め体調不良に陥り夫婦は一挙に別居状態へ。
米子はひとり娘の弥智子を置いて出て行ったが、彼女の懸念は佐伯が吉薗にどこまで加筆の件を漏らしたか不安を抱き、ここに至って佐伯の殺害を決心したのか。
そんなことがあり得るだろうか?
しかし、佐伯の日記には!
 
米子はんはまたいつか、ガス栓を開くと思います。
 
とある。
この後のことを時系列書くと。
 
吉薗、昭和3年1月
陸軍の密命で渡仏。
 
2月
佐伯と荻須は吉薗から金を借りてモラン地方へ写生旅行。
 
2月中旬
吉薗はパリで佐伯に会う。
「この時、佐伯は元気そのものだった」と吉薗日記にはある。
 
3月13日
佐伯一家は荻須の見つけてきたリュ・ド・ヴァンヴのアパートに引っ越す。
 
3月15日
米子は原画500枚の分与を条件に離婚話を進めるが煮え切らない佐伯は返事をせず。
以来、米子は荻須のところへ通い、佐伯は先に書いた薩摩千代子のアトリエに通う。
佐伯の体調に異変が現れたのはこの時期「目がよく見えない、舌が痺れる」と周蔵宛書簡にある。
 
6月4日
友人の山田新一は佐伯の顔に「一種の死相を見た」と書いている。
 
6月13日
作家の芹沢光治良は多くの訪問客の中で佐伯の結核は問題にするほど重症ではなかったと期す。
 
佐伯が薩摩千代子に体の異変を感じたのは引っ越し直後で、それらの事実が『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』の著者落合莞爾のレポートにも書かれているらしい。
そのレポートによると佐伯の死後、吉薗夫婦が渡仏して死因を捜索、その結果を「周蔵遺書」として纏めたものを娘の明子が証言している。
 
しかし、父は佐伯君は、米という細君によって、少量づつ、砒素を投与されていたものと、判断しています。彼は昭和3年、パリの精神病院で、飲食を断り続けて衰弱死しました。砒素に関しては、父は雑貨屋から確認をとりました。
 
つまりこういことになる。
吉薗は佐伯が住んでいた辺りの雑貨屋で砒素入りの殺鼠剤が売られているのを確認、それを米子が買ったことまで突き止める。
 
落合レポートは言う。
佐伯は吐血、しびれ譫妄(せんもう)症状、など、典型的な砒素中毒だと。
佐伯の担当医ジョルジュ・ネケル医師の書簡も記載されている。
 
5月29日
患者は心の安定を失っている。精神病ではないが、心が荒廃している状況にある。治療を求めているが、打開策はない。今、彼を助けることの出来るのは神だけである。
彼が今熱烈に望んでいるのは生きることであり、必要とするのは生きる力である。
 
6月12日
患者は、夫人と友人たちから後を追われていると信じており、精神状態はさらに悪化することが見込まれる。私は、これ以上の治療を夫人から禁じられてしまったのが残念だ。彼の娘の治療も禁止された。娘は別の病気で、明らかに薬物中毒に陥っており、症状は重篤と見るべきである。私はあなた方を助けられないことを、とても残念に思っています。これで報告を終わります。
 
米子は娘にも毒を盛ったということか!
その後、あいつで亡くなった二人の遺骨を抱いて帰国、下落合の佐伯のアトリエで44年間住み続けた。
なんか松本清張みたいな話になってきたが、仮に殺害したとして動機は何か?
佐伯の死は8月16日だが2月には元気に写生旅行をしている。
その2月に撮られた父子の写真がある、確かに元気なように見える。
 
 
米子が離婚の条件として作品を500枚要求した件はどうか。
佐伯の死後、それらの絵に加筆し自分の作品にしようと思っても不思議ではないと!
どうなんだろうか、もし、これがらの事が本当なら即NHKで特集を組んでもおかしくないと思うが、何ら世間で動きがないところを見ると・・・!
誰か反証はないのか。
 

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