愛に恋

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一茶の日記 北小路健

 
小林一茶は現在の長野県信濃町柏原に宝暦十三年(1763)五月五日に父弥五兵衛、母くにの長男として生まれている。
身分は中農の上で本名は弥太郎、三歳で生母と死別、八歳の時に継母が来て、二年後、腹違いの弟仙六が生まれる。
その後の弥太郎は継母に虐げられる毎日で、日記にはこのように書かれている。
 
「弟仙六お抱守りに、春の暮れおそきも、はこ(大便)によごれた衣を絞り、秋の暮れはやきも、ばり(小便)に肌のかわくときなかりき。仙六むづかる時は、わざとあやしめる(虐める)ごとく父母にうたがわれ、杖のうきめ当てらるゝ事、日に百度、月に八千度、一とせ三百五十九日、目のはれざる日もなかりし。憑(たの)みと思ふは老婆(祖母)一人介(たすけ)となり給ふに、餓鬼の地蔵を見つけたるごとく、あやふき難はのがれたり」
 
だが、その祖母も弥太郎十四歳の時に病没。
翌年、継母からの虐待を見かねた父に言われ奉公先を求めて江戸に出る。
その後、三十九歳の春三月、柏原に帰郷するまでのことはよく分かっていないが、俳句で身を立て、将来は宗匠として一家を為すために全国行脚を繰り返し弟子を募って行ったようだ。
 
ところが、五月二十一日に父が六十九で病死。
一茶を苦しめる永年の遺産相続問題が始まるわけだが、遺言では田畑を弟仙六と折半し嫁を迎えて柏原に落ちつけというもの、だが継母と弟はそれが気に入らない。
十五の歳からの長い間、他所で暮していた人間に何で今更財産が折半なのか。
しかも、地所は一茶出郷の頃に比べると倍増しており、その殆どが継母の働きで増やした田畑。
 
父の死後、一端江戸に戻った一茶が次に帰郷するのは七回忌法要の時。
その間、まる六年間というもの遺言は実行されず、遅々と進まない相続問題交渉のため、何度も家を訪問する一茶だが。
 
十八、晴、足の痛み常ならず。木末(こずえ)一本あが仏とたのみて僅五里ばかりを3日かゝりて、漸(ようよう)古郷見ゆる二十塚といふ山にいたる。むつまじき仲ならば、とくとく行きて昼から寝ばやと思へど、かねがねねぢけたる家内の輩例のむくつけき行跡迹(ぎょうせき)見んも罪作る。又一里越して野尻に泊。
 
足が痛み、たった五里の道のりを普通なら半日の行程だが三日もかかってしまい、家の前を通り過ぎ、更に一里先の門人の家に泊まったとぼやいている。
それもこれも家人と不仲な所為だと。
 
十九日、村長誰かれに逢いて我家に入る。きのふ心の占いのごとく(昨日、予想したとおり)素湯(さゆ)一つとも云ざればそこそこにして出る。
 
こちらから言わなければ白湯一つ出ない待遇だと。
更に継母に対しては酷い感想。
 
でくでくふとりてにくにくしき有りさまなり
 
しかし、我等としても一方的に一茶の側に立つわけにはいかない。
折半を良いことに一茶は迫る。
田畑はもちろん、同居を前提に持ち家の半分は寄越せと、さらには七年間の家賃も要求。
一家の嫡男と雖も継母が怒るのも当然、両者、一歩も譲らず。
日記には父の遺言がこのように書かれている。
 
父は病の重(おも)り給ふにつけて、孤(みなしご)の我身の行末を案じ給ひてんや、いさゝかの所領はらから(異母弟仙六)と二つ分けにして与んとて、くるしき息の下より指図なし給ふ
 
仙六は不満だったが、これが父の遺言。
以来、何度となく江戸、柏原間の六十里を往復するが、しかし、六十里と言えば凡そ240㌔、50歳にもなろうとする一茶の脚力や以って思うべし。
私なら三つ先の駅まで徒歩で行くのさえ疲れるというに。
だが一茶はこの距離を毎回六日で踏破している。
昔の人は、この程度は常識だったのだろうか。
ともかく、父の遺言がある以上、一茶は不退転の決意で交渉に臨む。
その頃に詠んだ句がいい。
 
 是がまあつひの栖(すみか)か雪五尺
 
文化十年正月、一茶は老いを感じるようになる。
 
すりこ木のやうな歯茎も花の春
かくれ家や歯のない口で福は内
かすむやら目が霞やらことしから
 
交渉は一向に捗らない。
 
遺言の家及び倉其外籾滞金卅両引取らんとす、仙六不得心なる因つて、明廿七日出立、東都御糺所に上訴せんとす、然る所明専寺御坊和を乞ふ因って延引
 
つまり一茶は三十両という賠償金、家屋敷の半分、所帯道具の分割譲渡を迫る。
承服しなければ、この一件を江戸勘定所へ上訴すると脅す。
そこで明専寺の和尚が仲に入り十一両二分で折り合いを付け、他は全て一茶の主張通りで決着をつけ全面勝利になった。
父が没したのは一茶三十八歳の時、十五で出郷して以来、数回の帰国にして、この強引な主張に継母や異腹の弟から毛嫌いされ、同時に村人たちの不評も買った。
 
文化八年六月十六日の日記。
 
折々夕立雨 一茶歯一本欠る
 
大事にしていた最後の歯が欠けた日、これで全くの歯無しになってしまった。
ともあれ、交渉は成立。
一茶の生家は間口九間三尺八寸、奥行二十三間一尺、面積約二百二十坪、これを折半。
つまりは壁を隔てて北側を継母、仙六と妻、南側を一茶一人が住むという環境になった。
 
後は妻を娶るだけ。
その念願が叶ったのは文化11年4月11日、一茶52歳にしての初婚。
それもまあ、歯のない一茶に菊という二十八歳の新妻というから驚く。
一茶は、常人の定命とされる五十年もの間、女体への飢渇感に苛まれて来たわけで、これより以降、ひたすら交合に励む。
文化13年4月14日、待望の長男千太郎を出産するも二十八日後に死去。
とにかく一茶は子供が欲しかった。
日記を紐解くと。
 
六日 菊水(月経)
七日 菊実家に帰る
八日 五交合
九、十、十一と休んで
十二日 三交
十五日 三交
十六日 三交
十七日 三交
十八日 三交
十九日 三交
廿日  三交
廿一日 四交
 
つまりはこういうことになる。
月経と門弟周り以外の日は励みに励んだと。
しかし、これは驚くべき回数だ。
確かに日記には精力剤の薬草集めの記述もあるにはあるが、五十歳を過ぎてこの絶倫。
後日には五交という日もある。
結局、菊は三男一女を儲けるが皆、満二才を迎えることなく他界し、菊も三十七歳にして病没した。
子供達はみな虚弱体質を享けて生まれ、そもそもの原因として一茶の病歴から性病を疑っている。
 
露の世は露の世ながらさりながら
 
第二子を失った時の有名な句だが結婚以来九年、白頭無歯になった一茶は全ての家族を失った。
だが、一茶は諦めず雪(38)なる女性と再婚、これは短期間で離縁。
不幸は重なり二度目の中風に罹るも再起。
六十五歳迎え、やをという三十二歳の女性と再再婚。
二年後、やをは女児を産むが、それ以前に一茶は再度、脳卒中を起こし敢え無く天に召された。
晩年の一茶は不幸続きで家を火災で無くし土蔵しか残らなかった。
 
失った時を必死になって取り返そうとでもするかのように励んだ一茶。
虚弱体質で夭折した子供達、その原因は梅毒にあったのではと仮定している。
その証拠の句がある。
 
吉田町廿四文でもなめたかと思はれんと推察候へば
 
とあるように江戸での貧困時代、夜鷹を相手にしていたようだ。
こんな句も残している。
 
木がらしや廿四文の遊女小屋
 
当時、夜鷹の値段は廿四文が相場だった。
一茶の一生は、虐待、俳句、財産分与と交合だったとも言える。
芭蕉は生涯に一千句、蕪村は二千句、一茶は二万句と言われているが。
「一茶翁終焉記」にはこう書かれている。
 
俳諧李白、涎もすぐに句になるものから、一樽の酒に一百吟、その句のかるみ、実に人を絶倒せしむ、世挙(こぞ)って一茶風ともてはやす
 
最後に自分自身を梟に擬したもので一句。
 
梟よ面癖直せ春の雨
 

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