語彙力こそ知性という本があったような気がするが、私もそう思う。現代語はあまりボキャブラリーというのを感じられない。例えば落語などではこんな会話が出て来る。「三年前国許において、我が父を討って立ちのきし大悪人。ここで逢うたは盲亀の浮木、優曇華の、花待ちたる今日の対面、親の仇だ、いざ尋常に勝負、勝負」「仇呼ばわりしゃらくせ」と、実に素晴らしい譬えで話しているが、「盲亀の浮木、優曇華の、花待ちたる今日の対面」とは、目の見えない亀が百年に一度大海で浮き木に偶然めぐり合ってその穴に入ろうとし、また三千年に一度咲くという幻の花、優曇華の花に遭遇したような、願ってもない絶好の機会という意味だが、よく、ここで逢ったが百年目というが、その後にこのセリフが続くと考えたらいい。本来、日本語は美しいものなのだが、現代人はそれを無下にだらしなく汚いものにしてしまった。「ムーンライト・セレナーデ」のお時間です。昨今は 江戸の昔が 懐かしや 淀の川風 身に染みてなお。おやすみなさい、また明日。