昔から友人との間で、よく森繫さんのことは口の端に上ることが多かった。
多くの友人に先立たれ、さぞ寂しい想いをしておられるだろうというのが、会話の接続に出ることがしばしばで、その森繫さんの、「あの日あの夜」、つまりは昔のことを思い出すまま書かれた随筆を読んでみた。
時折、下ネタなど交えながら、つま弾くように語られる森繫節は話芸達者な人だけあって面白味も増している。
例えば「人は感情に結ばれ、理性によって離婚する」などは、全くその通りで、そのいい実例が、この私だ。
結婚したはいいが、一年も経たないうちに理性の目が芽吹いた。
またある人に、とあることを訊ねたら。
「ご老体、長寿の秘訣を一つ・・・」
「早く女の関係を断つことです」
「ハァ、ハイ、なるほど、ならばご老体はいつごろ」
「私は早い方でした、八十五ぐらいかな」
これは加藤唐九郎翁のことだとか。
花咲きぬ 散りぬ
実りぬ こぼれぬ
われしらぬ間に
日経ぬ月経ぬ
柳原白連女史の歌。
思えば友は声なくさり、親も兄弟も死にはてた。
何とも大正っ子は淋しい。
まこと明治と昭和の間にある大正とは、置き去りにされたような時代だ。
わずかな命脈を華々しく咲きもせず、”友どち”はただいたづらに異土の戦場に生涯を果て、祖国を遠くにらんで一生をあえなく終焉する。
なんとも寂しい文面ではないか。
父も大正っ子なのだが。
さらにこんな知らない諺をつかっている。
糟糠の妻は堂より下さず
貧しい時から苦労を共にしてきた妻は、自分が出世した後も家から追い出せないという意味。.
へえ、昔の人は上手いこと言うね。
個人的な好みとして、私は明治の20年代から大正生まれの人が書いたものが好きで、知らない時代を生きた人の、古き良き言葉を愛しているからに他ならない。
このロシア民謡の詩はどうだろう。
はてしない 草原に
馭者ひとり
倒れふした
ふるさとは 遠すぎて
死は近く
力つきぬ
わが馬よ 聞いてくれ
お前だけが
最後の友
この指輪 この想い
わが妻に
とどけてくれ
わが妻よ 悲しむな
この荒野に
われは眠る
いざさらば わが友よ
ふるさとの
父よ母よ
私好みの詩ではないか。
光陰の速かなること、白駒(はっく)の隙(げき)を過ぐるが如し
どうこれ、人の一生は、白い馬が戸の透き間の向こうを、さっと通り過ぎるほどの、きわめて短い時間しかないこと。
現代人ではこういう喩えはできないね。
桐一葉落ちて天下の秋を知る
森繫さんは言い得て妙だと言っているが、なるほど、確かに言い得て妙だ。
落花狼藉
これに関しては森繫さんは廃語にするのは惜しい、現代語に訳すには長くなると言っているが、これは確か処女損失という意味合いではないのか。
どうだろうか、森繫さんほどの教養人の話を聞くのは、さぞ面白ろかろうと思い到るが、私にとって父の生きた大正時代というのは、実に興味深い。
出来るものなら行ってみたい時代なのだ。
その風に当たり、その時代の文物に耽り、大正デモクラシーの波を受けてみたい。
見果てぬ夢ですね。