約二か月ほど前のことか、行きつけの喫茶店で以前から気になっていた、おばあさんに声を掛けた。
そのおばあさん、他の五月蠅く煩わしいおばさんと違っていつも一人で来てはトーストを食べ、あとは黙々と本を読んでいる。
少し気難しそうな顔で、おそらくは古本屋で買ったカバーなしの古ぼけた物ばかりを手にしている。
感心なのは、かなりの高齢なわりに老眼鏡を掛けていないことだ。
その喫茶店は横一列に座るようになっているが、いつか隣に座ったら声を掛けてみようと、その機会を長らく伺っていた。
自分で言うのも何だが、私はかなり人なつっこい性格で、もうこの店で6人ほどの知り合いを作った。
40代の保険会社の女性セールスウーマンを除けば皆、おじいさん、おばあさんばかり。
さらに若い女性店員3人とはすっかり顔なじみで、パチンコ仲間の五月蠅いおばちゃん達を除けばいい店なのだが。
余談が長くなった。
さて、本命のおばちゃんだが、その二か月前ほどのこと、やっとこ隣に座ったのをいいことに、
「良く老眼鏡も掛けずに読めるね」
と一声するに、直ぐさま反応して笑顔敬語で応対してきた。
さらに私は問う。
「いつも古そうな本を読んでるけど、それ古本屋で買ってるんでしょ」
「そうなんですよ。ここ真っ直ぐ行くと右っかわに小さな古本屋があるでしょ、あそこで」
「ワゴンセールのやつを買ってるの」
「うん、安いからね」
「然し、あの中には大した本はないでしょ」
「でも私、何でもいいのよ」
「じゃ、僕の家に本なんかいくらでもあるから、今度持ってくるよ」
という経緯から三冊ずつ貸し出し、私たちは急速にお茶飲み友達のようになってしまった。
もちろん、相手との年齢差はかなりある。
いつしか「おかあさん」と呼ぶようになり、これで大阪に来て以来、4人目のおかあさん誕生というわけだ。
して、私たちは喫茶店で会うたびに話題を広げ、お母さんの生活状況まで話が及ぶようになった。
離婚後に旦那は下の娘を連れて出たなり、死亡して娘は行方不明。
長女は既に病死、今は5万円の賃貸住宅で独り住まい。
但し、歩いて数分の所に弟夫婦、またその近くに子供夫婦と、その孫たちも居れば友達にも不自由はしていない様子。
ただ、コーヒー嫌いの友達とは連れだって店に来ることはない。
最近のおかあさんは、私に会うと水を得た魚のように饒舌で、あまり好きではないトーストと一緒付いて来るゆで卵を私に渡す。
話は今後の生活不安など、私もいつしか真剣に話を聞くようになってしまった。
然しである、いつも帰り際に決まって言う。
「何か買う物はありませんか。ついでだから」
その都度、私も決まって言う。
「いや、別にないですよ」
初めのうちはそれで済んでいたのだが、いつしかおかあさんは、いろいろ食材を持って現れるようになった。
ある時は高級なイチゴ。
またある時は、リンゴと、見たこともないようなミカン。
さらに、友達が作ってくれたという餃子。
そして手作りのカレー。
然し、昨日貰った、そのカレーと一緒に写真のチョコレートが入っていた。
初めは何のことか分からず、何故、チョコレートなんかわざわざ買ったのかと訝しんでいたが、ふと思い当たった。
そうか、明日はバレンタインなんだ!
人生、長く生きているといろいろな事が起きるものだ。
おかあさんは齢77歳、まさか、そんなご高齢の女性からチョコレートを貰うとは、夢、思わなんだ。
そのおかあさん、病気の話になると恐い怖いと言って私の体験談など、話していると背筋が寒くなるのか、夜、トイレに行けなくなると弱気の虫を連発するので、その都度私は喝を入れる。
「ダメ、そんなことじゃ。病気は先手必勝。気力で立ち向かって行かなくちゃ」
「いやもう、私なんかいつお迎えが来るかも知れないから」
「何言っとんのおかあさん、最低、後10年は生きないと。本も沢山読んで、まだまだ生きようよ」
「うん、どうかな」
「どうかなじゃないよ。まだまだ生きるぞと思わないと。生きてるうちが花だぜ」
と、私の方が常に叱咤激励。
ところが先日、喉の奥に巨大な扁桃腺を見つけてしまった私。
指を入れてよくよく調べるに、凡そ喉奥の3分の2を塞いでいる、それはそれはどでかい扁桃腺。
ちっとも気づかなかったが、いつごろからか気道が狭くなったのは知っていた。
よくむせることがあり、咳が出る。
それも一旦出だすとなかなか止まらない。
更に、現在は睡眠時無呼吸症候群で、鼻に酸素マスクのような物を付けて毎日寝ているのだが、審査結果では1時間に20回も呼吸が止まっていたらしく、それは心臓に悪いとか。
ある時などは自分のいびきで目が覚めたこともあり、全てがこの扁桃腺に由来したものと考えているが、その結果が総合病院で明日の11時に聞かされることになっている。
悪くすれば悪性リンパ腫、または白血病、何れにしてもがんに繋がる。
良ければ単なる扁桃腺肥大。
しかし、どちらにしても入院が必要になるだろう。
明日、入院ということはないだろうが、それらのことは先日からおかあさんに言ってある。
「よくそんな平気でいられるね」
と、驚いているが、昔から私は悪運に強く、いつも死んだ父に見守られていると思っているから、心筋梗塞、大腸がん、坐骨神経痛などすべてをクリアして、今回も強気で立ち向かう。
それしかないのだ、必ず大丈夫と信じて明日の11時に先生の部屋を訪のう。
明日の山崎の戦、先に天王山を取るのは明智十兵衛光秀ではなく、このわしじゃ。