鏡花ファンという人が存在するのは知っているが、私にはどうも肌合いが良くない。
というか解らない。
未だ師匠の尾崎紅葉の方が分かりやすいし、漱石や鴎外、または上司小剣、広津柳浪なら読みこなせるのだが。
買う時に迷ったのだが、復刊なのでつい手を出してしまった。
調べてみると岩波で計3冊読んだことになるが、もう今日か明日なんて言ってられない、鏡花は読まない。
例えばこんな文章を分かるだろうか。
因みに梓が男で蝶吉が女。
惡汗一つ掻いたことのない、黒子も擦傷の痕もない、玉の如き身を投じて、之が枕歌の一室に蝶吉と衾(ふすま)同うする時は、然ばかり愛憐の情は燃えながら、火中一條の令龍あって身を守り婀娜窈窕(あだえうてう)たる佳人にも梓の肌を汚さしめず、幾分の間隙を枕の間(なか)に置いたのであるが、一朝(あるあさ)、蝶吉はふッと目を覺して、現の梓を揺起して、吃驚したやうにあたりを見ながら、夢に、菖蒲の花を三本、莟(つぼみ)なるを手に提げて、暗い處に立っていると、明くなって、太陽(ひ)が射した。黄金のやうな其の光線(ひかり)を浴びると、見るみる三輪ともぱっと咲いた、何故でせう、といって、仇氣(あどけ)なく聞かれた。梓は恰も惡夢に襲われて、幻の苦患を嘗めて居た、冷汗もまだ止められなかった位の處へ、この夢を話されて、表を赤うするまで心に恥ぢた、あわれ泥中の此の白き蓮(はちす)に比して、我が心却つて汚れたりと、學士は染々蝶吉の清い心を知った。
何とか苦労してパソコンに打ち込んだが、これを岩波文庫の小さな文字で読むということを想像してほしい、結構大変なのだ。
然し、以下の文章を読むに、なかなかの名文で鏡花ファンというのは、このようなところに惹かれているのだろうか。
「臺所は晝になって、唯見れば、裏手は一面の葦原、處々に水溜、これには晝の月も映りさうに秋の空は澄切って、赤蜻蛉が一ッ行き二ッ行き」