先ず、646ページもある本書は、1994年に中央公論社から発売されたらしいが、今日まで文庫化されないのは、売れないから、読む人がいないから、または中野重治って誰ってなところだろうか。
まあ、読むには読んだが腕が疲れることは甚だし。
一貫して書かれているのは病弱で一人娘の卯女(うめ)の看病、どうしてこうも風邪などを引くのか、40度近い熱が出る事しきりで、それをまた中野は日々、体温を計り小まめに記録している。
面白い記述としては堀辰雄と一緒に大原美術館へグレコの絵を見に行った時のことが、昭和17年2月28日にある。
堀は体が弱っていて階段を上るのも苦しい由とあり、
「堀はおとなしい人だった。しかし物にかまわぬところがあった。雷鳴のような後光が射しているような品で、堀はあたりかまわずグレコの礼賛をした。むろん大ごえではなかったが、あたりに人がなきがごとくだった」
『受胎告知』とあるので、これのことか。
中野は文筆家なので、家にいることが多いが驚くのはその読書量で、始終古本屋に出かけては本を買うのだが、昭和17年3月28日の記述に徳富蘇峰の『近世日本国民史』全50巻を買って右手で提げて帰って来たとある。
これを読むということは大変なことだが、その前後でもかなりの本を買っている。
昭和18年6月5日には、
山本元帥国葬ノ日、野菜類に鶏糞ヲヤル
と、 あっけない記述で、まるで隣のおやじが死んだが如くで素っ気ない。
朝日新聞には、「一億慶弔けふ山本元帥の国葬、霊前に勅使御差遣畏し誄を賜る。十時五十分全国民遥拝」とあり場所は日比谷公園で、当日は九年前の東郷元帥の国葬と同じ日だった。
然しその日、中野は野菜類に鶏の糞をやっていたというわけだ。
同年6月12日の注意書きに以下のような記述がある。
日中戦争、太平洋戦争の戦費調達のための国債は、980億2600万円発行された。
1941年以降は、国債残高が国民所得を超過、国家財政は破綻の状態にあったと言われている。
まだ終戦まで2年以上あるではないか。
一体、東條内閣はこの事態を何と思っていたのか、アメリカの工業力をあまりにも甘く見過ぎている。
中野はといえば、畑仕事、知人の病気や知り合いの死去など相変わらずで、空襲が激しさを増してからは、妻子を疎開させとあと蔵書もなんとか疎開させようと苦慮している。
と同時に以前、治安維持法で検挙されたことから保護観察対象になっているので、毎日のように警視庁に呼び出されている。
そして日増しにつのる食糧難に陥いっていたこの日、
「昭和20年6月22日、午後10時半頃防衛招集令来ル。東部186部隊明後1時入隊」
6月26日、信州上田に出発とあり、そのまま上田で終戦を迎えた。
著名人が終戦をどのような気持で迎えたのかは興味の対象で、多くの人が日記を残しているので、なるべく多く読みたいと思っている。