調べてみるに、阿川弘之氏は1920年(大正9年)12月24日生まれだとか。
戦後、ポツダム海軍大尉として博多に帰還している。
短気なところが私の父と似ているからして、何年生まれか調べたのだが、特別他意は無い。
ただ、私の父は「口で言うより手の方が早い」という性質(たち)で、本当によく叩かれた。
因みに父は大正5年生まれで戦時中は特務機関員、戦後、同じく博多に帰還している。
それはともかく、阿川家の親子関係は読み手には実に面白い。
佐和子さんの誕生日の時、家族で中華料理を食べに行った。
食事が済み外に出た瞬間、佐和子は「おお寒む」と一言いった刹那、
「何だと、先ず最初に、お父さん、今日はありがとうございましたというのが礼儀だろう」
といきなり叱られた。
車に乗った帰り道でも父の怒りは収まらず、溜まり兼ねた母が、
「もういいじゃありませんか。佐和子も誤っているんだし」
と助け船を出すと、怒りの矛先は母に向かい、
「だいたいお前の教育がなってないからこんなことになるんだ」
と今度は母が泣く番になる。
またある時は、
「いったい誰のおかげでぬくぬく生活ができると思っているんだ。誰のおかげでうまいメシが食えると思ってる。養われてるかぎりは子供に人権はないと思え。文句があるなら出ていけ。のたれ死のうが女郎屋に行こうが、俺の知ったこっちゃない」
とこうくる!
さらに、「郷里のミカンをお届けします」というはがきが来ると、まだミカンが届かないうちにすぐさま、「みかんをお届けいただきありがとうございました。おいしくいただきました」と書いて送ろうとする。
それを母が「ちょっと待ってください。まだミカンは届いていないんですから」と制ししたら、父は礼状を書かなければいけないと長く思い続けるのが苦になると応えた。
とまあ、こんなような父親であるからして、世間様のこちらとしては、つい面白く読んでしまう。
今ならかなり顰蹙を買うような父親像だが、さらにそれに輪をかけたようにこんなことを言う。
物心ついた頃から「女はバカだ」と罵倒する父のもとで生きてきた。テレビのクイズ番組に女性の回答者が出演すると、その人がまだ何も答えてないうちから、「バカが、女が答えられるわけがない、バカが」
これでは奥さんも娘も堪ったもんじゃない。
では、阿川氏は女性をどのように見ていたのか、氏が書かれた『舷燈』という小説の中に手掛かりがありそうだ。
「お前は俺にとって立派な妻になってくれた。立派というのは、賢くてしっかりしているという意味ではない。少しも堂々としない、影のように目立たない、そういういい奥さんになってくれた。俺は、お前という者がいて倖せだった。女の、虚栄、出しゃばり、亭主の仕事への口出し、嘘、権謀術数ともいえぬ女らしい世間智の小細工、他人への嫉妬、自分は極度に嫌いだった。もしそれが、女というものの属性だというなら、そんなものが常住身辺に居座っていられる事に、自分は耐えられないと思っていた」
さだまさしじゃないが、これは典型的な亭主関白だが、良くも悪くも今や絶滅危惧種。
女性が社会進出した現在なら逆に三行半を叩き付けられそうだ。
ただ、私には解らないことがある。
こういう父親の元で育つのは幸か不幸か。
結局、女郎屋に行かず、如何にも真面目そうな佐和子氏を見ていると、「女はバカだ」という概念は的外れではなかったのか。
さらに、泣いてばかりいた佐和子氏は、今や立派な文筆家。
私の父も阿川氏に負けず劣らず厳しかったが、借金地獄や飲んだくれこそならなかったものの、単なる丸出駄目男の烙印を押されそうな人間になってしまった。
然し、阿川氏の師匠、志賀直哉なこんなことを言っている。
志賀邸にあいさつに赴いたおり、奥さんから、
「うちの娘も年頃ですから、誰かいい人がいたら紹介して下さい」
と言うと、奥から志賀さんが出て来て一言、
「君みたいな人じゃない方がいい」
これには流石の阿川氏も参ったらしい。
因みに阿川弘之の友達など、この世代の作家は沢山いるが、遠藤周作、北杜夫、吉行淳之介など、みな佐和子氏と面識があったようだが、淋しいかな全員が鬼籍に入られた。