REJANE - SARAH BERNHARDT - LUCIEN GUITRY. PARIS 1910.
サラ・ベルナールの映像は何本か残っているが、これを見れば分るように、彼女はやや脚を引きずるように歩いている。
これは、高所から衝立の後ろに落ちる場面があった時、裏方の人がクッションの設定位置を間違え、舞台に直接転落して片脚が不自由になってしまったためで、この傷は生涯彼女を苦しめ、結局は片脚切断に到ってしまった。
サラの偉業というものは、とても一言で語れるものではなく、これまで私が思っていた、ありきたりな評価などでは物足りないほど凄かった。
台詞覚えが早く、素晴らしい美声で人々を魅了、彼女の才能なら、どの芸術分野に進んでも、それなりの成果を残せたともある。
例えば彫刻、動機は至って簡単で、ある彫刻家に自分の胸像を作ってもらうため、モデルになりながら、いろいろ質問しているうち、自分でやってみようという気になり、僅か二週間のレッスンでコツをを取得、このような作品を残した。
《Ophelia》1880年
そんな彼女に惹かれてなんて気障なものではないが、ともあれ数か月前『サラ・ベルナールの世界』へ行って来た。
ハッキリ言ってどんな人か知らなかったので。
といってもサラの壮大な経歴をブログで語れるものではない。
普仏戦争でフランスがプロイセンに負けたことを相当屈辱に思っていた、サラほど働いた女優もない、世界大巡業で大金を稼いでは湯水のように使いまくった、その金銭感覚は少し常軌を逸しているなど、突出した個性だということはよく分かった。
例えば、パリ右岸の一住宅地に新邸を建て、召使、秘書を10人以上、三台の馬車と六頭の馬、二人の御者、毎夜十数人の客に食事をサーヴィス、孤独を愛する反面、一人旅も出来ないくらい淋しがり屋で、陽気なことが好きだった彼女の豪奢な生活ぶりでは、いくら金があっても足りなかったようで、これほどの荒馬を御すことの出来る男の存在があれば、今少し穏やかな人生を送ることが出来たようにも思えるが。
然し、実際は年下の大根役者に熱を上げ結婚、後年知人に、
「いくつになったら、恋をやめられるのかね?」
と訊ねらたところ、
「最後の息を引きとるところまで、今まで生きて来たように生きていたい」
と答えて知人を唖然とさせた。
最後の舞台は、1922年11月29日、イタリアのトリノで行われた『ダニエル』で幕を閉じたが、それ以前、特注で作った車椅子収納の自家用車で事故に遭い、移動手段を電車に頼るようになって急速に体力も衰え、疲労困憊の末、パリに戻り、それでも次回公演に向かっての稽古に取り組む。
あくまでも仕事優先で、とにかく金、金、金の人生だったが、1923年3月26日永眠、享年79歳。
21日まで映画撮影していたようで、何度目かの尿毒症に襲われたのが死因だった。
葬儀は盛大なもので、たまたま獅子文六がそれを見て一文を残している。
サラ・ベルナールの葬式ほど盛観類を絶したものはなかった。