愛に恋

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九条武子

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大正三美人の筆頭、九条武子、どうだろうかこのお顔
以前、柳原白蓮については確か記事を書いているので省くが、今一人は林きむ子、または新橋の芸者江木欣々という説もある。
九条武子は京都西本願寺法主二十一世大谷光尊(伯爵)の次女で、実兄大谷光瑞シルクロード探検隊としてよく知られた人物。
短歌は佐佐木信綱に師事、絵画を上村松園に就いて学び、明治41年男爵九条良致(貞明皇后の弟)と結婚。
『青眉抄』の中で上村松園は九条武子を見てこう評している。
 
九条武子夫人は、松契という画号で、私の家にも訪ねて来られ、私もお伺いして絵の稽古をしていられました。武子さんの、あの上品な気品の高い姿や顔形は、日本的な女らしさとでもいうような美の極致だと思います。あんな綺麗な方はめったにないと思います。綺麗な人は得なもので、どんな髷に結っても、どのような衣裳をつけられても、皆が皆よう似合うのです。いつでしたか、一度丸髷に結うていられたことがありました。たいていはハイカラで、髷を結うていなさることは滅多にないので、私は記念に、手早く写生させて貰いましたが、まことに水もしたたるような美しさでした。
「月蝕の宵」はその時の写生を参考にしたのです。もちろん全部武子夫人の写生を用いたという訳ではありませんが……

大いなるものゝ力にひかれゆく
     わが足もとの覚つかなしや
 
武子夫人の無憂華の中の一首であるが、私は武子夫人を憶い出すごとに、この歌をおもい、あの方のありし日の優しいお姿を追想するのであります。

生没は1887年(明治20年)10月20日 - 1928年(昭和3年)2 月7日)となっているから満40歳ということか。
死因は敗血症、急死だったようだ。
 
因みに結婚後、初めて丸髷に結はれたのが昭和2年頃だと思うので松園の言う、
 
「いつでしたか、一度丸髷に結うていられたことがありました」
 
と言うのは最晩年の頃か。