「積ん読」という言葉は世界に誇る日本語らしい。
オックスフォード大学出版局は「愛書家が知っておくべき10の言葉」として「tsundoku」を挙げている。
英語には、未だ読めないまま積んでおく状態を一言で表す単語がなく、日本の読書文化が生み出した見事な言葉だとある。
然し、中には「積ん読病」と言われる人もいる。
読めないのに買い続けてしまう病だが、いつか読みたいと思っている本からも人は影響を受けるという。
つまり、読めない本との間にも無言の対話が成り立つ。
会って話したいと願う人にも似て、その存在を遠くに感じながら、相応しい時期の到来を待っている。
なるほどね!
確かに時期の到来を待っているという説には納得する。
私が間接的に知っている人の中に「積ん読本」が千冊を超え、今後、読みたい本が約二千冊という人がいるが、こういう人は何と呼べばいいのだろうか。
もっと驚くのは現在82冊の本を同時進行で読んでいる人がいる。
そんなことがあり得るのだろうか。
私の場合、積読本をゼロにすることはないが、然し、最近の傾向を見ると少し異常な状態になっている。
読むが早いか、買うのが早いか、私は速読家ではないので時間を労して読む。
読書が娯楽ではなくなってしまったのはいつ頃からか。
識りたいという思いが先行して、こんなドツボに嵌ってしまった。
正直、読書は苦痛で格闘技のように疲れる。
本来、性に合わないのではないかと思っている。
眼精疲労も進み視力が落ち、眼科の御厄介になっている。
確か、45歳頃からか老眼鏡なしでは文字が読めなくなり、何でこんな目に遭わなければいけないのかと自問自答を繰り返しながら、これからも読み、そして買う。
時節柄、地震が心配な毎日だが、これも致し方あるまい。
この他にもまだ積読本はありますが、この雑然とした小汚い状態、本来は人様にお見せできるものではありませんが、今回は特別に。