私の父は大正五年の十一月生まれだが、この時期、日本の総理大臣職にあった者は長州閥出身の寺内正毅(マサタケ)。
日露戦争時、桂太郎内閣の下で陸軍大臣を勤め、のちに初代朝鮮総督となり尊大でかなり不人気な人物でもあったらしい。
寺内の長男は寿一(ヒサイチ)というが、二・二六事件で八人の大将が現役を去ったため筆頭の中将だった寿一が正毅と同じく陸軍大臣に就任。
この寿一が中学の頃、つまり東京高師附属中学校の同級生が文豪永井荷風。
軍人志望の寺内と文士志望の荷風、所詮気の合わない二人はある日のこと、校則で禁じられていた長髪に香料入りのチックで髪を分けていた文弱の徒、荷風を硬派の寺内一派が校庭に引きずり出し衆人監視の中、鉄拳制裁を加えたことで荷風は生涯、寺内を嫌うようになった。
荷風の昭和十一年三月十八日の日記に、
『中学校にてたびたび喧嘩したる寺内寿一は、軍人反乱後、陸軍大臣となり自由主義を制圧せんとす』
という記述がある。
廿七日になると『可恐可恐』と自由主義者たる荷風は恐れを為している。
荷風の「断腸亭日乗」を紐解くとなかなか面白い。
政治家や軍部批判の記述も多いが女好きの荷風は当然、女性遍歴を披瀝せずにはいられなかった。
すなわち昭和十一年一月三十日の項に、
『つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左に列挙すべし』
とあり十六人の女の名が並んでいる。
帰朝とは洋行帰りということだが、それをこちらもつれづれなるままに眺めていくと十一人目に「白鳩銀子」という名がある。
「シラトリ」と読むのだろうか。
また下に注意書きがあり、
『本名、田村智子。大正九年頃折々出会う。陸軍中将田村怡与造三女』
とある。
『怡与造』とはイヨゾウと読むが、田村怡与造は日露戦争直前まで参謀本部の参謀次長として対露戦略戦術を一手に引き受けていた作戦の神様と言われた陸軍の逸材だが、開戦直前に過労のため急死した人だ。
その将軍の末娘と不倫関係にあったというのか。
不倫と書いたのは大正九年当時、田村智子はある陸軍将校の妻で、夫の名は本間雅晴という。
当時、大尉だった本間は智子との間に二人の子供をもうけ、大正七年春に駐在武官としてロンドンに単身赴任。
智子は少女時代から、その美貌と派手な行動で様々な噂が立てられていたらしく、いわば軍人の妻らしからぬ女だった。
本間の帰国は大正十年九月中旬、もはや心の離れていた智子を取り戻すべく必死に嘆願したらしいが結局、同十年十二月十六日に協議離婚している。
本間雅晴という人は陸軍きっての親英米派で、シェイクスピアやコナン・ドイルなどを原書で愛読、英語で詩を作り、文学を愛する軍人らしからぬ軍人として中央からは軽蔑の目で見られていた。
然し昭和十六年、中将に進級していた本間はフィリピン方面軍第十四軍司令官として敵将のマッカーサーと対峙することになり、コレヒドール要塞攻撃に手間取り、責を取らされ攻略後に予備役編入になった。
以来、表舞台から遠ざかっていた本間だが戦後、マニラの国際軍事法廷から戦犯容疑で逮捕状が出た。
本間中将の映像はいくつか残っているがマニラに送還されたときの出立ちは白の麻のスーツらしき上下に、完全なスキン・ヘッドでどこか強持ての風貌だが目元の優しい将軍だった。
本間には40をこえる訴因があったが、殆どは本間の預かり知らぬことで、バターン半島にあるコレヒドール要塞陥落後に捕えられた捕虜の数が、日本軍の予想を遥かに上回ったため、食料問題なども考えマニラまで数万人を徒歩行軍させざる得なかった。
然し、炎天下の中の行軍とあって多くの死傷者を出し、これが大きな戦犯理由の一つになった。
元帥ダグラス・マッカーサーとしては唯一、軍籍に汚点を付けた本間中将。
昭和21年2月、マニラ軍事法廷に和服姿で背筋をピシリと伸ばした日本人女性が証人として出廷。
本間の後妻で名を富士子といふが、この時の発言が居並ぶ連合国検事団を黙らせた。
「フィリピン島方面攻略軍最高指揮官、本間雅晴陸軍中将とは、あなたの目にどのように写る男性か」
との質問に、
「私は束京からここへ参りました。私は今も本間雅晴の妻であることを誇りに思っております。私には娘がひとりおります。いつの日か、娘が私の夫、本間雅晴のような男性とめぐり会い、結婚することを、心から願っております。本間雅晴とはそのような人でございます。本間は、小さなことでも逃げ口上を言う男ではございません。彼は心の広い人で、細かいことに拘りません。また彼は平和的な雰囲気を創り出し、その中で過ごすことを好みます。彼の行為はすべて、このような姿勢に基づいているのです。たとえば、外で嫌なことがあっても、彼はけして家に持ち込んだことはありません。常に微笑を浮かべて帰宅しました。本間はそのような性格の人です。彼の趣味の第一は、読書でございます。古今東西の書物を読みます。また詩作もいたします。スポーツの趣味については、青空の下でテニスに興ずることを好みます。毎週日曜日にはテニスをやっておりました。狩猟や魚釣りは好みません。それは本間家代々の伝統でございます。彼は、生きるためならいざ知らず、趣味として楽しく遊んでいる鳥を撃つことはできない、と考えておりました。それもまた、本間家代々の家風です。宗教でございますが、本間はすべての宗教について研究し、それらに関する多数の書物を持っております。キリスト教をはじめ、多くの宗教指導者について語っておりました。しかし、本間家は仏教徒でございます。本間も仏教を信奉しております」
答弁がが通訳によって伝えられると、法廷のあちらこちらからすすり泣きの声が上がった。
次席検事マニュエル・リムまでが嗚咽を漏らすに及んで、ついに本間は堪えきれなくなり目頭を押さえ号泣する。
何年か前にこの場面のフィルムが見つかり一度見たことがあるが、人間のドラマがここにある、そんな感想を持った。
だが、軍事法廷で死刑判決が下ると勇敢にも富士子はマッカーサーに面会を求め、
「裁判記録を読んで最終決断をせよ」
と迫る。
記録を読めば本間が無罪であることがはっきりする、然しマッカーサーはそれには答えず、
「生活に不自由があれば便宜を図る」
と申し出たが富士子は、
「お気持ちだけで結構、奥様にもよろしく」
と流暢な英語で答え席を立った。
後日、刑は執行されたが絞首刑は取り消され、武人の最期に相応しく銃殺刑となった。
その日、本間は目隠しを断り銃殺隊をカッと睨みつけ最期に放った言葉は
「さあ来い!」
だった。
一般的には屈辱的な敗北を受けたマッカーサーの本間に対する復讐劇であったとする説が有力だが、私もその節を指示する。