愛に恋

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黒田日記

明治、大正期に活躍した日本洋画壇の巨匠・黒田清輝は、明治17年フランス留学中の2月9日から約40年間に亘って日記を書き溜めている。
その黒田画伯が亡くなったのは大正13年7月15日。
当時の新聞を見ると。
 
黒田清輝子絶望/昨日からカンフル注射で辛うじて持堪える・・・帝国美術院長黒田清輝子は昨年十二月腎臓病に糖尿病を併発し、さらに狭心症を起こして麻布芋町一七七の別邸で三浦、吉本両博士、渡辺、島田、山口各学士等の診療をうけていたが、六月三十日朝俄かに胸の苦悶を訴え脳貧血を起こして以来病勢は急に革まって危篤に陥った。主治医は一日から引き続きカンフル注射により辛うじて子の生命を保持しているが、既に親戚一同は同邸に詰め切り門下生杉浦非水、中沢弘光、跡見秦、岡野栄、岡常次、桜井知足氏も急を聞いて馳せつけ恩師の病床に昼夜看護をつとめている。」

『東京朝日新聞』(1924年7月3日付)
 
黒田日記を読むと最後の日付は大正12年1月7日、つまり「昨年十二月腎臓病に糖尿病を併発し」とあるので、この年の12月に腎臓病になったということか。
前日の6日の記述には。
 
 
「一月六日 土 晴 
氣温稍々昇ル 松方君ヲ其別莊ニ訪ネ二時間許語リ一旦歸宿 後チ小田原街道ヲ散歩ス 湯河原中西屋ナル青木子爵ト電話ヲ交換セリ 同子モ明後八日歸京ノ豫定ナリト云フ「寸鐵」ノ讀殘シヲ讀ム」
 
現代語に改めると以下のようになる。
 
「気温、いよいよ昇る。松方君をその別荘に訪ね2時間ばかり語り一旦帰宿。 後ち、小田原街道を散歩す。湯河原中西屋なる青木子爵と電話を交換せり。同子も明後8日、帰京の予定なりと言う。『寸鉄』の読み残しを読む」
 
この時代、松方君というのは元老松方正義のことを言っているのか少し気になった。
松方正義は薩摩閥の長老で首相経験者でもあり黒田とは同郷だが、その年齢差は親子ほどもある。
 
松方は天保6年2月25日(1835年3月23日)の生まれ。
片や黒田は1866年8月9日(慶応2年6月29日)生まれで、31歳も違えば郷土の先輩として「松方君」呼ばわりはやや異な感じがする。
黒田は養父の死去により子爵を襲爵し、貴族院議員の立場にもあったが松方は公爵。
では誰か他の松方なのかと思うが、これはどうなる。
 

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黒田が大正4年頃に描いた《松方公肖像下絵》というものだが、ここに描かれている人物こそは、まさにその松方正義公爵ほかならない。
では二人の没年はどうかと調べてみた。
するとどうだ!
 
松方は大正13年7月2日に89歳で他界している。
一方の黒田は同じ年の7月15日、57歳で没した。
僅か13日違い。
う~ん!?
併し松方にはこんな逸話がある。
本人は大変な女好きで妾腹に産ませた子も含めると何と15男11女の子沢山。
或る日、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられたが咄嗟に思い出せず、
「後日調査の上、御報告申し上げます」と奏上したという。
或は「松方君」というのは、この15男の内の誰かなのだろうか?
 
そこで思い出した。
有名な松方コレクションの松方幸次郎だ。
慶応元年12月1日(1866年12月1日)で父は元老松方正義
つまり黒田とも同郷で同年生まれ。
「黒田君」というのは絵画趣味の松方幸次郎に違いない。
 
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