愛に恋

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教訓忘るべからず!

 
江戸時代、何かと迷信深い日本では地震ナマズが暴れて引き起こすと考えられていた。
昔は、
 
地震、雷、火事、親父」
 
今は、
 
地震原発、火事、津波
 
記憶では、私が初めて災害に見舞われたのは昭和34年9月の伊勢湾台風だったと思う。
家の前を濁流が流れて行く様を懐中電灯片手に大人に混じって見ていた。
天災は一瞬の間隙を縫ってやってくる。
大阪の大正区大正橋に安政南海地震津波碑」というのが建っている。
そこに以下のような記述がある。
 
「大地震、家崩れ出火」
「山の如き大浪立」
「大地震の節は津浪起こらんことを兼而(かねて)心得、必ず船に乗るべからす」
 
石碑には地震の恐ろしさと教訓が事細かく書かれているが、何故、人々はこの地震の教訓を後世に残したか。
安政時代と言えば「安政の大獄」を思い出すが、先の嘉永年間では黒船襲来や転変地異が続いたため朝廷は安政改元
安政とは「政事を安らかならしむる」と読めるが豈図らんや、政局は混乱を極め、尊王か佐幕か攘夷か勤皇かで天誅の嵐吹き荒れる時代になった。
 
安政の大獄が始まる4年前の安政元年11月5日、紀伊半島四国南方沖で地震が発生。
大きな震動に襲われた大阪の人々は次の余震を恐れ、川に浮かんだ小船に非難。
江戸時代、商業の中心だった大阪には川が多く地震の際には舟に逃げ込むのが習慣化していた。
しかし地震から2時間後、津波が発生、川を遡上し町を悉くのみ込み甚大な被害をもたらした。
 
被害を拡大させたのは5ヶ月前に起きた別の地震の経験も災いしていた。
同年6月、伊賀上野地震発生。
この時も大阪の町民は川舟に逃げたが、内陸地震だったため津波は起こらず、この体験によって川舟への避難こそが最善の手段だと思い込んでしまった。
 
伝承によると、この地震の際、大阪のある商家の女性ばかり6人が津波にさらわれ死んだため寺で葬儀が行われた。
その際、僧侶が過去帳を調べると不思議なことを発見、以下のように記している。
 
「百三四十年前、右の家、津波ニテ、一家六人死シタル由記録アリ」
 
遡ること147年前に起きた宝永地震がそれで、この時も大阪で津波が発生し7千人以上の死者を出した。
その犠牲者の中にこの一家の先祖六人も含まれていた。
これほどの惨事があったにも関わらず何故体験は伝承されなかったのか。
その理由は以下の如き。
 
「右ノ事話シ出セバ傷心ニ耐ヘサル故 兎角言ハヌ様ニイタセシ」
 
悲しみのあまり地震のことは話さなくなったと。
そして宝永地震の教訓を活かさぬまま147年後の安政南海地震
舟に逃げて津波に襲われるという同じ過ちを繰り返すことになった。
石碑には宝永地震の悲惨な体験を教訓として活かせなかった悔しさが刻まれている。
そして碑文は訴える。
 
「年月が経てば伝え聞く人もほとんど無く、今また同じ場所で多くに人が亡くなった、痛ましいこと限りない」
 
締めくくりは以下の如く。
 
「心あらん人、年々文字よみ安きよう墨を入れ給ふべし」
 
そして現在も被災者から5代目の人が年に一度、墨を入れて読み易くしている。
今年は2019年、安政南海地震から165年経ったが!
 
教訓忘るべからず!