昔は、
「地震、雷、火事、親父」
今は、
記憶では、私が初めて災害に見舞われたのは昭和34年9月の伊勢湾台風だったと思う。
家の前を濁流が流れて行く様を懐中電灯片手に大人に混じって見ていた。
天災は一瞬の間隙を縫ってやってくる。
そこに以下のような記述がある。
「大地震、家崩れ出火」
「山の如き大浪立」
「大地震の節は津浪起こらんことを兼而(かねて)心得、必ず船に乗るべからす」
大きな震動に襲われた大阪の人々は次の余震を恐れ、川に浮かんだ小船に非難。
江戸時代、商業の中心だった大阪には川が多く地震の際には舟に逃げ込むのが習慣化していた。
被害を拡大させたのは5ヶ月前に起きた別の地震の経験も災いしていた。
その際、僧侶が過去帳を調べると不思議なことを発見、以下のように記している。
「百三四十年前、右の家、津波ニテ、一家六人死シタル由記録アリ」
その犠牲者の中にこの一家の先祖六人も含まれていた。
これほどの惨事があったにも関わらず何故体験は伝承されなかったのか。
その理由は以下の如き。
「右ノ事話シ出セバ傷心ニ耐ヘサル故 兎角言ハヌ様ニイタセシ」
悲しみのあまり地震のことは話さなくなったと。
舟に逃げて津波に襲われるという同じ過ちを繰り返すことになった。
石碑には宝永地震の悲惨な体験を教訓として活かせなかった悔しさが刻まれている。
そして碑文は訴える。
「年月が経てば伝え聞く人もほとんど無く、今また同じ場所で多くに人が亡くなった、痛ましいこと限りない」
締めくくりは以下の如く。
「心あらん人、年々文字よみ安きよう墨を入れ給ふべし」
そして現在も被災者から5代目の人が年に一度、墨を入れて読み易くしている。
教訓忘るべからず!